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20 紅絹 もみ
大学生活の最後の日が目前に迫っていて、周囲がそれなりにソワソワとし始めていた。
卒制の評価も終わって、リカとのぞみちゃんとレオくんの合同インスタレーションは特別賞のギャラリー賞を受賞した。文字通り、お客さんからの投票が一番多かったインスタに与えられる賞で、ファッション科独自の採点システムによる賞だ。
それだけお客さんから支持を得たということは、あれを見た人がいっぱいいるということで、ほんの一部にでも関わっていたわたしとしては嬉しいような照れくさいような不思議な気持ちでいる。着物姿のわたしと普段のわたしがそんなに簡単にリンクするわけもないので誰も気付かないだろうけど。
でも、あのインスタの直後にワソ研に入部希望者が3、4人見学に来たりして、そういう意味では色々と貢献できたのかなと思う。
自分の卒制は相変わらず可もなく不可もなく、な講評だったけど、返ってきた成績表には優が付いていてびっくりした。あの教授にバンバン叩かれていた頃のことを考えれば、締めとしてはまずまずの結果だった。もし最後の一作まで貶され続けたら、予備校の講師の仕事はちょっと考え直した方がいいかもな、と思ってたので、とりあえずホッとした。
「はい。これ、モデルのお礼」
渡したいものがある、とリカに呼び出されて待ち合わせの場所に行ってみると、綺麗な紙袋を差し出された。
「お礼? そんなの、別に」
「いいから。開けてみて」
お礼を期待して引き受けたわけじゃないのに、と思いつつ、袋を開けてみる。
真っ白い袋の中に入っていたのは、真っ赤な、これは、インスタレーションで背景に使った布?
それから手で触れて、あの時の布地ではないとすぐにわかった。
「これ……絹、だね」
鮮やかな紅絹の地に、彩度を落とした赤で描かれたアネモネ。デザインは、わたしがインスタの背景用に描いたもの。でも、布地は全く違う。なめらかな絹の布地にあのデザインがプリントされている。
「あの版使って、絹用の顔料でのぞみちゃんが染めてくれたの。それをあたしが帯揚げに仕立てました。さすがに絞りは無理だったけど、せめて絹にしてみたよ」
袋から取り出すと、リカが手に取って広げて見せてくれた。
本当にあのデザイン。綺麗に印刷されている。
「版を重ねすぎると絹の軽やかさがなくなっちゃうからって、3版くらいでやめといた、って言ってたけど」
そう言われると、セットの背景に使ったものよりだいぶ柔らかい印象でシンプルだけど、絹の素材にすごく合っている。朱色がメインで美しい。
「すごい……綺麗!」
「サラにはいっぱいお世話になったから」
「わたしこそ……色々、すごく、助けてもらって」
色々あった。良いことも、大変なことも。でも結果的に、参加させてもらえて良かったと思っている。心の底から。
「楽しかったし、色々、やらせてもらえて良かった。ありがとう」
嬉しそうなリカが、ガバッと抱きついてきた。これをされると、わたしはいつも身動きが取れなくなる。リカ、大きいから。
「楽しかったね! 超、楽しかった!」
言い方にすごく実感が込もっていて、本当に学生生活最後の大きなイベントが終わってしまったのだと少し寂しくなる。
ふいに、リカが身体を放して、わたしをじっと見た。
「ねえ、更紗。あたしがなんで更紗にモデル頼んだかわかる?」
「え?」
「あたしね、更紗に、縛られてる状態から抜け出して欲しかったの。色んなものを身体中に巻きつけて、踠いて、がんじがらめになってる更紗に、解放されて欲しかったの」
わたしが、縛られていた? がんじがらめ?
