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26 桃色 ももいろ
イオちゃんから、家に来ていいよ、と許可をもらえて、リカと別れてからマンションへ向かう。色々話したいということはまだ伝えていない。
オートロックのエントランスで、部屋番号を押す指が少し震えた。
ガンガン行っちゃえば、とか、本当にできたら苦労しない。そもそも、ガンガン、って何? どういう意味? わたしが何をするとガンガンになるの?
いいや。ちゃんと向き合って、一方通行にならないように、ゆっくり話そう。
「おかえり。あらぁ、すごい居酒屋臭。お風呂使っていいよ」
「あ、ごめん。ありがとう」
リビングに向かわないでバスルームに直行。
なんだか今、ちょっと顔見れなかったかも。
緊張する。嫌だな。ちゃんと向き合いたいのに。
「お腹は空いてないね?」
脱衣所のドアがノックされて、イオちゃんが訊いてくれる。
「うん。平気」
スマホの時計は22時半を回っていた。
「イオちゃんは夕飯食べた?」
「食べたよー」
会話は普通。問題ない。でも、顔を見るのは少し怖い。
お風呂で色々、気持ち落ち着けよう。ちゃんと落ち着こう。
全身、よく洗って。臭わない身体でイオちゃんに触られたい。居酒屋の匂い、タバコ、焼き物、揚げ物、他のお客さんの衣類や整髪剤の匂い、そういうのがごちゃまぜになった匂い。取れるかな。ちゃんと洗わなきゃ。
自分なりに出来る限り丁寧に洗い上げて、脱衣所でスキンケアをしながら気づく。
触られるかもしれないから綺麗にしておきたいなんて、そんなこと今までシノブに対して思ったことはない。同性だから? それとも、イオちゃんだから?
あんまり待たせたくなくて早く終わらせたいのに、もっと念入りに手入れをしたい気持ちもあって、色々と揺れる。揺れるというより、乱れているのかも。
そうだ。もう歯も磨いておこう。どこもかしこもピカピカにしておこう。
それで、落ち着こう。
ちゃんと話すために。
「何か飲む?」
イオちゃんももうお風呂は済ませたのかな。ほとんどメイクをしないから変わらなくてわかりづらい。お風呂も湯船にお湯張っていなくてシャワーだからわからない。でも部屋着になっているし、もう入ったのかな。
「お水、でいいです」
しまった。緊張し過ぎて敬語になった。
一瞬変な顔をしたイオちゃんが、チラリとわたしを見た。
「ありがとう」
慌てて言葉を重ねたけど、ミスったのバレたかな。やっぱり緊張しているのかも。
キッチンでペットボトルからグラスに水を注いでくれている。大きな手が軽々と2リットルのペットボトルを掴んでいて、その指の形が相変わらずきれいでつい見惚れてしまう。
「リカちゃん、元気だった?」
不意に声をかけられて焦った。リカ。リカの話。
「あっ、うん、元気。元気だった」
いちいち挙動不審でもう本当に嫌だ。
困ったように眉尻を下げて、イオちゃんがグラスを手渡してくれた。こちらの迷走っぷりが全部バレていそう。
「何かあった?」
あった。あり過ぎた。もう頭の中いっぱい。でも、何をどこから話せばいいのだろう。
受け取った水を一気に飲んだら、体内がシュッと冷えた。
「んー、別に、特には」
キッチンの入り口に立つイオちゃんをすり抜けて、使ったグラスを手早く洗う。水切りカゴに置いて、手をタオルで拭いて。
さて。やることなくなった。
「リカちゃんとどんな話したか聞かせて」
すぐ背後にイオちゃんが来ていて、私の手にそっと触れてきた。そのまま指を絡めるように引かれて、緩く掴まれてリビングに連行された。
ドサッとソファに深く座って、脚も上げてしまって、隣の座面をトントンと静かに叩いている。座れ、ということ、だよな。
あまりくっつかないようにしてそっと座ると、またイオちゃんは苦笑いをした。
「久々だったんでしょ」
「うん、そう。ずっと忙しくて予定合わなかったから」
「楽しかった?」
「うん。すごく。リカもイオちゃんに会いたがってたよ」
あれ。なんだか、調子出てきたかも。普通に話せている。
「私の方が全然会ってないや。GWにみんなで飲みに行ったっきりかも」
