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24 天鵞絨 びろうど
「ただいま」
「うん、おかえり」
伊織さんの家に着く前に、電車の中からLINEで連絡をした。その時に、試験は家に着いた時から始まるから、と言われた。
8日間、ずっと考えていた。伊織さんと対等に向き合う方法。
年齢もキャリアも立場も、全部違う。全然違う。差がありすぎる。だから、今すぐに何もかも対等になんてなれるわけがない。
でも、そういう壁を作らないようにしよう、という意味で出された課題なのだと自分なりに解釈した。そのためにできることをするしかない。
「お疲れさま。楽しかった?」
「うん。それなりには」
今すぐにできることは、とにかく敬語をやめること。それはこの8日間、LINEのやりとりで必死に練習した。
「お腹空いてない?」
思い出しながら、少しずつ。
「平気。色々食べてきた。レストラン貸切だったから美味しかったよ」
本当は、早く帰りたくて、謝恩会を心から楽しむことはできていなかった気がする。ずっと上の空で、教授連中と話したいことも特になかったし、仲良かったクラスメイトと少し話して最低限の拘束時間を乗り切った。
頑張って急いで来たけど結局もう22時を過ぎていて、迷惑じゃなかったかな、ということばかり気になってしまう。
「泊まってくでしょ?」
「はい……あ、うん」
気を抜くと、ミスる。試験中だった。
「泊まっても平気?」
「もちろん」
思ったことは口に出す。
「ありがとう」
「あはは、緊張してるな?」
「……そんなの、するに決まってるよ」
こんなのでいいのかな。大丈夫かな。リカと話す時とかを思い出してやってみているけど。
「大丈夫だよ。落第しても合格するまで強制追試だから」
すごく穏やかな表情と声で鬼のようなことを言っているけど、試験なんてただの表向きのスタイルなだけで、合格とか不合格とかは実質的には意味がないのだろう。
「ちょっと飲もうか。お祝いだし」
「……うん」
「じゃあお風呂入っておいで。準備しとくから」
甘えっぱなしだな、と思う。頼り過ぎている。いつも。そういうところも対等に、なった方がいいのかな。いいのだろうな、本当は。
「うん、ありがとう」
もう慣れてしまった伊織さんの家でのルーティン。どこに何があるか、何をどう使えばいいか。色々知ってしまったけど、わたしが伊織さんの生活にズカズカと踏み込んで行くことを当たり前のことだと思うのは、少し怖い。
伊織さんは普通にサラッと受け入れてくれるけど、いくらお互いを好きでも他人なことには変わりないし、してもらうことやさせてもらうことを当たり前だと思うことは避けたい。
そうか。だから言うのか。思ったことを、ちゃんと。
なるほど。ちゃんと伝え合えば、誤解やすれ違いは起こりにくくなる。そのためのルール。
HSPについても、わたしなりに色々調べた。相手の気持ちや空気を細かく読み過ぎて苦しくなってしまう性質がある。お互いにそうなら、余計しんどくなる可能性がある。それならやっぱり、ちゃんと話して伝えて、というのが特に大事なのだとわかる。
ずっと一緒にいたい。そのためにできることは何かを、ちゃんと考えよう。
「卒業おめでとう」
お風呂から出ると、テーブルの上にちょっとしたおつまみと美味しそうなお酒が数種類置いてあって、伊織さんもやることを終えたのか席に着いていた。
「ありがとう」
「疲れた?」
「んー、疲れたけど、平気。ちょっと足痛いだけ」
キャンパス内を草履でたくさん歩いたのもあるけど、恵比寿まで行ってきたのも遠かった。お風呂上がりの温まった身体に、氷で冷えた甘い果実酒が沁みる。