「本当は捕縄でなくても良かったんだ。あたしは和服やりたくて、のぞみちゃんが組紐とか帯とかやりたくて、それができれば捕縄である必要はなかったんだけど、でもどうしても更紗に何かやって欲しくて、それならいっそ縛っちゃおうかな、って思ったの。もちろん、のぞみちゃんにもそれは了承もらったよ」
最初にモデルの話をもらった時、リカ、なんて言っていたのだっけ。確か、更紗のイメージだから、と言っていたような。その言葉の裏にこんな事情があったなんて。でももしそんなことを最初の段階で話されていたら、わたしはモデルを受けていなかったかもしれない。まんまとリカにハメられたというわけか。
「だから、あたしとのぞみちゃんとレオくんのインスタレーションだったけど、あたしの中で主役は更紗だったんだよ」
「そんなの……」
「あたしがマサヨシくんから脱皮できたみたいに、いつかね、サラにも縛られてる状態から解放された時の喜びみたいなものを知ってもらえたらいいな、って思ってたの」
わたしはいつも自分のことで精一杯で、周囲の人のことを考えてあげられる余裕なんて全然ない。自分の大事な卒業制作の時にそんなふうに思えるなんて、やっぱりリカはすごい。かっこいい。
「でもまさか、最後にあんなことが起きるなんてね。あれはあたしも想定外だった」
「それは……そのことは、本当にごめん」
「良いの。あれは結果的には成功だから。でも本当に良かったと思ってるよ。イオくんがあの場にいてくれて。更紗を助け出してくれて」
リカが再び、ふわっと抱きついてきた。
「ちょっと乱暴な形になっちゃったけど、最後までちゃんとやれて良かったと思ってる。ありがとうね。更紗」
「うん。こちらこそ。ありがと……」
自分からもしっかり抱き返して、この友情がいつまでも変わらず続けば良いな、と願った。本当に大好きなリカ。大事な友達。
「おーい、そこの学生ども! こんなところでイチャイチャすんなー!」
突然、頭上から大きな声が降ってきた。びっくりして見上げると、すぐ上の階段の踊り場から伊織さんが顔を出していた。
「うっわ、見つかっちった!」
リカがそんなふうに言うからそのまま解放されるだろうと思っていたのに、リカはわたしを放さないまま、むしろ余計に抱きかかえて伊織さんを煽るように見上げた。
「え、なにそれ。なにしてんの」
「いいじゃーん、あたしたち仲良しだし」
バタバタとすごい足音がして、あっという間に伊織さんが降りてきた。
「いやいやいやいや、ちょっと、さすがにやりすぎじゃない?」
「そんなことないよねぇ? ずーっと前からこんなだよねぇ、あたしたち」
いや、やりすぎだと思うけど、と言いたかったけど、なんだかふたりのコントみたいなやりとりの勢いに押されて口出しできなかった。
「ちょっと離れようか。ね。周囲の目もあるし」
伊織さんがわたしをリカから引き離そうとしたりして、わちゃわちゃとその場が賑やいだ。本気でそんな取り合いみたいなことをしようとしてるわけではないことはわかっている。本当にただの悪ふざけ的な戯れで、もう少ししたらこんなやりとりも見られなくなるのかと思ったら、くだらないけどつい見守ってしまった。それくらい、こんなどうでもいいやりとりも愛しい。
「もぉー、いいじゃん別にー。なぁに、ヤキモチィ!?」
「うるさい! 小童が!!」
すごい言い方だけど、でもそこにはお互いに悪意なんて1ミリもなくて、本当に仲が良いのだということがすごく伝わってくる。もしかしたらこのふたりはもう、教員と学生という間柄以上のところにいるのかもしれない。
いいなぁ。羨ましい。
「あれぇ、そういえばイオくん最近、全然京都弁使ってないねぇ?」
「んー、そう? かねぇ。うん、まぁ……あんまり頑張らなくてももういいかなーとか思って」
そうか。わたしと話すときはほぼ標準語だから、全然気づかなかった。そう言われてみると、学校でいろんな人と話している時もだいたい標準語になっている。
「へぇええ。そーなんだぁ……ふぅーん……」
なにやら意味深っぽく呟いたリカの真意には、わたしは残念ながらたどりつけなかった。伊織さんが京都弁をやめた理由なんて全然わからない。ただとにかくふたりの間に流れる親しげな空気を、羨ましいと思いながら傍観することしかできなかった。
「そんなことより、きみたちもう色々終わったの? 搬出とか大丈夫?」
搬出、って、そうだった。作品、全部持ち帰らないといけないのだった。
「あたしはだいたい終わったー。別に大物とかなかったし」
「へぇ。サラちゃんは?」
