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3 花浅葱 はなあさぎ
モデルの話を聞いてからちょうど1週間後。
昨夜遅くに、リカからLINEがあった。
『明日部室行くね』
『資料と、あと試着して欲しい着物もう部室に置いてあるから』
わたしとリカが所属するサークル、和装研究会、通称ワソ研は、部員12名の弱小サークルだけど歴史はかなり長くて、活動内容も真面目なので学校側からの待遇も割と良い。サークルの規模の割には大きめの部室を充てがってもらえていて、活動時の施設使用許可も通りやすい。至って平和で安泰なサークルだ。
『ごめん、テキの友達ちょっと遅れそうだから、先に着替えててもらえる?』
あともう少しで待ち合わせの時間、という時にリカからのLINE。
ワソ研の部室では、それぞれ部員1人に1つずつ桐の衣装箱が貸し出されて、他の人の箱は勝手に開けない、という暗黙のルールがあった。
『実はまだ着物全部は完成してなくて、色だけ様子見るのに本番で着てもらうのと近い色の着物用意してあるの』
『あたしの箱開けると1番上か2番目に藤色の総絞りの小袖があるから、とりあえず最初にそれ着てて』
わたしの着付けは実は、なんちゃって、だ。着付けそのものをちゃんと習ったことはない。ただ、幼少期からずっと日舞を習っていて、そのために自然に覚えたもので、元々は母の自己流をなんとなく受け継いだ程度のもの。だから、リカが言っていた江戸時代の武家娘の着付けなんて知らない。でも指示もないので、ひとまず自分でできる着方をするしかない。
パーテーションの入り口のカーテンを閉めて、私服を脱ぐ。
リカに言われた通りに彼女の桐箱を開けると、1番上に淡い藤色の総絞りの生地が見えた。すごい。こんな総絞り、きっとものすごい高価なはず。そんなに新しい感じはしないので、もしかしたらお母さんやおばあさんから受け継いだものかも知れない。
持参した和装用の下着をバッグから取り出して、桐箱の蓋の上に置く。それから、周囲を確認。
いくらパーテーションで囲まれているからと言っても、元々はただの部室。パーテーションも天井まではなくて、確か190センチくらいだと言っていた気がする。すごく背の高い男の人なら上から覗けてしまうかも知れない。
薄い板1枚なので、その向こうとはほぼ同じ空間で、他のサークルの人の気配や話し声も筒抜けだ。
念のため、下着を外す前に近くに誰もいないことを確認したくて、肌襦袢をサッと羽織ってからカーテンをそっと指で退ける。
大丈夫、誰もいない。
再びしっかりとカーテンを閉めて、肌襦袢を肩から落とす。
今日はただの衣装合わせだからノンワイヤーのブラならそのままでも大丈夫な気はするけど、縛る前提なので、何があるかわからないから一応専用の下着にしておく。下は、ボクサータイプを履いてきたからそのままでいいかな。
大きめの姿見の前でブラを付け替える。でも、できる限り、鏡は見ない。自分の身体が好きではないから。
背丈とか肉付きとかの姿形もそうだけど、もっと根本的に、自分が持って生まれた身体として愛着がない。さらに言ってしまえば、自分がこの身体である意味とか必要性が全くわからない。だからと言って違和感があるわけでもない。むしろ、そこがネックなのだ。
リカがトランスジェンダーなことについて、わたしは抵抗がない。知ったとき、驚かなかったと言えば嘘になるけど、そのことに対して嫌悪感や抵抗感を抱いたことは一度もない。ふざけて抱き合った時に、見た目のふわふわ感と違って身体全体が結構固い感じがしたけど、そのことも特にどうとも思わなかった。
リカはリカでしかなくて、わたしにとってはジェンダーがどうだろうが関係ない。
むしろ、その絶妙にふんわりとしたジェンダー感が好きですらあった。
わたしはなぜか昔から、ジェンダー感がぼやけている人が好きだった。きっかけも、原因も、わからない。穏やかで優しい男性や、かっこよくて男前な女性に目が行く。そういう人はおしなべて、男らしくない、ナヨっちい、とか、ガサツ、女のくせに、などと言われがちで、わたしはどういうわけかそういうタイプの人に惹かれた。でも、そこをそれ以上追求することはなかった。できなかった。わたしには呪詛のようなものがかけられていたから。
ちゃんとしなきゃ。
ちゃんとします。
ちゃんとするから。
だから、それ以上は考えない。それでずっとやって来れたから大丈夫。問題はない。
気づいたら、見たくもない鏡を凝視していた。正確には、鏡の中の自分の姿を。
和装用の下着を着けたわたしの身体は、正に寸胴、まるでコケシみたい。だから着物が似合う。喜んでいいこと?
