21 水縹 みはなだ

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21 水縹 みはなだ

「ねぇねぇ。なんでソッポ向いてるの?」  運転席にいる伊織さんが何度も話しかけてくる。その度にわたしは、できるだけ前を向いたまま、余計な会話が広がらないようにして当たり障りのない返答を繰り返した。 「え、別に……」  怖いからよそ見しないで運転に集中して欲しい。 「なんでよぉ。こっち見てよぉ」 「いや、いいです」  諸事情あって、今は伊織さんのお願いは聞けない。  100号のパネルをあんなに軽やかに運べる女の人かっこよすぎて惚れ直して目が合ったら緊張と興奮でどうにかなっちゃうかもしれないから伊織さんの方は見れない、とか、絶対に言えない。  リカと別れて日本画の教室に戻ったら伊織さんはもう来ていて、60号2枚と100号1枚のパネルを運ぶのを準備から手伝ってくれた。  研究室が用意してくれた梱包用のクラフト紙で包んでからエアキャップでさらに包んで養生テープで固定。さらに古布を縁に当ててそこに荷造り用の紐をかける。60号は持ちやすくしてもらったおかげで1枚ずつならわたしが持てた。100号はさすがに1人では運べないから2人がかりかな、と思っていたら、伊織さんがそっちもあっという間に梱包して1人で運ぶ用に持ち手を付けてしまった。パネルだけでもたぶん8キロ以上あって、絵の具や梱包材その他諸々含めたら10キロ超えていそうで、しかもバカでかい。描いている間も、運ぶときは必ず誰かに手伝ってもらわないとどうにもならなかった。それを、伊織さんはひとりで軽々と運んでしまった。  さっきリカと一緒に会った時は普段着だったのに、わざわざ作務衣(さむえ)に着替えて来てくれて、びっくりするくらいサクサクと作業してくれた。  手際の良さと丁寧さとその所作の美しさに見入ってしまって、わたしはほとんど何もできなかった。嫉妬心なんて微塵も湧かないほどかっこよかった。  一度好きだと認めてしまったら、あとはもう砂山が水の流れに削られて崩れていくみたいにその勢いは止められなくて、今までよくセーブできてたな、と感心してしまうくらい気持ちが大きくはっきりとしてきた。  だから、今までみたいに伊織さんを見れなくなった。  車の中という密室でこの距離でふたりきり、という状況が、もういたたまれない。一度は一つのベッドで寝たこともあるのに、それが現実だったとは思いたくないほど照れくさい。 「あれ……もう近くだよね?」  だめだ。緊張しすぎて思考がおかしくなっている。ナビのガイドを確認した伊織さんに声をかけられて、慌てて周囲の景色を確認した。 「あ、はい。あの、あのコンビニの交差点を右折です」  伊織さん、後悔していないかな。こんなこと手伝ってくれて、めんどくさいとか思っていないかな。つまらなくないかな。 「……よし。オッケー。あ、思い出した。こないだの道だね。なるほど、逆から来たのか」  わたしのために大事な時間を使ってくれて、なんでそこまでしてくれるのだろう。卒業式近くて忙しいだろうに。 「お家の前に停めても大丈夫かな?」 「……あの、母がいると思うので聞いてみます」  今日は母は家にいると言っていた。父は不在なのも確認済み。だから伊織さんの申し出を断らなかった。  あの揉め事の後、わたしは父とはほとんど顔を合わせていない。母に確認して、父がいる時間を可能な限り避けていたから。わたしが父を避けても、母は特に何も言わなかった。血の繋がった家族とこんな気まずい感じで、これからどうなるんだろう、と思うけど、同時に、自分はもう親がいないと生きていけない歳でもないんだな、とすごく冷めた感情もあることに気づく。  家の駐車場には車はなくて、やっぱり父は出かけているのだとわかってホッとした。自分ひとりならまだしも、伊織さんがまた父とブッキングしてしまうことはどうしても避けたかった。 「ちょっと待っててください」  伊織さんにそう伝えて家に入ると、母はキッチンで夕食の支度をしていた。ただいま、と伝えると、いつものようにおかえりと返事をしてくれる。 