「何も変わってなかったよ。相変わらずだった」
「そっか」
大丈夫、平気っぽい。いつも通り。
それならこの流れで、このノリで、話題を振ってみても大丈夫かな。
「イオちゃん、あの」
「うん」
「ひとつ訊いてもいい?」
「……うん。どうぞ」
計画なんてない。何も考えてきていない。ただ、ちゃんと向き合う、ということだけは決めていたから、それだけはちゃんと実行する。今はそれしかできない。
「やっぱり、わたし、いや?」
「……いや、って?」
「男と寝てたなんて、気持ち悪い?」
ちょっと直球過ぎたかな、とは思ったけど、面倒な回り道して時間を無駄にするのも本意ではない。
「そんなの、思ってないよ」
当然そう返ってくるだろうな、とは思っていた。
「でも、なんか……あんまり触ってくれないし」
「……そんなことないよ」
「あるよ。いつもすぐ終わりにしちゃうし」
「それは……」
いつもと違ってだいぶ歯切れの悪いイオちゃんの口調に、予感めいた嫌な感じの不安が湧き上がってくる。
「やっぱりダメかな」
「ダメじゃない。ちょっと、それは本当に勘違い」
「でも」
イオちゃんが焦った様子で、わたしの手をそっと握った。
「あのね、あの、男、は……関係ない、ってゆーか、男とは、男、の人とは、私もしたことあるから」
「……え?」
思わぬワードがポロポロとこぼれ落ちて、語感と意味の擦り合わせに時間がかかった。
「昔、ね。すごーく若い頃」
「……ほんと?」
「うん。本当。サラと一緒。おんなじこと考えてた。やってみれば男子とも平気かも、って確かめたくて。その時一番仲良かった友達に頼んで寝てみた」
「そう、だったんだ……」
少しホッとして、少し感動した。そんなこと、自分以外でしたことある人がいるとは思わなかった。
「でもね、私の場合はもう散々だった。選ぶ相手間違って、大失敗。こっちも全然身体が準備できないし、そのうちそいつがね、途中で完全に萎えちゃって。なんか男とシてるみたい、って言い出して、笑っちゃってもうできなくなっちゃって」
すごい展開。衝撃的。
「それは、なかなか……だね」
「まぁそいつとはそれからも普通に友達やってたけどね。でも多分、そいつは私のことトランスだと思ってるかも。今でもたまに連絡来るけど、完全に男友達ポジションだし」
なんでもないことのような感じで軽く話しているけど、よく考えたらすごい状況。そんなことになってもまだ友達でいられるのもすごいし、勘違いされているかもしれない状況を受け入れているイオちゃんもすごい。若い頃、と言っていたけど、いつくらいのことなのかな。
「だから、サラが、その……セフレがいたことは、嫉妬はするけど、それでサラのこと嫌になったりはしない。全然」
「じゃあ、なんで」
困った顔をして、小さく一つ息を吐いて、イオちゃんはこちらをまっすぐに向いた。
「……ごめん。なんていうか、真逆、っていうか」
「ま、ぎゃく?」
「うん。男と寝てたサラが嫌なんじゃなくて、その……さ、男の人みたいに、私、サラのこと抱けないからさ」
会話の内容が難しいのか、わたしの頭が働いてないのか、どっちだろう。そう思ってしまうくらい、理解に時間がかかる。
「……どういう意味?」
勝手に解釈するのではなくて、ちゃんとイオちゃんの言いたいことを正しく受け取りたい。答え合わせは怖いけど、間違いたくない。
「男の人とのセックスみたいに抱けない、っていう意味」
「抱けない?」
言い淀んだまま、少しの間。言葉を探している感じ。
「……まぁ、ね。パーツが、ないからね」
なるほど。そういう意味か。
これは、驚くところなのか、笑うところなのか、否定すればいいのか、納得すればいいのか。どう反応するのが正解だろう。
「……あ、あれ、なんか、サラ? どうしたの?」
言葉が出てこないわたしを見て、イオちゃんが少し焦っている。
怒ったりとか、悲しんだりとか、そういう意味で黙っているわけではない。ただ、どうしてそういう話になるのかがよくわからないだけ。
「えっと、それは、当たり前じゃない?」
「え?」
「パーツがないのは、当たり前じゃない?」
「……まぁ、そうね。当たり前だけど」