女の身体で、女の心を持って生まれた、いわゆるシスジェンダー。違和感はない。だからちゃんとすれば、ちゃんとしていれば、何の問題もない。ちゃんとできる。
肌襦袢を取ろうと腕を伸ばして、あることに気づく。
ああ、嫌だな、と思う。
これは、嫌悪感。はっきりと確実に、嫌だ。二の腕の後ろ側に、薄い茶色のアザ。こんなところに付けられているなんて。あれほどやるなって言ったのに。
わたしには、気が向いた時に連絡をとってセックスをする相手がいる。その男には他にも関係を持っている女性が何人かいて、わたしは特定の交際相手ではない。お互い割り切っている身体だけの関係。
男に付けられたキスマークがあるわたしは、ちゃんとしている。大丈夫。間違っていない。
わたしはいつも、自分の中の何かが揺らぎそうになると、その男に連絡をした。ただセックスをするためだけに会う。そして、セックスが終わったらすぐにバイバイ。その繰り返し。よくもここまであっさりと割り切った関係を続けられるものだと我ながら感心する。
気持ちいいとか感じるとか、そんなことを求めたことも実感したこともない。当然、好きだの愛してるだのというやりとりも皆無。ただ、会って、するだけ。それで十分だった。自分がちゃんとしていることを確認するためには、それだけで良かった。
向こうはどう思っているか知らないけど、そういう甘ったるいことは別の女性とやっているはずだし、そもそもどうでもいい。ただ、見た目が好みで性格や存在がわたしにとって不快でない、本当にそれだけで十分だった。
そいつと最後に寝たのはもう1週間以上前。だからキスマークももう黄色みがかった茶色になっていて、見た目も汚い。それを視界から消し去りたくて、勢いよく肌襦袢に腕を突っ込んだ。
ワソ研だと部員と一緒に着替えることもあるし、見られたら嫌だから絶対に痕は付けないで、と何度も言ったのに。
めんどくさいからもう会わないようにしようかな、と思いつつ、そんな条件のいい男が他に見つかる保証もなくて、きっとこのままズルズルと関係を続けるのだろうな、と思う。
もう絶対に痕付けないように釘刺しておかないと。
「あれ、着替え中か……ごめん」
ふいに声をかけられて、飛び上がるほどびっくりした。反射的に声の方向を振り向くと、カーテンの隙間からこちらを覗き込んでいる人が見えた。
良かった、とりあえず肌襦袢はしっかり着てて。
着替え中だとわかっただろうに、その人はそのままそこにとどまって動かない。
「へぇ、それ着るの? いいね、似合いそう」
なに、この人。
何しに来た。
というか、誰?
綺麗な人。まさか、もうひとりのモデルとか言わないよな? とりあえず和装が似合いそうには見えないけど。
「すごいなぁ、今時なかなかお目にかかれへんくらいの美しい総絞り。年代物やなぁ」
チャラい。
軽い。
なんで急に関西の訛り? でもなんだか大阪っぽくはないような。もっと穏やかな……京都? 東京生まれ東京育ちのわたしでも、なんとなくそのくらいはわかる。
一体何者だろう、とぼんやり考えていたら、フロアに響き渡るみたいな大声が聞こえた。
「うぅわあああああ!! イオくん!! ちょっとぉ!!」
イオ?
……呪文?