「わたし、は……100号とかが、まだ……」
少しずつ持ち帰ってはいたけど、電車に持って乗れないサイズのパネルはまだ持ち帰っていない。自宅の乗用車では運べないサイズがある人は、家族にレンタカーを借りてもらって運んだり、運搬業者に頼んだりして搬出していた。
わたしは親に頼むのはどうしても気が引けて、近々業者に依頼しようかと思っている。
「まぁとにかく、立つ鳥跡を濁さないようにしなさいよー」
またふんわりと、風とか煙みたいにいなくなって、残されたわたしたちはドタバタ騒ぎの余韻をどう処理していいのか戸惑った。
「……なんだったんだ」
「ねぇ……あはは……」
まだやることが残っている。でもそれも、本当に終わりが見えてきていて。
「なんか……終わっちゃうねぇ……」
同じことを思っていた。
「そうだねぇ」
「本当は全然終わりじゃないんだけどね」
リカは無事に他大学の院に進学が決まって、本格的に和装の研究をするらしい。元々和物が好きではあったのだけど、卒制に向けて古典的な和装に本格的に向き合っているうちに、もっと色々と勉強したくなったのだと言っていた。
今までのファッションとしてのデザイン分野だけでなく、歴史や文化を更に掘り下げたり、風俗習慣に絡めて環境や風習などからくる小物や雑貨含めた和装全体のことについて学ぶのだという。
「お母さんにはまだまだ迷惑かけちゃうけど、あたしもバイトしながら頑張るし、これからも引き続きよろしくねー更紗!」
「うん。こちらこそ。わたしも講師頑張るよー」
美大を出ても、特に何をするわけでもなくプラプラしている人は多い。何か少しでも作品を作っていれば作家を自称できるけど、実際にそれで食べていけていなければただのフリーターか、最悪、ニート。たまにヒモみたいな人もいる。寄生先が違うだけの話。
働き口や進学先が決まっているわたしたちは、運がいいのかもしれない。
「そうねー。サラは頑張ることいっぱいあって大変ねぇ」
「……え? 何?」
また何か言い出したな、と思ったけど、できれば追求したくない。嫌な予感がする。
「えーまぁだトボケるの?」
こういう言い方をしている時は、たいてい恋愛関連の話だろうな。
何をどこまで知っているのだろう。リカと伊織さん、仲良いから。
そう思ったところで、猛烈なモヤモヤに襲われる。
でももうこれ、何なのか知っている。分かっている。
これは嫉妬。ふたりの仲の良さに嫉妬しているだけ。
本当は、さっきみたいなじゃれ合いも少し羨ましい。でもわたしはそこには入っていけない。性格的にも、立場的にも。
「もぉー、早く言っちゃいなよぉ」
こういうところは本当に女子だなぁ、と思う。可愛いけど、ちょっとウザい。
「…………ったよ」
「え?」
「……もう、言った」
多分、ちゃんと言わないと言うまで追及される。だからもうバラした方が早い。
「えっ? 何、何?」
「だから、もう言ったの!」
リカには弱い自分が恨めしい。もう絶対敵う気がしない。
「何を!? 何言ったの!?」
本気で知りたがっているみたいだし、伊織さんからは何も聞いていないのかな。
「……ちゃんと。気持ち、伝えた。好きって」
どんな顔して聞いてるんだろう、と思って逸らしていた目線をリカに戻そうかと思ったら、その前にいきなり抱きしめられて、顔を見れなかった。
「もぉおおお! サラ!! 頑張ったね!!」
泣き出しそうな勢いでそう叫んで、ぐいぐいと抱きしめてくる。
「苦しいよ、ちょっと……リカ……」
「もうホント、偉い! 偉いねぇ……頑張った……」
本当に泣いてしまったかな。リカ、優しいから。
「ありがと。リカがいっぱいいろんなこと教えてくれたから」
「本当に解放、されたんだね……よかったぁ……」
リカが願ってくれたこと。縛られている状態から解放されること。叶ったのかな。本当に、抜け出せたのかな。
リカと伊織さんが解いてくれたのだ。わたしは何もしていない。ふたりが、わたしの抜け出すルートを作ってくれた。
「で? で? イオくんはなんて?」
フッと抱擁が解けたと思ったら、リカが興味津々にわたしを覗き込んだ。しかも全然泣いていない。騙された。
優しく抱きしめてもらって、感動を分かち合って、とか、感動的な場面だと思っていたのに、リカはやっぱりこんなで雰囲気ぶち壊し。でもこれがリカなのだ。
「イオくんの気持ちは? 確かめた?」
「それは……」
わたしが言ってしまっていいのかな、そんなこと。でもきっと、リカはもう知っているんだろうな。
「んー……今でも、変わってないって」