話が少し面白い方向に行っている気がして、なんだか笑ってしまいそう。
「女の人にそんなパーツ付いてたら引くけど」
「あ、あはは、まぁ、そっか……そうだね、うん」
先にイオちゃんが笑ったので、わたしも笑った。
「それが理由?」
「え……」
「それが、わたしにあんまり触れなかった理由?」
「まぁ、うん。そうかな」
とりあえず、取り返しがつかないような過去の愚行のせいでなくて良かった。
「……なんだ」
「なんだ?」
「なぁんだ。そっか」
もっと早く確認すればよかった。こんな事実なら。これなら、擦り合わせできる。思っていることをちゃんと伝えて修正したい。
「じゃあ別に問題ないじゃん。大丈夫だよ」
「大丈夫、なの?」
ここまで言ってもまだ不安そうなイオちゃんに向き合うように、ソファの上に乗って正座する。
「イオちゃん。わたし、レズビアンだよ? 男の人ダメなんだよ? 女の人が好きなんだよ。イオちゃんが好きなの。だから、男の人に抱かれるみたいにイオちゃんに抱かれたいとか思ったことないよ。一度も」
あれだけセクシュアルマイノリティであることから目を逸らして生きてきたわたしがこんなふうに宣言するなんて、自分でも驚く。でも、全然恥ずかしくない。むしろ、堂々と言いたい。すごい。すごい変化。
「そう、なんだ……」
気が抜けたように小さく呟いたイオちゃんがなんだか幼い子どものようで、守ってあげたくなるみたいな不思議な感じがする。
「もおー。色々考えちゃったじゃん。なんで先に進めないんだろうって、超悩んじゃったじゃん。もしかしたらイオちゃん実はネコなのかな、とか、そういうことまで考えちゃったじゃん。だからわたしから乗っかっていかなきゃダメなのかな、とかさ」
「あ、ごめん、それはないわ。乗られるのより乗りたいよ、私は」
やっと、いつものイオちゃんの笑顔が戻った。
「良かったぁ……」
「ん?」
「そんなことで良かった。ちゃんと話せて良かった」
「うん。ごめん」
そっと伸ばされた手を、わたしからも迎えにいく。
また、触れた。嬉しい。もっと触りたい。
「じゃあ、もっとくっついてもいい?」
「……うん」
「やったぁ!」
その流れで飛びついたら、わたしがイオちゃんに乗っかるような体勢になってしまった。
「あ、違うね、これ」
「そうだね。逆だねぇ」
抱きかかえられて、身体の位置を上下逆にぐるっと入れ替えられる。
「こっちだね、うん。しっくりくる」
「うん……こっちの方が、好き……」
上に乗られて、身体の自由が制限されていく感じがもどかしくてたまらない。
イオちゃんの体重が適度にかかっていて、気持ちいい。
「キスしていい?」
「いちいち訊かなくていいよ」
「あ、そう? じゃあ、キスしまーす」
「あはは、言わなくていいし」
「あはは」
なんだか、楽しい。嬉しい。すごく。
キスします、と言われたから待っているのだけど、なかなかされない。最初、目を瞑って待っていたけど全然こないから、少し目を開けてみた。イオちゃんはじっとわたしを見下ろしていて、でも何も動こうとしない。ただ見ているだけ。じっと。
「イオちゃん?」
「ん?」
わたしの好きな、イオちゃんの「ん?」だ。言い方とか声のトーンが、すごく好き。
「なんで見てるの?」
「んん? んー、なんでだろ、見たいから、かな」
「……もういいよ、見なくて」
ただじっと見られているだけなのがこんなに恥ずかしいなんて。
「やだ、もう、見ないで」
「見るよ、見るに決まってる」
恥ずかしすぎて顔を隠そうと腕を上げたら、両方とも掴まれて、頭上で固定されてしまった。その姿勢でまた、じっと見られる。
突然、身体のコアにグッと力が入った気がして、でもその割に背中とか腰のあたりがフワッと浮いた感じがして、感覚の変化にびっくりして動けなくなった。なんだろう、これ。
イオちゃんはまだ何もする気配なく、ただ見ている。
なんでそんなに見るの。
ずっと目が合っているから、ただ目だけを見ているようだけど、その意図はわからない。
ただ見ているだけ。わたしはただ見られている。それだけのことなのに、なぜかそわそわしてじっとしているのがしんどくなる。
もうどれくらい経った? 何分経った?