「お母さん、ちょっと、あの、義武先生が絵を運ぶの手伝ってくれて」 「え? 先生? いらしてるの?」  びっくりした様子で菜箸を置いて、手を洗ってバタバタとキッチンから出てきた。 「うん。車じゃないと運べない大きさで、運転してきてくれて」  リビングの窓から外を見て確認をしている。 「あらあらあらあら、ちょっと、じゃあ上がってもらって。車、ガレージに入れていいから。あらでも大きいわねぇ、入るかしら」 「ちょっと聞いてみるね」  上がってもらって、なんて。そういう展開は考えていなかった。だからと言って、運んでもらうだけもらってはいさよなら、というのもどうかと思うけど。全然何も考えていなかった。失敗した。  運転席で待っている伊織さんに近づくと、窓を開けてくれた。 「あの、母が……その、上がってもらいなさいって」  そう言っている間に玄関から母が出てきた。 「義武さん、すみません。こんな所まで運んでいただいて。ちょっと上がっていきませんか」 「あ、いえ、あの、私は……こんな格好ですし……」  作業着なことを気にしているのかな。そんなの、美大生の親なら全然抵抗ないのに。 「大丈夫ですよ。どうせ家中、絵の具だらけですし。気にしないで、どうぞ上がってください。車、ガレージに入りそうなら入れちゃってくださいね」  しつこくして困らせたらやだな、と思ったけど、どうしよう。わたしが何か言ったほうがいいのかな。なんて言えばいいのだろう。 「何かこのあと用事でもあります?」  迷っているうちに母が先に訊いてしまった。 「いえ、それは、特には……」 「じゃあぜひ、上がってください」 「はい、じゃあ、少しだけ」  結局、母の押しに負けた。わたしも何も言えなかった。困らせたかな。でも、伊織さんももういい大人だし、もし本当に嫌なら何かしら理由をつけて断っただろうし。  なんだか、すごい展開になってしまった。でも、まあいいか。 「先日はとんでもないところをお見せしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」  自慢の紅茶コレクションの中で一番のお気に入りだというダージリンティーを淹れてきて一緒に席に着いた母が、いきなり口にした。初っ端からその話題か、と思ったけど、流れとしては仕方ないのかな。できればこれ以上我が家の恥部を見せたくないのだけど。 「いえ、そんな……」  伊織さんも返事に困っている。それはそうだろう。よその家庭のゴタゴタなんて、巻き込まれても困るに決まっている。  来客用で普段ほとんど出してこない洒落た造りのトレイに、来客用のティーカップがふたつ、母が普段使っているカップ、それとティーポットと茶葉の入った缶が乗せられている。  水縹(みはなだ)の円柱の缶には三角屋根のテントみたいな飾り枠が描かれていて、やたらとノーブルな雰囲気。普段見たことはないし、たぶん飲んだこともない。  ポットからカップにティーを注いで、わたしと伊織さんの前に置きながら、母は話し始めた。 「主人は昔気質の頑固者で、それに加えてあの時はお酒飲んでたから」 「もういいよ、お父さんの話は」 「ごめんね、更紗も。怪我してなかった?」  もしかしたら、いい機会なのかもしれない。言うタイミングを探していた。ずっと思っていたこと。話したいと思っていたこと。 「あのさ。わたし、卒業したら家出ようと思ってるんだけど」  何の前触れもなく唐突に振ってしまった話を、母は一瞬驚いた顔で聞いていた。でもそれからすぐに目を瞑って、小さく息を吐いてからゆっくりと口を開いた。 「……そう、なの。そうね。それがいいのかもしれないね」  速攻で反対されるだろうとなんとなく思っていた。反対どころか、怒られるかな、とも覚悟していた。だから、この母の反応はすごく意外で、正直びっくりした。 「お父さんがうるさく言うかもしれないけど、もう決めたから」  そう。問題は母よりも父。父は手強い。 「お父さんはもういいのよ。放っとけば」  このあいだから、母はやたらと父をわたしから遠ざける。こちらとしてはありがたいけど、真意はどこにあるのだろう。 