「ちょー!! もぉ、ダメでしょお!! あんた絶対誤解されるんだから!!」
大声上げてすっ飛んで来たのは、リカ。リカがこんな大声張り上げているの、初めて見たかも。
誤解? 何を、だろう。
「サラぁ、ごめんねぇ、びっくりしたよねぇ、ほんとごめん」
心底申し訳なさそうにリカが何度も謝ってくる。覗いたのはリカではないのだから、そこまで必死にならなくてもいいのに。
男の人なら普通に怖いけど、女の人ならいきなり同性を襲ったりとかしないだろうし、別に。
「え、いや。別にそんな。全裸見られたわけでもないし」
「……でも下着姿だよ」
「んー、まぁ、そうね」
良い子、なのだ。根っからの。善人、というタイプなわけではないけど、人当たりが良くて、気持ちの良い子。だから好き。
「……嫌じゃなかった?」
「平気だよ。別に、女の人なら」
そう言ったところで、会話が完全に途切れた。リカが、絶句、という雰囲気で固まっている。
「え、何? どしたの」
「……あ、ううん、違うの。あの、更紗……すごいね」
突然、リカがガバッと抱きついてきて、訳が分からずされるがままのわたしをぎゅーぎゅーと抱きしめた。
「え、ちょ、な、に? 何が?」
わたしの身体に巻きつくリカの上腕をトントンと叩くと、やっと解放してくれた。
リカは満足そうにわたしを見下ろしてから大きく深呼吸して、気持ちをリセットするみたいにして切り返した。
「なんでもない! えっと、この人がテキの助教のイオくんね」
想定外。
まさかの若い女性。びっくりしすぎて真顔になっている気がする。
「あ、そうなんだ。あの、よろしくお願いします」
「いきなり覗いてしまってごめんね」
あれ、また標準語。
「この人さ、見た目がこんなだから、今みたいなことしたらほぼ100%悲鳴上げられるの」
見た目がこんな、というのが何のどういうことを指すのかは、今は自分の感覚を微調整して空気を読む。
イオ、と呼ばれたこの人は、知らない人は初見できっとほとんどが男性だと思うだろう。
長身、スレンダー、化粧っ気のない顔、髪はレイヤー多めなマッシュウルフが肩にかかるくらいの中途半端な長さまで伸びていて、ジェンダーレスな服装、飾り気のない佇まい、気取らない話し方、低めの声……。
でもちゃんとよく見れば、少し猫背なのとダボっとした服で目立たないけれど胸はあるし、首や肩や腰だって細い。
あれ、これダメだ。
これはアウトなやつ。
ちゃんと。ちゃんとしなきゃ。
「テキスタイルの助教の義武伊織です」
伊織だからイオ、なのか。なるほど。でもこの風貌で「ヨシタケ!」とか呼ばれていたら、確かに男性だと思われるかも知れない。
「もぉ! 気をつけてよ。大騒ぎになるところだったじゃん。サラが落ち着いててくれてほんとよかったぁ」
教員に向かってそんな口の利き方をしても大丈夫なのかな、と思うけど、もしかしたらそれだけお互い信頼できる関係だということか。リカに叱られた義武さんは、ヘラヘラと笑いながらゴメーンと言った。やっぱりチャラい。
「えっと、もう今更だけど、モデルやってくれる大和更紗ちゃんね」
ヘラッとした表情はそのままに、でもちゃんとこちらに向き直って真っ直ぐ対面してくれて、敬礼といえるほど丁寧にお辞儀をしてくれた。
あれ。まるっきりチャラいというだけではないのかな?
「サラサの字は、あのサラサ?」
「……はい。染織の、更紗」
「だよね。ヤマトは日本のヤマトだっけ」
意外とちゃんと会話はできる。当たり前か。助教だし。
というか、その、知ってるけど確認、みたいな言い方、どうなんだろう。あ、リカから聞いていた、という意味か。
「そうです」
「……和更紗、だよねぇ」
いや、うん、でもやっぱりチャラい。
100歩譲って言い方変えるとしたら、なんというか……軽やか、というか……ああ、やっぱり軽いな。
「うん、ええな。素敵」
そう。軽い。軽いしチャラい。
だからダメ。
ナシだな。
「はい! 紹介終わりね!」
リカの、パン、と手を叩く音で我に返る。
わたし今、変なこと考えた。
ナシ、って。アリ、ナシ、って何だ。アリだったらどうなのだ。
「もう、ほら、いいから。早く着替えて打ち合わせしようよぉ」
リカが停滞しかけた空気をパシッと両断して、わたしを鏡の前に押しやった。そして義武さんのことは机のあるミーティングスペースに誘導する。
良かった。リカの容赦ない仕切りに救われたかも。
余計なことは考えない。ちゃんとする。問題ない。
これっきりの付き合いだし。インスタレーションが終わったらおしまい。関係ない。だから深くは考えない。大丈夫。
脳内がザワッとしたのは気のせいで、今後の進展を考えれば、今まで関わったことのない世界に一瞬だけ立ち入るという事実に緊張と興奮をしたせいだ。
この人が着ている染料だらけのツナギの色がわたしの一番好きな花浅葱なことも、乱雑に放置されている髪が揺れるたびに片耳に着けられた小さなシルバーのフープピアスが光っていることも、どうでもいいこと。
この人は関係ない。今も、これからも。
だからちゃんとできる。
それからの諸々の打ち合わせを、わたしはしっかり聞いた。集中して、余計な思考を蔓延らせないように、必要以上にしっかり聞いた。そして、このインスタレーションにおいて、ただモデルとして依頼された役割を全うしようと覚悟を決めた。
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