「おかわりあるよ。違うの飲む?」
「うん、でもちょっとだけにする」
あんまり酔いたくない。色々、ちゃんと話したいから。
「そっか。じゃあ、こっちの方が弱くて美味しいよ」
それから、いろんな話をした。
大学のこと。仕事のこと。家族のこと。これからのこと。
取り立てて新しいネタはなかったけど、いろんなことをじっくり話した。その緩んだ空気が心地良くて、気持ちもいい感じに解されていく。
会話は勉強の甲斐あって、ちゃんと対等に、敬語ナシで成立している。思ったよりかなり順調で、しかもその流れがすごく気持ちいい。すごく普通で、すごくスムーズ。
伊織さんが言っていた『対等』の意味が分かった気がした。
年齢や立場上の上下関係とかそういうことではない。もっと、心の位置というか、相手に対する気持ちの向け方みたいな、心の距離の取り方、という意味での『対等』なのだと思う。
「どうする? もう少し飲む?」
食器がほぼ空になって、会話のペースも落ちてきたところで、伊織さんが訊ねた。
「お酒はもういいかな」
少し眠くなってきて、時計を確認したらもう日付が変わりそうになっていた。そんなに時間が経っていたとは思っていなかったからびっくりした。楽しくてあっという間だった。
「じゃあ片付けちゃおう」
伊織さんがそう言って席を立ったので、わたしも一緒に片付けをした。
あっという間に片付いてしまって、さぁどうしようか、ということになって。
「もう寝る?」
「ん……」
話そうと思っていたこと、だいたい話せたかな。話し忘れたこと、ないかな。
「疲れたね」
「うん」
伊織さんが洗面所に行ったので、これはもう寝る流れだな、とわたしも後に続く。
寝る支度を終えて、寝室まで行って、ふと思う。
そういえば、今日はどうやって寝たらいいのだろう。また伊織さんはソファに寝るのかな。あれ、その前に、試験はどうなった? 合格? 再試験?
「じゃあ、最終問題、ね」
手を取られて、ベッドに誘導されて。促されるままに座ったら、伊織さんも一緒に並んで座った。
「最終、問題?」
「そう。これで最後」
何を出されるのだろう。最終? というか、今まで特に問題なんて出されていないけど。
「じゃあ、最後の問題です。私のことは、なんて呼ぼうか」
そうだ。大事。すごく。
これは本当は、ずっと考えていた。
最初から、みんながイオくんと呼んでいるこの人を、なんて呼ぼうかと。
普通に考えたら義武先生とか義武さんなのだけど、イオくんイオくんの中でわたしだけそれでは、さすがにひねくれすぎてるというか可愛げがなさすぎる気がして躊躇した。
でもやっぱりイオくんと呼ぶのは違う気がして、伊織さんと呼んでいた。
わたしの、学生として教員の人を呼ぶギリギリの譲歩だった。
でも、もう卒業した。学生と教員ではなくなった。
これからずっと一緒に過ごすパートナーとして、関係が変わる。そのための一歩。
だからずっと考えていた。
そして、もう決めていた。
「イオちゃん」
ふざけたつもりはない。至って真面目。本気。超、本気。
それなのに伊織さんはマンガみたいにブハッと吹き出した。それから、笑いが止まらなくなった。
「もぉー! なんで笑うの!?」
一生懸命考えたのに。しかも自信あったのに。
「あはははは、ごめん、あはは、ちょっと……」
そんなに変だったかと、かなり自信喪失。
「もぉ。じゃあいいよ。今までと同じでいいじゃん。それかもう伊織さんが決めてよ」
「違う、ごめん……ごめんね」
いきなりガッと抱きつかれて、身体がグラッと揺れる。
「違うよ。なんか、嬉しかったから」
「……え?」
「うん、いいね。サイコー!」
いいの? 本当に?