「でも、学費……誰のおかげで、ってお父さんいつも言うじゃん。だから、わたしこれから働いて、大学通った分は全部返そうと思ってるから」 「そんなことしなくていいよ」  即答。親としてのプライド的に、当然の反応か。 「でも恩着せがましくいつまでもうるさく言われるのやだし」 「大丈夫よ。だってお父さんが出したお金じゃないもの」 「……え? だって、お父さんいつも……」  予想と違う流れに、戸惑う。 「お父さんも自分が出してると思ってるんでしょうけど、違うのよ」 「どういうこと?」 「家計預かってるから私が全部管理してるけど、更紗の学費はお父さんじゃなくて私が出してるの」 「……そうなの?」  初めて聞いた。働いていない専業主婦の母が学費を出してくれているなんて、考えたこともなかったのに。 「そう。まぁ、正確には私の父がね、あんたのおじいちゃんが出してくれてたの」  なるほど。それなら納得できる。祖父は大企業の偉い人だったと言っていた。 「お父さん、それ知らないの?」 「まぁ、聞かれなかったから言ってないだけ」  最近、母のこういう新たな一面をよく見るような気がする。わたしがこの家から出て行こうとしているのと同じように、子どもにとっての「ちゃんとした母」が終わろうとしているのかもしれない。 「そうだったんだ……」 「父が生前贈与でそれなりの額を私に残してくれて、子どもたちの学費に使いなさい、って言ってくれたから」 「お父さん、そのこと知って怒らないかな」 「もう今更でしょう。終わったことだし。いいのよ、もう」  やっぱり変わったな。いや、変わったのではないのかも。こっちが本来の母なのかな。 「……俺様がこの家を支えてるんだ、っていう人だからさ。実はそうじゃなかったって知ったら怒りそう」 「バレちゃったらバレちゃったで私がなんとかするから、更紗は気にしなくていいから。あんたは自分で頑張って生活していきなさい。学費は返さなくていいからね」 「うん。ありがとう」  家を出たいという目標の一番のネックだと思っていたことが、目の前から消えた。すごい。嬉しい。助かった。 「それで? 講師の仕事だけでやっていける算段は?」  今は学生バイトで、母にはそのまま同じところで働く、としか伝えていなかった。 「最初は契約社員っていう形で雇ってもらえるから、しばらくはそれでやってみる」 「そう。良かったじゃない」  ちゃんと仕事が決まっているということはアピっておかないと、後から家を出ることを反対されるかもしれない。だから、そこはしっかり伝えられて良かった。  母は安心したように嬉しそうにしている。 「義武さんは、日本画の先生?」 「いえ。私は別の、染織デザイン科の助教で、今回は更紗ちゃんの友達の卒制関連で一緒になって」 「リカの卒制を手伝ったって言ったでしょ。その時にお世話になったの」 「あらそうなの。リカちゃんの」  リカは何度も遊びに来たことがあるから母もよく知っている。もちろん、トランス女性だということも。でも父にはトランスのことは伝えていない。嫌な予感しかしないから。母はその秘密を守ってくれていて、そういうところは感謝している。 「更紗、義武さんにはプライベートの部分も色々知られちゃって大丈夫なことになってるの?」  いきなりの質問に、どう答えていいか戸惑う。そんなの、範囲によるとしか。 「……それ、は、えっと、まぁ……うん、大体は」 「初めてお電話でお話しした時も、先日も、先生のお宅に泊めていただいたようだし、今日だってこんなふうに個人的にお手伝いしてくださってるってことは、それなりに距離の近い関係だと受け取ってもいいのかしら?」  どう考えても、学生に対する教員ポジションだとわかっている人にする質問ではない気がする。何を知りたくてそんな質問したんだろう、と思うけど、そんなことを考えている暇がないくらいズバッと母の言葉が斬り込んできて、焦った。 「え、ちょ、っと、お母さん、待って」 「あら、違うの?」  パニックになりかけながらも、ものすごい違和感にちゃんと気づいた。おかしい。すごく大事なところをスルーされている気がする。 