25 碧緑 へきりょく

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25 碧緑 へきりょく

「サラー! こっちー!」  待ち合わせのお店に入ると、先に着いていたリカがわたしを見つけてくれた。 「ごめん、遅くなっちゃった」 「へーき。そんなに待ってないよ」  夏になっていた。  世間的には、夏休み。  大学院が休みに入った時にリカから会いたいと連絡をもらっていたのだけど、わたしは予備校の夏期講習が詰まっていてなかなか休みが取れなくて、ずっと会うのを先延ばしにしてもらっていた。結局、会おうね、と言われてから1ヶ月以上が過ぎてしまっていた。 「暑ぅ……死ぬ……」  大学を卒業してからも時々こうして飲んでいる。こじんまりとした飲み屋はあれ以来苦手で、ワイワイガヤガヤの大衆居酒屋か店員が目の前にいるカジュアルバーが多い。  今日はリカのリクエストで、リカの友達が働いているという居酒屋にした。 「今日バイトは?」 「あったよー。終わってから来た」  リカは今、結婚式場の貸し衣裳ショップでバイトをしている。着付けの国家資格を取るのに実務経験が数年必要で、そのために今から年数を稼いでおきたいから、と言っていた。  着付けでは女性の身体に直接触るため、戸籍上は男性なリカは、とうとう専門医に通って『性同一性障害』の診断書を入手、それを履歴書と一緒に提示してようやく着付け担当としての雇用が決まった。  ショップ選びもなかなか計画的で、ちゃんとLGBTQIA+フレンドリーで同性結婚式を挙げられる式場内のショップにしたので、理解はスムーズだったらしい。 「あたし別に性別適合手術とかしたいとは思ってないけどさ、診断書ないと雇ってもらえないんだもん。手術したいわけじゃないから超厳密に言えば性同一性障害じゃないんだけど、まぁ将来のこと考えたら、診断書あった方が都合良いこと多いかもなーって思って」  相変わらず軽やかにすごいことを言うリカは、自分のジェンダーの着地点を探し始めてるようだった。 「同性婚ができないわけじゃん、今の日本では。そうなると、まーくんと結婚するにはあたしが戸籍の性別変えるしかないじゃん。もーわけわかんないよ。なんでオンナのあたしが男と同性婚しなきゃいけないんだっていうのも納得いかないし、だからと言って普通の結婚もできないって、どーしろっつーのかねぇ。まぁとにかくさ、性別変えるには、性別適合手術してないとダメなんだよね」  籍を入れるだけなら養子縁組という手段もあるけど、あくまで結婚という形にこだわるなら、そういうことになるのだろう。 「でもあたし痛いのやだもーん」  複雑な事情を背負って生きてきた割に、リカの思考回路はいつもシンプル。 「まーくんだって別に手術して欲しいとか言ったことないし。手術すれば子ども産めるようになるわけでもないしさ。お金だって超かかるんだよ」  リカはよく、自分は一度死んだから、という言い方をする。一度死んで、もう一度生まれ直した、と。そこまでのことを乗り越えて今があるのだと思えば、色々と達観しているのも納得できる。 「でもさぁ、戸籍上で女になっちゃえば、普通にまーくんと結婚できるんだよねぇ。超悩むぅ…」  結婚とか子どもとか、わたしは今まで考えたこともないし、これからも望むことはないと思うけど、友達のリカがそういうことでああだこうだ言っているのを見るのは案外楽しかったりもする。 「まぁ、パートナーシップっていう方法もあるにはあるけどさ、どっちにしろ簡単じゃないんだよぅ」  好きな人と一緒になるために最良の方法を考えてジタバタと悩んでるリカはすごく可愛い。なんだかんだ言いながら、結局はちゃんと自分の生き方を考えていて、しっかり地に足つけて頑張っている。かっこいいリカ。やっぱり尊敬する。 「今の職場だってさ、理解あるとは言っても客商売じゃん。職員は納得してくれてるけどお客さんに不信感とか抱かせちゃマズいからって、勤務時はおっぱいあるように見せるため女性用下着着用は義務だって。もぉ、ブラにいっぱい詰め物して頑張ってるっつーの」  そういえばリカは大学時代、当たり前のようにレディースの服ばかり着ていたけど、胸にパッドを入れていたことはなかった。