「もー、合格! 大合格だな!」
大合格なんていう言葉、聞いたことない。もうめちゃくちゃ。
でも、合格なのか。やった。嬉しい。
「もぉ……びっくりしたぁ」
ギュウギュウと抱きしめられて、苦しいけど気持ちいい。人工的な香料の香りはしないのに、なんとなくふわりといい匂いがする。温かくて柔らかくて、すごく気持ちいい。
「更紗。大好きだよ」
うわ、何、これ。
ハグと呼び捨てのコンボ、ずるい。すごすぎる。絶対勝てない。
「うん。わたしも、イオちゃん……大好き」
伊織さん、元い、イオちゃんがさらにグイグイと腕を絞めてきて、結構本気で苦しい。
すごく照れくさい。こんなの、恋人同士はいつもこんなふうに言い合うのかな。これが普通? こんなの、心臓が保たない。恥ずかしくて顔を上げられない。
「よし、もうサイコーな気分のまま寝ちゃおう」
突然パッと解放されて、そのままクルッと身体の向きを変えられた。それからトンと背中を押されて、ベッドの上に倒れかかった。
「ほら、ベッド入って」
掛け布団を捲ってわたしを押し込んで、自分も入って来ようとしている。
「一緒に寝るの?」
「ん? 寝るよ」
何か問題でも?とでも言いたげな、さも当然みたいな顔をして、平然と隣に入ってくる。本当にいいのかな。このあいだまで頑なに拒否していたのに。
「そ、っか……」
「あれ? ダメだった?」
「んーん。ダメじゃない」
いや、ダメかな。どうだろう。
合格と言っていた。だから、もういいのかな。
「じゃあ、そっち詰めて」
言われた通りにベッドの片側に寄って横たわっていたら、寄り添うようにくっついてきたイオちゃんにそのまま抱き寄せられた。
長い手を伸ばしてベッドサイドライトに触れて、消灯タイマーをオンにする。
「おやすみぃ」
そう言って私を抱きかかえたまま、動かなくなった。本気でこのまま寝るつもりなのだろうか。それならわたしももう余計なことは考えないで寝なければ。でもこんなにくっつかれていて眠れるかな。
とりあえず目を瞑って、少し気配のあった睡魔を探す。
温かい。疲れたから、案外すぐに眠れるかもしれない。
でもイオちゃんはまだ寝ていない様子で、もぞ、と動いたと思ったら、グイグイといろんなところをそっと押し付けてくる。それから、匂いを嗅ぐ犬みたいに鼻先をわたしの方へ寄せてきて、ちょうどぶつかったところにキスをするみたいに顔をくっつけて……あれ、これ、みたいに、ではなくて、キス、だよな。
ほっぺとかおでことか顎とか、とりあえず届く範囲のいろんなところに、イオちゃんの鼻先とか唇が触れている、気がする。
「イオちゃん……あの」
声をかけてみたけど、やめる気配はない。
「ん?」
「あの、そこまでするなら、ちゃんとしたキス、して」
「ええー。なぁに、急に」
そう言いながらも、まだ犬みたいなキスをやめない。くすぐったいし、気になって全然眠れない。
「だってそんな……中途半端なんだもん」
しまった。これ、わたしから強請る形になってしまっているのかな。違う。違うのだけど。
「……キス、好きなの?」
「…………わかんない」
「わかんない、って、なんでよ」
もう正直に言うしかない。
「……だってしたことないもん」
「……ん?」
「ないから。したこと」
またひとつ、できれば知られたくなかったことを暴露してしまった。
「え? どういう意味?」
隠しても仕方ない。いい歳して情けないけど、本当のことだ。
「そのままの意味だけど」
「え、だって、あのイケメンくんと……」
イケメンくん、というのは、シノブのことだろう。やっぱりその事実は避けて通れないか。
「してないよ。キスは」
「え? え? だって、セックスはしてたんだよね?」
ド直球で訊かれて、さすがにたじろぐ。でも、自分がしていたことだから。ちゃんと向き合う。正直に。
「そうだけど、キスはしてない……しないで、ってお願いしてたから」