「……その前にさ、何も不思議に思わないの? 義武先生、女の人だけど」  わたしがそのことについて触れたら、たぶんもう逃げ場はなくなる。  無意識のうちに覚悟ができていたのかもしれない。いつか母には本当のことを伝えることになるかもしれない、と。 「何言ってるの、今さら。それでお父さんと何度も喧嘩してきてて、今さら何を不思議に思うのよ」 「……娘が友達ではない女の人連れて来たんだよ?」 「そうねぇ」  思っていたのとだいぶ違う反応をされて、わたしもどうしていいかわからない。 「怒らないの?」 「何を怒るの?」 「……ちゃんと、ちゃんとしなさい、って」  声が、震える。 「ちゃんと普通に、男の人連れて来なさい、って」  頑張ってそこまで言うと、母の顔がスッと曇った気がした。 「私のせいね」 「え?」 「更紗が苦しい思いして来たの、私のせいでもあるのね、って言ったの」  冷めかけた紅茶をクッと飲んで、母はため息みたいに一つ息を吐いた。 「義武さん、ごめんなさいね。色々と家庭の事情を話すけど、もし気分を害するようなことがあったら適当にお帰りいただいて構わないので、お好きなようにしてくださいね」  そう言われた伊織さんは、わたしの方へ顔を向けるとじっとわたしを見た。 「私も聞いててもいい?」  わたしが決めていいということかな。それなら。 「はい」 「じゃあ、このままいさせてください」  我が家の恥部は知られたくないけど、このことはわたしのアイデンティティにもきっと関わってくることで、これから一緒にいたいと思う伊織さんには聞いてもらった方がいいような気がした。  伊織さんの意思を確認した母が、改まった感じで話を始めた。 「お父さん、婿養子なの、知ってるでしょ?」 「あー、うん、なんかそんなこと言ってたね」 「私とあの人ね、遠い親戚だったの。結婚するまではお互いを知らなくて、私もあの人も、それぞれ他に好きな人がいたの。でもね、今で言う政略結婚みたいな感じで一族で勝手に話を進められてしまって、どちらも逆らえなくて、好きな人と一緒になることは諦めて結婚することになったの」  母が良いところのお嬢様だったという話は知っている。父がよく自慢していた。そのことに、そんな裏話があったなんて。 「お父さんには他にもたくさん兄弟がいたんだけど、お父さんが一番末っ子で、あちらの家系の中で、言わば一番いなくなっても損が少ない人、ってことであの人が選ばれてこちらの婿養子に入ることになってね」  それは、悪い言い方をすれば「一番要らない子」というふうにも受け取れる。もしそうだったとしたら、お前が一番不要だから他所に行け、と言われたのならキツいだろうと思う。 「でも、プライドの高い人だから、婿養子に入る条件をいくつか出してきてね。家庭での関白と、一族の会社での地位、つまり役職をね、約束できるんなら婿養子に入ってやってもいい、っていう話になって」  結婚前からそんな傲慢な人だったのに、よく母は受け入れたな、と思ったけど、逆らえなかった、と言っていた。そういう時代だったのか。わたしには絶対無理だ。 「そういう、自分の希望が通らない、自分の力ではどうすることもできない結婚生活を送らざるを得なかったから、あの人もあの人なりに苦労してきたんだと思うの。婿養子だからって舐められたり、一族のコネ入社だからって見下されたりしたくない、っていう思いが強かったんだと思うのね。まぁ、ちょっと方向性間違っちゃってた部分もあるけど」  母でもそんなふうに思ってたんだ、ということがわかって、少しホッとした。そう思っていながらずっと堪えていたの、すごいな。 「私も、そんな家系に生まれた一人っ子で、時代もあって逆らえなくて、家を継がなきゃ、家庭を守らなきゃ、っていう気持ちで精一杯で必死にやってきたんだけど、そのことで更紗と明将(あきまさ)に辛い思いさせてたのだとしたら、悪かったなとは思ってるの」  母がそっと、わずかに頭を下げた。 「ごめんね。たくさん我慢させちゃったね」  ずっと、一方的に、なんで子どもの気持ちを考えないんだろう、と思っていた。