下着としてキャミソールは着用しても、ブラキャミは着ていたことはなかった。スレンダーなので違和感はなかったし、リカ本人も「あたしが欲しいのはおっぱいじゃない!」と冗談めかして言っていたので、そういうポリシーなのかと特に疑問を持ったこともなかった。  そんなリカが今になって身体の見た目を偽装しなければいけなくなったことは、わたしにとっては結構な出来事に感じるけど、リカにとってはどうなのだろう。  今見た感じでは胸は作っていないようだし、仕事以外の時は今まで通りなのかな。  ブラウスのボタンが半分以上開いていて、中に着ている碧緑(へきりょく)のキャミソールが見える。縁の部分に小さなスパンコールが縫い止めてあって、リカが動くたびにキラキラと光った。見えている部分からブラウスに隠れているところまで、胸の膨らみは全然ない。それでもリカはリカで、その部分にリカのアイデンティティがあるわけではないことはわたしも知っている。それなのに社会はそのことに引っかかって、セクシュアリティの分かりやすい具現化を求めてくる。それが悪だとは言わないけど、そういうアプローチをしないと認めてもらえないというのもおかしな話だな、と思う。  以前、部室で着付けをしていて、胸の大きな後輩が胸を潰すやり方で苦戦してみんなでワイワイやっているときに、リカが自分の胸について、「AAAカップの女子だと思ってよ」と自虐的に言っていた。  今でこそ割り切ってそう言えるのかもしれないけど、ジェンダーの違和感に気づいた思春期の頃には当然悩んだだろうし、もしかしたら心の奥底には今でもやっぱりふわりと膨らんだ胸に憧れる気持ちは存在するのかもしれない。 「こんど、一緒に可愛いブラ買いに行こうよ」  なんとなく話題にしない方がいいのかも、とずっと思っていた。でも、リカの生き方のステージ的にもわたしたちの関係的にもその段階はもう超えたのだと思う。だから、あえて、そういう提案をしてみた。 「ええー……試着とか、めっちゃハードル高いんだけど……」 「良いお店、調べておくから」 「もぉ。しょーがないなぁ。じゃあ貧乳大歓迎のお店探しといてよ!」  自然体なリカが好き。でも、万事上手くいっていそうなイメージだけど実際はそんなわけはなくて、まだまだ色々と課題が山積みなのは想像できる。  今はまだ自虐のフィルターが必須なのかもしれないけど、それが減っていけばいい。そしていつかきっと、どんな形であっても大好きなまーくんと一緒になれたらいいな、と心の底から思った。 「夏期講習、大変?」  運ばれてきたジョッキビールを半分くらい一気に飲んで、オッサンみたいな大きなため息をついてからリカが言った。 「まぁね。自分が生徒だった頃は自分ひとりのことだけ考えれば良かったけど、今は何人もの進路のこと頭に入れておかないといけないから」 「あれ、何科教えてんだっけ? 日本画?」  話している間にどんどん料理が運ばれてくる。 「んーん、今はまだ基礎科」  自分の専攻と教える科は必ずしも一致するわけでもなくて、最初に基礎科で様子を見て適正によってそれぞれの科に振り分けられる。わたしは一応日本画を希望してあるけど、基礎科でも中学生クラスでも最初はどこでもいい。雇ってもらえるだけでありがたい。 「あと、あれは? 結局、テキスタイルはどーなった? 学校行くの?」 「あー……うん、それもまぁ、考えてる。イオちゃんが相談に乗ってくれてるから」  実は少しだけ、進学先選びでイオちゃんに頼るのを躊躇した時期があった。  イオちゃんを好きになるより前からテキスタイルを勉強したいという気持ちがあったから、そのためにイオちゃんに近づいたのだと思われたくなかった。  でもイオちゃんはそんなこと全く気にしていない様子で、使えるものは何でも使え、とやたらと世話を焼きたがる。  こんなラッキー利用しない手はない、と本人に言われてしまったら、結局、遠慮するのも馬鹿らしくなった。 「まぁ専門だもんねぇ。頼もしいじゃん」 「うん。助かってる」  とは言ってもあからさまなコネ利用はさすがに気が引けて、今のところ相談止まり。 「基礎からやる必要ないから、進学するなら院か専門がいいだろうって」 「ふーん。