最初からシノブには、キスはなしで、とお願いしてあった。セフレなんだからキスはいらないでしょ、なんてカッコつけて言っていたけど、結局は色々バレていたの、カッコ悪い。
「……じゃ、じゃあ、リカちゃんとは?」
「はぁ? なんでそこでリカが出てくるの!?」
突然出てきた名前にびっくりしすぎて笑ってしまった。わたしがリカとキスとか、あり得ないのに。
「だって、超仲良しだったし」
「仲良いからってなんで親友とキスしなきゃいけないの」
もしかしてヤキモチかな、とか思うけど、それはわたしもそうだったからお互い様。でも本当にヤキモチなのだとしたら、なんだかすごく可愛い。
「……ホントにしたことないの?」
「うん」
「一度も?」
「うん。そう」
言ってしまった。
「……ちょっと、すみません」
そう言うとイオちゃんは急に起き上がって、そそくさとベッドを出てしまった。
「え、なに、どうしたの、どこ行くの」
「いや、ちょっと。うん」
「何してんの」
ベッドの上で、わたしに背を向けて正座している。大きな身体をシュッと縮めるようにして。
「すみません、ちょっと、気持ちの整理を」
「何それ、もぉ」
ばかみたいに大きな深呼吸をしてから、ふぅ、と呟いて、いそいそとまた布団に潜り込んでくる。本当に何をやってるのだろう。
それから、よいしょ、とおばさんくさい掛け声をかけながらくっついてきて、わたしを長い腕で抱き込んだ。
「サラ。あのね」
「ん?」
「すごぉく大事にしたい。ゆっくり、じっくり、育てていきたい」
頭をそっと撫でられて、気持ち良さが少しずつ眠気に変わっていく。
「時間かけて大事に積み上げていくね」
イオちゃんの声が、触れ合った身体から直接響いてくる。低めのまろやかな声が心地いい。
「だから、気長に、よろしくお付き合いください」
「はい。よろしくお願いします」
恋愛初心者のわたしとモテモテ王子、但し、わたしにとってはお姫様の恋愛なんて、もうわたしの方がぶら下がって振り回されてガンガン持っていかれるものだと思っていた。でも、全然違った。イオちゃんの方がなんだか慎重で、気の毒に思ってしまうほど気を遣ってくれている。
「じゃあ、さ」
イオちゃんが上体を起こして片腕で支えながら、真上からわたしを見下ろす。すごく近くて、ベッドサイドライトだけでもそれなりに明るいから、やっぱり恥ずかしい。
イオちゃんの髪がわたしの顔にかからないように耳にかけてくれて、その仕草とか、いつもと違う髪型のせいで印象が違って見える表情とか、なんだかすごく色っぽくてドキドキする。
「キスしてもいい?」
少しでも上を向いたら、どこかがイオちゃんに触れてしまいそう。それくらい近くて、横になっているのに眩暈を起こしそう。
「うん」
わたしの返事を聞いてふわっと笑ったイオちゃんが、なぜか泣いてるように見えた。確かにはっきりと笑っているのに。
なんでかな、と思ったら、わたしも心臓のあたりがギュッと苦しくなって、涙がこみ上げてきた。喉の奥が痛い。
「そんな顔しないで」
空いている方の手でわたしの頬をそっと覆う。そして、親指をゆっくりと、涙を拭う時みたいに滑らせた。泣いてなんかいないのに。
そんな顔、って、どんな顔だろう。ブサイクじゃないといいな。
「更紗。大好きだよ」
また、このコンボ。
言ってもらったから、わたしも言いたい。同じように。でも、言えなかった。間に合わなかった。
イオちゃんがキスで、わたしの唇を塞いでしまったから。
ほんの一瞬、軽く触れるだけのキス。
目を閉じた方がいいのかな、とか、息はどうやってすればいいんだろう、とか、初心者のキスあるあるなんて心配する暇ないくらい短いキス。胸がキュン、とかそういうのもなかった。
その代わりに、これで終わり?と思ってしまったわたしは、案外貪欲なのかもしれない。
「サラはさっきもう合格したけど、私は合格できてる?」
「え、イオちゃんも? わたしが決めるの?」
「当たり前でしょ。対等に、って言ってるのに。サラが決めないで誰が決めるの」