でも、それはわたしも親の気持ちを考えられていなかったわけで、随分子どもっぽい勝手な思考で生きてきてしまったな、と少し反省した。 「だから、更紗には、ひとり立ちしたら自分の好きなように生きていって欲しいと思ってるのよ。好きな仕事して、好きな人と一緒に生きて欲しい」  正直、混乱する。今まで言われてきたことと違いすぎて。全部をすぐに受け入れることは難しいかもしれない。もっと時間が欲しい。 「私みたいにはならないでくれたらいいなって思ってるのよ。結婚も仕事も家庭も子どもも、こうしなきゃいけない、ってことはないから。全部更紗が好きなようにすればいい」  理想的だと思う。でもまだ、本当にそんなことして大丈夫なのかと疑ってしまう自分がいる。自信がない。 「一緒にいたい人が男性か女性かなんて、そんなことはどうでも良いわ、私には」  思わず伊織さんの方を見てしまったら、伊織さんもわたしの方を見ていた。 「お父さんはね、やっぱり古い考えの人だから、理解したり受け入れたりするのはもう難しいと思う。正直なところ。でも私は、更紗が自分で決めれば良いと思ってるから。お父さんの対応は私に任せとけば良いからね」  再び母の方へ目線を戻すと、母はしっかりとわたしを見ていた。母の顔ってこんな顔だったっけな、とか、別の人を見ているような気持ちになる。なんだか不思議な感じ。 「もう親の言いなりになんてならなくて良い歳なのよ。更紗が幸せだと思う生き方を選べばいいの」  母がただ意思もなく父の言いなりになっていたのではないとわかって良かった。自分がまだ親の庇護の元にいるうちに、こういう話ができて本当に良かった。 「ちゃんと自分で決めなさい。それで、自分で決めたのなら責任を持って生きていきなさい」  ちゃんと。  母の口から、いつもと同じように出てきた言葉。でもなぜか今は、今までと違う意味に聞こえた。 「うん」  ちゃんと自分で。そうか。もう、自分で決めていいのか。  伊織さんが今日来てくれていなかったら、こんな話をする場を設けることはできなかったかもしれない。すごくいいタイミングだった。 「義武さん、我が家の事情に付き合ってくださってありがとうございました。変な話聞かせてしまってごめんなさいね。お聞きの通り、家の事情は色々めんどくさいのだけど、更紗は幸い、ひねくれてはいない子なの。意地っ張りだし気が強いけど、根はまっすぐに育ってくれたと思ってます」 「はい。わかってます」  全く想定外の状況なのに、伊織さんが正面からしっかり向き合ってくれているのが嬉しい。すごく。 「ここであなたに更紗の全てを託すのは親としてはやるべきことではないと思うので、しません。でも、もしこれから更紗と一緒にいてくださるのなら、どうかふたりとも楽しく一緒に過ごしていただけたら、母親としてはもう言うことないです」 「はい。それは、必ず」  かっこいいな。伊織さん、やっぱりかっこいい。  ドキドキする。  伊織さんを好きになって良かった。  好きになったのが伊織さんで、本当に良かった。 「更紗、今日はこれからどうするの? ウチで食べるなら今から作る量増やすけど」 「あ、えっと……今日、は」  何も約束はしていない。相談も。これからどうするかとか、何も。  でも、なんとなく離れたくないな、と思う。伊織さんと一緒にいたい。 「お父さんなら今日は帰ってこないの。泊まりでゴルフ。(あき)はもう少ししたら帰ってくるけど、良かったら義武さんも一緒にどう?」 「ありがとうございます。でも今日は、できれば私の家でサラちゃんと過ごせたらと思ってて」 「あら、そうなの」  嬉しい。同じことを思ってくれていた。 「それでいい?」 「はい。大丈夫です」  わたしにもちゃんと確認して、意見を聞いてくれる。いちいち優しい。 「じゃあすみません、今日もサラちゃんお預かりします」 「はい、よろしくお願いしますね」  結局全部伊織さんに決めさせたし言わせたし、わたしはまた何も動けなかった。トロくて嫌になる。かっこわるい。 「じゃあ、絵だけ運んじゃうから、置く場所教えてもらえる?」 「はい」  自室へ案内しようと階段へ向かう。 