そしたら、来年の春から?」 「そうなるね。だからそろそろ決めないとなんだけど」  予備校の仕事が思いのほか忙しくて、進学関係はなかなか進まないのが現状。本当は一日でも早く学べる場に出て行って一歩でもイオちゃんに近づきたいと思うけど、焦っても仕方ないのもわかっている。 「まぁ急ぐ必要はないんじゃない? 仕事してんだし」 「そうだね」  確かに今は、学費を貯めておかないといけないのもあって、仕事に全振りしているのは事実。一つずつ着実に固めていかないといけない。何にしても時間が足りない。 「あと引っ越しは? 決まったの?」 「まだ決まってない。目星いとこは絞ったけど、周辺歩いてみる時間作れなくて。来週ちょっと連休あるから、そこで見に行くかな、ってとこ」  家を出ると決めて、あれから住みたい町を決めて。仕事場とイオちゃんの家とを行き来しても辛くない土地を選んだ。そこで条件に合う物件をいくつか探して、その中から上位3戸くらいを実際に見に行くことにした。  父は色々と横からブツブツ言っていたけど、さすがに大学を卒業して働いている身。妨害まではしてこなくて少し意外だったけど、もしかしたら裏で母が何か言ったのかな、とも思った。働きながらだからなかなか進まないけど、どちらにしろ家を出ることはもう確定で、やらなければいけないことはまだまだ山ほどある。 「へぇ。そーなんだ。で、イオくんは? 元気?」 「元気だよ。夏休みなのになんか忙しそう。でも相変わらず」 「ふーん。もうエッチした?」  思わず食べていた物を吹き出しそうになって、必死に堪えた。でも、()せた。リカお得意の不意打ち爆弾。 「何、を、急に……」  たまにこれやられるから知っていたけど、久しぶりなので油断していた。 「えー。まだなのぉ? もぉ。何やってんの」  想いを伝え合ってから5ヶ月くらい経った。でも、まだセックスはしていない。それなりに甘ったるい雰囲気になることはあったけど、なんとなくイオちゃんの方からその空気を避ける、というか逃げるのがいつものパターン。 「……やっぱりダメかも」 「何が?」 「ダメなのかも。わたしが」  こちらの落ち込みなんてお構いなし、という感じでリカはガツガツよく食べている。身体が大きいからか、本当にたくさん食べる。健全な感じがして、見ていて気持ちがいい。 「サラの、何が?」 「男のセフレがいたビアンなんてさぁ……最悪じゃない?」  まだ、引きずっている。自分でやらかしたことなのに。終わってからすごく時間が経っているのに。今でもやっぱり後悔は消えていなくて、そのことだけを記憶から消せないのなら、もういっそ全てをリセット……終わりにしてしまいたいと思うくらい、激しく引きずっている。 「イオくんがそう言ったの?」 「まさか。言わないよ。言わないけど、手ェ出してこないってことは、やっぱりそういうのが嫌なんじゃないかなーとか思うじゃん」  イオちゃんは何も言ってくれなくて、そういう雰囲気になりかけると急に違う話題を振ってくるか、黙ってその場を立ち去る。それから、全然関係ない空気をわざと作ったりして、とにかくひたすら逃げている。 「エッチ以外は? 何もなし?」 「キスとかハグはあるよ、普通に」 「……じゃあ別に嫌とかじゃないんじゃないの?」 「そうかなぁ……」  賑やかな居酒屋で良かった。こんな話をしていても、周囲の客には聞こえないで済む。  LGBTQIA+関連の差別というと、たいがい、当事者とそれ以外の間での差別を思い浮かべる。でも実は、当事者同士でも差別とか偏見はあって、男と関係を持てるレズビアンを嫌う風潮は悲しいけど存在する。ゲイやビアンの人がバイセクシュアルやパンセクシュアルの人に対して「いざとなったらどうせ異性と結婚するんでしょ」と言うのと同じ感じで、ビアンを自称しながら男ともデキる人を、ファッションレズとか呼んで見下す傾向がある。  イオちゃんはそんな見下した態度は取らないけど、やっぱり気持ちのどこかで嫌だと思っているのかもしれない。だから関係を深めるようなことができないのでは、と思う。 「んじゃあさぁ。いっそのこと、サラから手ェ出しちゃえばいいじゃん」 「………………………………はい?」  