わたしなんかにイオちゃんみたいなかっこいい人の合否を決める能力も資格もないのに、でもきっと今は何か言わないと話が進まないんだろうな、と思う。しかもこれ、合格と言わないと関係が成立しないし、どちらにしろ答えを迷う意味はない。
「そんなの、合格に決まってる」
「ほんと? やったぁ」
また犬みたいに全身でぶつかってきて、いろんなところが当たって地味に痛い。
予定調和的な流れで笑ってしまうけど、これはきっとイオちゃん流の対等になるための儀式なのだろう。今までの立場や関係を考えたら、こういう手順を踏んで敢えて対等に立っていると誇張しておいた方がわたしが受け入れやすいと踏んでいるのだろうな。
「キスと合格の順番、おかしい」
「あはは。めっちゃフライングしたぁ」
本当はとっくに合格に決まっていた。たぶん、最初から。
もしかしたら、わたしがまだイオちゃんを認識する前の、2年前のテキの出張授業の時から。
あの時わたしの頭上で言ってくれた言葉が、はっきりと耳に残っている。大学に入って初めて作品を褒めてもらえた言葉だったから。
何度も逃げてしまったし、随分遠回りしてしまったな、と思う。
「今日はここまでね」
まるで自分に言い聞かせるみたいに小さく呟いて、またわたしを抱き寄せる。そのままギュッと抱き込むと、収まりの良いポジションを探り当ててからゆっくり目を閉じた。
「おやすみ」
本当に犬みたい。大型犬の、仔犬。気ままで、大らかで、人懐こくて、健気で、優しくて。それから、すごく愛情深い。一緒にいると安心する。和むし、癒される。
「おやすみ」
ここで線を引いてくれて良かった。ここまで、と言ってもらえて、暴走したり調子に乗ったりしなくて済んだから。
初めてのキスがイオちゃんとで嬉しかった。
でも、それを考えると必然的に、シノブの存在が頭に浮かぶ。
好きな人ではなかった。恋愛もしていない。
でも、セックスをしていた。わたしが初めて身体を重ねた人。
大学1年の時に短期で入ったイベントスタッフのバイトで一緒だった人に紹介された。経験豊富で割り切った付き合いができる人を探してる、と言ったら、ちょうど良い人がいるから、と会わせてくれた。
年上で、大人で、それなりに常識的な感覚を持ち合わせていて、わたしのお願いをなんでも聞いてくれた。数人の女性と同時に関係を持っていたけど、全員にちゃんと了承をもらっていて、誰かを傷つけたり苦しめたりすることはしていなかった。本当に割り切って、特殊だけどきれいな付き合いをこなしていた。
恋愛はしたくないけどセックスだけをしたい、と申し出ても、嫌な顔をしなかった。そんなことを言うくせに全く経験がなかったことにも、めんどくさがったりしないでちゃんと対応してくれた。
そもそもが恋愛や性欲の対象にならないのだから、身体も心も彼にさらけ出すことは全然できなかった。時間が経ってもあまり進歩はなくて、たぶん彼は困っただろうけど、方法やグッズを色々試しながら根気強くわたしの要望に応えてくれていた。
シノブの努力の甲斐あって、いつからかちゃんと身体だけはセックスという行為そのものは受け入れられるようになってきて、好きなところを刺激されればそれなりに気持ちいいかもしれない、くらいな感覚はわかるようになった。
でも、それでも気持ちだけはシノブに向かうことはなくて、それに気づいているらしいシノブが何も要求してこないこともどこか切なかったけど、敢えてそこには触れずにいた。絶対に絶対に恋愛対象にはなり得なかったから。
そんな関係だったのに、本当に良くしてもらった。だから、2年以上も続いた。
だけど、わたしは後悔している。
関係を終わらせた時は、心からありがとうと思ったし、自分の性的指向を確実に把握するために協力してもらったのがシノブで良かった、とも思った。
でも、イオちゃんとこうして向き合えるようになって、やっぱり、好きでもない人と形式だけのセックスをしていた、という事実が、罪悪感のような背徳感のようなドロドロとしたものが沈殿しているところに棒を突っ込んでかき回しているみたいに、そこらじゅうを濁らせる。