照れ臭くて、少し遠回しな言い方をした。それをリカはちゃんと拾ってくれて、余計なツッコミは入れないでくれた。それをしたらわたしがもう口を閉ざすとわかっているのだ。
「やったー! サイコー!!」
もう一度わたしをギューギューと抱きしめて、リカは自分のことみたいに喜んでくれた。
「それで? それで? もう色々としちゃった?」
「は? なに?」
「だからぁ、色々と!」
「何も、まだ……付き合ってもないし」
女子ってこんなにめんどくさかったっけ。いや、めんどくさかったな。
「はぁ? なんでぇ? お互い好きだって伝え合った大人が、まだ付き合ってないの!?」
「そんなこと言ったって……」
「だってもうお泊まりもしたんだよね?」
なんだか色々とおかしなイメージを持たれているような。違うのだけどな。
「したけど、ただ泊めてもらっただけで」
「なにそれ……なにしてんの、あんたたち……」
呆れた顔してリカがわたしを見下ろす。いつもクリクリの目が半分くらいになっていて怖い。
「いいじゃん、そんなの。わたしたちは、わたしたちのペースで……」
「あんたたちのペースだから心配してるんじゃん。色々とのんびり過ぎだよ」
恋愛の方法なんて人それぞれで、誰かにとやかく言われることではないとは思う。でも、わたしみたいな初心者とか伊織さんみたいなキャラこじらせタイプは、上手くやっている人から見たら焦れったいんだろうな、と理解はできる。
そんなわたしたちふたりの恋愛なんて、本当に上手く行くのかな。
「でもなぁ……サラのその態度はなぁ……」
「え? 態度?」
「そうだよ、態度だよ。サラのイオくんに対する態度がさ、もう100%、先生に対する学生のままじゃん」
目上の人に対しては、とか、親から躾けられた当たり前のことをしているつもりだったけど、ダメだったのかな。指摘されたということは、ダメなんだろうな、たぶん。
「そんなんで手ェ出そうとか思えるわけないよ。罪悪感湧きまくりだろうなぁ」
「そう、なのかな……」
言われてみて、一気に不安になる。罪悪感。確かにそうかもしれない。
「わたしの態度、そんなに、その、よそよそしいかな」
独り言みたいになってしまった問いかけに、リカは聞こえなかったふりをしてくれた。きっと、たぶん、そうなのだろう。他人行儀、なのかもしれない。
本当はもっと近付きたい。もっと側に行きたい。もっと、仲良くしたいのに。
「もぉ。片思い中の処女じゃあるまいし。もっとガツガツ行っちゃえばいいのに」
「……ちょ、っと、何言って……」
「あーでも処女みたいなもんか。サラ、誰かとちゃんと付き合ったことないもんねぇ。素人童貞みたいなやつか!」
「もー! やめてよ!」
一応キャンパス内で、普通に周囲に人がいて、そんなことを周りに聞こえるような音量で話されたらたまらない。
本格的な恋愛はまだしたことないけど、好きな人がいたことだってあるし、色々、小説とか漫画とか映画とか、恋愛のシミュレーション的な疑似体験ならいっぱいしたし。
でもやっぱり本物がどういう感じかはわからなくて、それをいつか自分でも経験できるのだとしたら、単純に楽しみだしその可能性があることが嬉しい。
「あれぇ、でも待って、それだったらさっきあたしがイオくんのこと煽る必要なかったじゃんねぇ」
リカがこちらをチラリと見てから、ニヤリといたずらっぽく笑った。
「なぁーんだ。そっかー。ひとまず上手くいってたんだぁ」
何だかんだ言いながら嬉しそうに体を寄せてきて、腕をべったり絡めてまとわりついてくる。また伊織さんに見られたら面倒だよ、と思うけど、こうして意味もなくダラダラ過ごせるのもあと少しかと思うと、こういう時間も惜しい。
「楽しみ。えへへ」
そんなふうに人の恋愛事情に頭突っ込んで、まるで近所のお節介オバサンだよ、と思ったけど言わないでおいた。リカは本気でわたしと伊織さんのことを上手くいくように願ってくれている。それがわかるから、余計なお世話も黙って受け入れておこう。
リカがくっついている腰のあたりでスマホがブルッと震えてふたりでびっくりして、お互いに自分のスマホを確認したら、鳴っているのはわたしの方だった。
「あ。伊織さんだ」
しかも、メッセージではなくて通話のコール。
「え、出なよ、早く」
「うん……」
校内で通話なんて初めてで、何事かと思って、恐る恐る応答ボタンをタップする。
「はい」
『サラちゃん? あのね、今、大学のワゴン借りられたから、搬出手伝うよ』
うわ。本当に伊織さんだ。しかも、何? 搬出?