本気で意味がわからなくて、ものすごく間抜けな声が出た。 「だからぁ。サラからガンガン行っちゃえば、って言ってんの」  わたしから、行く?  どこに?  というボケは口には出さないでおくけど、本気でそう思った。 「今さら、処女でもあるまいし」 「……いや、それが問題なんだってば」 「問題?」 「そうだよ。誰とも付き合ったことないのに、その……処女じゃない、ってことが問題なんじゃん」  自分でその話に戻ってしまった。墓穴。 「そんなこと気にする人じゃないと思うけどなぁ」 「でも、何もしてこないし」  堂々巡りだ。結局ここに戻ってきて、またループ。わたしとリカで話していたって、何も進展しないということ。 「本当に進みたいと思ってるなら、ちゃんとふたりで話してみないとダメかもね」  リカの言う通り過ぎて、何も反論できない。自分でなんとかしなければ。  目の前のお皿がだいぶ空になって、とりあえず落ち着いたのか、リカが箸を置く。それから、少し身体を伸ばすみたいにして、フゥ、とため息をついた。 「サラ。あのさ。あたしが言うのもなんだけど、世の中そんなにキレイなことばっかじゃないと思うよ。運命の人と処女とか童貞とか同士で出会えて一生その相手だけで人生全うできれば一番幸せなのかもしれないけどさ、そんな奇跡みたいなことそうそう起きないし、もっと単純に、いろんな人知ってた方がいいと思う人だっていっぱいいると思うしさ」 「うーん……」 「あたしだってそれなりにまーくんと付き合う前に何人かと付き合ったし、まーくんだってあたしの前に彼女いたし、でもさぁ、そんなこと言ってたらもう誰とも付き合えないよ」  頭ではちゃんとわかっているけど、気持ち的にスッキリ割り切れない。 「サラの場合は確かにちょっと複雑だけど、まぁあたしほどじゃないじゃーん!」  あはは、と豪快に笑って、残りのビールも飲み干した。 「まぁそれは冗談だけど。あたしはさ、こんな身体だからさ、マサヨシくんの時から本当に色々あったし、思い出したくないこと満載なわけ。こないだの飲み屋事件とかもさ。でも、そういう過去にとらわれ過ぎてたらあたしなんてマジで何もできなくなっちゃうくらい色々あり過ぎたから。もうね、前しか見ない。後ろは振り向かない!」  ケラケラと笑って、今日はいつもにも増して機嫌が良いな。すごく楽しそう。 「とにかく、黙って待ってたって何も変わんないって」 「うん。そうだよね」 「もー。サラもイオくんも、放っといたらそのまま自然消滅しちゃいそうなんだもん」  実は自分でもそう思ったことが何度かある。このまま、わたしかイオちゃんかどちらかが連絡返さなくなったら自然に終わってしまいそうだな、と。  でも嫌で、終わりたくなくて、自分からも連絡したし、イオちゃんからの連絡も待った。 「でもあたしは何もしないよ。口も出さない。自分でなんとかしな」  前に言っていた。下手に仲を取り持ってうまくいかなかった時に責任取れないから、と。そうやってリカなりにみんなとの関係を大事にしているのだろう。 「うん。ありがと。頑張ってみる」  具体的にどうしようかなんて、何ひとつ、全く、何も思い浮かばない。でも、このままではダメだということもわかっている。 「頑張ってみるよ」  もう一度、誓いのように呟いて、ちょっとしんみりしてしまった空気を変えなきゃ、と思った。久々に会ったのだし、楽しく過ごしたい。 「もっと楽しい話しようよ」 「えー。サラたちの話、楽しいけど?」 「楽しくないよ……リカの話の方が楽しい」 「えぇえー、そぉ? んじゃあ、うーん……あ! あのね、まーくんがね」  リカにまた救われている。本当に良い子。 「あ、追加しよう、追加! すみませーん!!」  相変わらず明るくて、元気で。  大好き。リカ。  イオちゃんに会いたい。  会って、話したい。色々。  触りたいし、触られたい。キスもして、ハグもして。  それで、どうしたらもっと近づけるか、ちゃんと確かめたい。 「サラも何か飲む?」 「飲む!」  酔いすぎないようにしよう。ちゃんと話したいから。  もう少ししたら、イオちゃんに連絡してみよう。
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