「サラちゃんは、お泊まりの準備したら?」 「あ、そう、ですね。はい」  自室の場所を教えて、伊織さんが絵を運んでくれている間にわたしは言われた通りにお泊まりの準備をする。衣類や化粧品をバッグに詰めながら、こういうのは初めてだな、と思った。今まで泊まった時は、二度とも突発的な成り行きで、何の準備もしないで行った。でも今日は、これから泊まるのだとわかっていて準備をしてから行く。なんとも言えない恥ずかしさとか照れ臭さとかがジワジワと湧いてきて、近くに伊織さんがいなくて良かったなと思った。 「更紗。あんた頑張りなさいよ」  突然、背後から声をかけられて、飛び上がりそうなほどびっくりした。振り向いたら母が部屋の入り口に立っていた。 「え、何を?」 「義武さんをしっかりモノにしなさいよって言ってるのよ」 「は? え? 何のこと!?」  何を突然言い出すのかと。 「まだそこまで特別な関係ではないんでしょ? あんたの態度見ればわかるわよ。グズグズしてると、あんなかっこいい人すぐ誰かに取られちゃうわよ、っていう話」 「なんで? は?」  情けないくらいテンパっているのが自分でもわかる。焦りすぎ。 「いいからとにかく頑張りなさい。お父さんのことはもう気にしなくていいから」 「……うん」  わたしがセクシュアルマイノリティだということを認識した上で応援してくれているのだ。母だけでも受け入れてくれたなんて、本当に夢みたい。 「家のことも会社のことも、もう一族云々っていう時代じゃないのわかってるし、更紗はともかく、明将にもあまり背負わせたくないと私は思ってるのよ。お父さんはそうじゃないと思うから簡単ではないんだけど」  みんなそれぞれ事情があって、血が繋がった家族でも個々はあくまで別の人間で、誰も誰のことも縛り付けることはできない。そんな当たり前で単純なことが見えなくなっていた。 「だからあなたはあなたの生き方をしっかり見つけなさい」 「うん、ありがとう」  母も、この家でまだこれからも長い時間を過ごしていくのだから、母自身も同じように自分の思うような生き方ができればいいのに、と思う。きっと、父がいる限りそれは難しいのだろうな。でもそれも、きっと母は納得しているのだろう。 「家を出る準備は、そんなに急ぐ必要ないから、仕事に支障ない範囲で時間見つけてしっかりやりなさい」 「うん」 「もう子どもじゃないんだし、私も余計な口出さないようにするけどね、何かあったらいつでも頼っていいんだからね」 「はい」  最初こそ逆らえない一族の力に流された形だったけど、でもこうしてずっと家族としてやってきて、今の母はそんなに不幸そうには見えない。子どもに見せる側の顔も、最近時々見せる芙美子さん側の顔も、今ならどちらもそれなりに幸せそうだと思えた。 「じゃあ義武さん、またいつでも遊びに来てくださいね」 「はい、ありがとうございます。お茶、すごく美味しかったです」  玄関までわたしたちを母が見送りにきてくれた。 「それにしても本当にかっこいいわねぇ、義武さん」 「え、いえ、そんな……」  突然おかしなことを言い出した母と、その言葉にうろたえる伊織さん。そしてそれをどうしていいかわからず黙って見ていることしかできないわたし。なんだかシュールで不思議な光景。 「月嶋蓮さまの若い頃にそっくりだわぁ」 「え? なに? だれ?」 「ううん、なんでもないの。じゃあ、気をつけてね」  結局、何が何やらよくわからなかった。でももう色々疲れたし、まあいいや。 「じゃあ行って来ます。また連絡するね」 「失礼します」  外に出たらもう暗くなっていて、思ったより長く滞在してたのだと気付いた。 「車は明日返せばいいから、とりあえずウチ行こうか」 「はい」  変な話を聞かせてしまったけど、そんなに気を悪くしたりはしていなさそうで良かった。  いつも使っているバッグ。今日はお泊りセットが入っている。そのことが、なんだか無性に照れくさくて、誰にも気づかれませんようにと心の中で祈りながらそっと抱きしめた。
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