しかもその事実をイオちゃんには知られていて、濁りはひどくなってどんどん拡散する一方だ。
今さら考えても仕方ない。その事実は取り消せないから。
でもやっぱり、初めてするのがイオちゃんだったら良かったと思ってしまう。
「ん……? どした?」
急に声をかけられて、自分でも何があったのか一瞬わからなかった。
「どうした? 何か悲しくなっちゃった?」
なにか返事をしようと思って息を吸ったら、鼻が詰まってることに気づいた。わたし、泣いたのか。
「何か、心配?」
大きな掌で頭を包むみたいに撫でてくれる。
その優しさに身を委ねるのは少し怖くて、自分の理性とか抵抗力を試されているような気持ちになる。
「ごめんなさい」
それでもわたしは、イオちゃんの優しさに縋る道を選んだ。
「ん? 何のこと?」
シノブのことを言ったら、嫌な思いをさせるかもしれない。でも、イオちゃんと本気で向き合うためには、絶対に乗り越えないと、払拭しないといけない気持ちだから。
「好きでもない人と、セフレ、だった……こと」
声が震えて、言葉尻が消えかけたけど、必死に絞り出す。
ちゃんと伝えたい。
「セックスもイオちゃんと初めてしたかった」
本音を吐き出したら、詰まっていた思いが一気に噴き出して、もう止められなくなった。その思いを象徴するようにどうしようもなく溢れてくる涙を止める方法もわからなくて、ただ、イオちゃんにしがみついたまま時間が過ぎるのを待つしかなかった。
「サラ。あのね。セックスって、愛し合ってる人たちが愛を交換する行為なんだよ」
すごくゆっくりと話すイオちゃんの声が、ジワジワと胸に染み込んできて気持ちいい。柔らかい天鵞絨みたいなその声が、わたしの全身をふわりと包み込むみたいにまとわりついてくる。力が、緩む。
「サラはあのイケメンくんのこと愛してた?」
愛してた、なんて、愛していたか愛していないかを考えたことすらない。対象外、としか言いようがない。
「それ、は、ない。愛してない」
「それなら、彼としてたことはサラにとってはセックスじゃなかったんじゃないかな」
一度、ギュッと強く抱きしめてからわたしを解放して、少し身体の位置を下げて目線を合わせてきた。こんなぐしゃぐしゃの泣き顔、見られたくないのだけど。
「好きな人とするのがどんななのか、楽しみにしてて。私が全部、最初から、イチからぜーんぶ教えてあげるから。本当のセックスは全然違うと思うよ。スゴイよー、きっと。覚悟しときなね」
少し冗談めかして言ったのはたぶん、わたしが深刻に受け止め過ぎないようにするため。
「そんな、スゴいこと、してくれるの?」
イオちゃんのノリに合わせてみたら、少し気が楽になって、気を張り過ぎなくても済むやり方が色々あるのかもしれないと気づく。
「お、おぅ、任せときぃな」
急にたじたじになって京訛りで強がったイオちゃんが可愛くて、愛しくて、思わず自分から抱きついた。
本当は、何もしてくれなくてもいい。ただ、そばにいてくれればいい。
「楽しみ」
ゆっくり、じっくり。
それでいいとわたしも思う。わたしとイオちゃんのちょうどいいペースを見つけて行けたらいい。
すぐ目の前にあるきれいな顔を見つめていたら、イオちゃんもわたしをじっと見ていて、お互い自然に顔が綻びる。気づいたら唇を交わしていて、ほんの数秒の、2度目のキス。
「おやすみ」
「おやすみ」
向き合ったまま、手を繋いで、そっと瞼を閉じる。
タイマーセットしたベッドサイドライトが、数分置きに明るさを段階的に落としている。たぶんもう少しで完全に消える。そうしたらもう、眠りに落ちる時間。
卒業式の日だったのに、終わった感が全然ない。
それもそうだな、と思う。
だって、始まったのだから。
これからなのだから。
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