「え、今から、ですか? でも……」
『いいから。私の用事で借りたついでだから大丈夫』
あ、この勢い、逆らっても無駄なやつだ。
『いいのいいの。とりあえず教室から運び出すの手伝うから、10分後くらいに日本画行くね』
「あの、あ……」
『じゃあ後でね』
ものすごい勢いで話が進む。そして決まる。
「切れた……」
「なんだって?」
「搬出、学校の車借りたついでに、手伝ってくれるって。10分後に日本画」
「早ぁ……、イオくん本気出してきたな」
さすがのリカも驚いた顔をしている。
「……いいのかな」
「いいんじゃない? どうせ何かしら理由つけて断れないようにしてんでしょ」
「……ん、そんな感じだった」
こういうの、職権濫用というのではなかったっけ。大丈夫なのかな。
「いいじゃん、手伝ってもらいなよ」
「……うん」
正直、一緒に居られるのは嬉しい。しかも車で、とか、なんだか色々いきなり飛び越えた感、ある。でもまだ本当に何も付き合うとかそういう流れになっていないのにそんなことまでしてもらってもいいのかわからない。
まさか、他にも何人かの搬出手伝うついでで同乗者が他にもいたりとか、ないかな。いや、逆にいたらいたで、その方がいいのかな。いきなりふたりきりとか、そっちの方が緊張するかな。だめだ。考えれば考えるほどわけがわからなくなる。
「向こうが言ってくれてんだから、甘えちゃえばいいんだよ」
「そう、なのかな。伊織さん、誰にでも優しいから」
そう。それが問題。本当に誰にでも優しいから。
「それ! その、伊織さんっていう呼び方! それがよそよそしいんだよね」
「えー、でも」
「そんなふうに呼ぶ人ほかにいないじゃん」
イオくん。みんなそう呼ぶ。リカ以外の人も。みんな。この半年、学校で伊織さんを見ていた時に、伊織さんと呼んだ人は誰もいなかった。ほとんどイオくんで、たまに義武さん。だからわたしはあえて伊織さんで通した。
「……だからだよ」
「え?」
「ほかに呼んでる人いないからそう呼びたかったの。あと、わたしにとっては伊織さんは、くん、って感じじゃないし」
中性っぽくはある。ニュートラル。でもやっぱり伊織さんは女性で、男性でもないし男性の代わりでもない。それはわたしのこだわりで、わたしにとってはイオくんではない。
「あー、それね。それ不思議なんだけど、まぁサラはそういう人だよね」
伊織さんを王子様設定にしたい気持ちは、わからなくはない。例えば本人がそれを望んでいるなら、わたしも伊織さんをイオくんと呼んだかもしれない。でも伊織さんは違う。伊織さんは男性になりたいと思っているわけではないから。
「あの人は、わたしにとっては王子じゃなくて姫なの」
「え? 姫?」
「そうだよ。姫なの」
「……変わってんなーとは思ってたけど、本当に変わってるわ、サラちゃん」
そう言いながらも少し嬉しそうで、わたしもなんとなく嬉しくなる。
「こないだのインスタの最終回も、みんな王子が助けに来たとか言ってたけど、あれは姫だったの。王子じゃなくて、姫」
あのイケメンを姫だと言うのは確かに無理があるかもしれない。でも本当にわたしにとっては伊織さんはお姫様なのだから仕方ない。
「ふーん。まぁいいよ。どっちでも。サラにとって特別な人だってことには変わりないんだし」
リカがそう言って、スマホのホーム画面を見た。それからその画面をわたしの方にも向けて、表示されている時計を見せてくれた。
「じゃあ、ほら、姫のところに早く行きな。もう来ちゃうんでしょ」
「あ、そうだった。じゃあ行くね」
つい話し込んでしまって、もしかしたら約束の10分後を過ぎてしまうかもしれない。急がないと。
「これ、帯揚げ、ありがとね。すっごく嬉しい。のぞみちゃんにもお礼のLINEしとくね」
「うん。いつか使ってね」
「うん、使う。じゃあまたね」
「バイバイ」
本当に、大学生活が終わる。あと少しで。
こんな大学来なきゃ良かったなんて思ったこともあったけど、最後は悪くない印象で終えられそうでホッとした。リカに会えて、リカと過ごせて、伊織さんとも会えた。色んな体験ができた。
楽しかったな。
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