どうして動かないの。イオちゃん、何を考えてるの。
名前を、呼ぼうとして。
口を少し開いて息を吸ったら、発音する前に塞がれた。
最初の頃より少し長くなった。でもまだ、ただ唇をそっとくっつけるだけのキス。もっと先に行ける気がするけど、イオちゃんはまだそのつもりはないのかな。
一度解放されて、とりあえず一休みかな、と思ったらまたすぐに次のキスが来た。そんなふうになると思っていなかったから、少しの隙間に息を吸っておくのを忘れた。
一度目より長くて、苦しくて少し顎を上げたら、自分の固定されている手が見えてしまって、盛大に動揺した。
イオちゃんがわたしの両手首を大きな手でそっと握って、ソファの肘当てのところに押さえつけている。そんなに強くされていないから、わたしが動けばたぶん簡単に解ける。でも、今はそれをしたくない、と思ってしまった。このまま、縛り付けていて欲しい。
キスをしながら、どうやって息したらいいんだろう、というやつ。これだ。やった、初体験。すごい、気持ちいい。苦しいのに、なんだかゾクゾクする。
たぶん、普通に鼻から吸えば平気なのだろうけど、それだとなんだか色気がない気がして、どんどん苦しくなるのに我慢した。でもやっぱり苦しいから、さらに顎を上げてみたら、喉から少し声が漏れた。キスで塞がれた口腔内にその声が籠って、恐ろしく甘ったるい音になった。
ピンク系の色は、元々好きではなかった。自分の中にはない要素だったから。お色気系。恋の色。セクシーな色。自分には必要のない色だった。
それなのに今、わたしの周囲は見事な桃色に染まっている。それはそれはもう、驚くほど鮮やかに、可愛らしく。
物理的に染まっているわけではないから、これはイメージ。自分の中に、ピンクに包まれるイメージが存在したことに心底驚いた。
自分から発せられたとは思いたくないほどの声音に焦りまくって、慌ててキスを中断させる。顔をそっと横に向けて、イオちゃんのキスから逃れた。
とりあえず、一旦休憩。気がすむまで呼吸をしてみたけど、なんだか、まだ苦しい。
原因がわからなくてよく状況を確認してみたら、わたし、すごい肩で呼吸をしていて。酸欠なのかな、と思ってゆっくり深めに呼吸を何度かしてみたけど、一向に治らない。それどころか、深い呼吸が勝手にどんどん深みを増していって、呼吸の折り返し地点でまた喉から少し声が漏れるようになってしまった。
なんで、こんな。変な声、出したくないのに。
「サラ。平気?」
すぐ近くから、そっと訊ねられた。その声の近さにまたびっくりして、顔を元の向きに戻せない。横を向いたまま何度か頑張って頷く。
「もっとエッチなキスしたいんだけどさ、できればここじゃなくて、ベッド行きたいかな」
イオちゃんの突然の申し出。言い方がなんだかエロくてしんどい。我慢できなくてそっとイオちゃんの方を見てみたら、今まであまり見たことない顔をしていた。
「だめ?」
その言い方も今まで聞いたことないような雰囲気で、イオちゃんが違う誰かにでもなってしまったのではないかと疑いそうになる。
でも、わたしの上にいるのはやっぱりイオちゃんで、そのことを実感したら涙が出そうになった。
「イオちゃん、好き」
ああ、なんだかすごい。頭使わないで言葉出てきた。
「だいすき。ベッド、行く」
なんだかおかしな日本語になったけど、もういいや。バカだと思われても構わない。
今はただ、イオちゃんのことだけ考えていたい。
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