6 灰白色 はいはくしょく

1/1
前へ
/31ページ
次へ

6 灰白色 はいはくしょく

 歳を重ねるごとに時間が過ぎるのが早く感じるようになってきた、と言ったら、バイト先の予備校の40代の講師に笑われた。 「あんたのその歳でそんなこと言ってたら、私らくらいになったらもうあっという間に終わりが来ちゃうかもね」  でも確かに数年前よりあっという間に日々が過ぎている気がする。  気づいたら夏休みが終わっていて、周囲がいよいよ卒制や就職活動で浮足立っているように見えた。  予備校の日本画主任に大学卒業後の進路を相談したら、就職採用試験を受けられるよう推薦すると言ってもらえた。美大の日本画科に入ったのに作家になる夢もなく志が低いわたしにとっては、予備校に就職できたらそれはかなりラッキーだと思う。  順調だ。無難に生きていく道のりが見えてきた。ちゃんとやれている。  大丈夫。  卒制は、方向性がだいたい決まったので、あとはもうひたすらやるしかない。  初めて向き合う100号という大きさにはさすがに怯んだけど、やるしかない。企画書も通った。担当教授は微妙な顔をしていたけど、もうそんなことは気にしていられない。わたしは描きたい絵を描くだけ。最後だし、文句は言わせない。  内容が決まってしまえば、あとは時間が許す限りひたすら描くだけだ。わたしは元々、そんなに頭を使って計画的に描くタイプではない。だから、その時その時の気分やノリで感覚的に描き進めて行く。そうなると、描いていないときはあまり絵のことを考えない。  リカのインスタレーションに参加するためには、それが都合良かった。絵のことを一旦忘れてインスタレーションの方にどっぷり集中できた。    緊縛師の楓さんとはこれまでにレクチャー含め3回ほど打ち合わせをした。4回目の今日は、実際にインスタレーションに使う展示室に行って、スペースの寸法を測りながら必要な縄の長さも算出しつつ、全体像をみんなで掴む話し合いをしている。  30代半ばだという楓さんは、普段の雰囲気は緊縛師のイメージとは程遠い人で、日舞やお茶の先生かと思えるような穏やかで清楚な女性だった。でも、一度縄を握ると本当に表情が変わって、その真剣な眼差しに何度ドギマギさせられたか分からない。 「学校イベントだし、性的な要素を可能な限り排除して、罪人の捕縛という古典の捕縄術をやります」  最初の顔合わせの時にそう説明してくれた通り、SMチックな展開は皆無で、本当に着物の上から逃げられないようにしっかり縛る、というだけの形を取ることになった。 「人を殺めて捕まった娘、っていう設定だったよね?」  室内の装飾ももうだいたい決まっていて、江戸時代の座敷牢の中で3つのランクがあるうちの一番上の部屋、『揚がり座敷』をモデルにしたセットを組むらしい。  わたしは『旗本の娘』という設定で、最初は人を殺めた罪で捕まるストーリーだったのだけど、色々やってみているうちに、あまりにわたしが人を殺せなさそうな風貌なので、敵対する武将の家臣から濡れ衣を着せられて冤罪で捕まった、という設定に変更された。 「今回やってみるのは、たくさんある技法の中で一番儀式向きで形式的な『本縄』ってやつで、使用する和服の格が高めなので縛り方も身分が高い女性に施すものになっています」  楓さんもあまりやったことがない古典の縛りに若干の不安があるらしく、資料をたくさん持ち込んで色々と見ながらやっていくことに。 「牢屋の中なのに縛っておくのか?」  民俗学の宮本教授がツッコミを入れたけど、そこはまあショーなので、ということで、史実よりビジュアル重視でいくことにするらしい。 「帯の締め付け以上には絞めないようにするからね」  和装で、ただでさえ身体全体をキュッと圧迫されている。その上に、慎重に縄がかけられてゆく。 「本当はね、罪人だから絶対に逃げられないようにめちゃくちゃ強く縛ったらしいのね。でも危ないからそこまで強くは縛らないけど、ある程度しっかり縛らないと見た目が美しくならないから、それなりにギュッとはいくからね、少しでもどこか苦しかったり痛かったりしたらすぐに言ってね」  全く知らなかったので、イメージとしては本当に縄で幾重にもぐるぐる巻きにされて身動き取れなくなるのかと思っていた。でも実際には、縄は楓さんの手で、最初から決められていたみたいに迷いなく一筋の道を辿るように這い、独特の形状に縛り上げられてゆく。そして、どこか一箇所に過剰な力がかかることがないようにバランス良く身体を締め上げて、その拘束感は、まるで優しく抱き締められているかのように安定していて心地良い。しかも、見た目も美しい。  縄は乱雑に重なったりねじれたりすることなく、本当に行儀よく綺麗に巻き連ねてある。こんなに几帳面に美しく巻けるものなのかと感心する。  テキスタイル科ののぞみちゃんが染めたという縄は、赤をベースに真紅やえんじや朱色など色々な深さの色味があって、結ぶ場所や重なる着物の色によって出番を変えていく。縛る縄以外にも、セットに配置するものが大量にあって、そちらは赤の中にたまに黒や紺が混ざっていたりして、その違和が絶妙な緊張感を生み出していて面白い。 「うーん、どうしよっかなぁ」  リカが頭を抱えている。何かと思って様子を伺うと、背景に使おうと思っていた布地と染めた縄の相性がイマイチなのだという。 「ちょいテクスチャーが目立ち過ぎるんちゃう?」  伊織さんが指摘して、のぞみちゃんが生地に直接触れて確認をしている。 「縄目と生地の繊維の流れが喧嘩しちゃってるよねぇ」  専門の違う人たちが集まって一つの作品を作るのは、思いがけない掛け算が生まれたりしてすごく面白い。これは単独の制作ではあり得ないことなので、勉強になるし、単純に楽しい。  それからもテキチームは生地や縄の打ち合わせを、縛りチームは着物や縛り方の打ち合わせをそれぞれ進めて、だんだんとリカの理想の形に近づいていけているのが分かってワクワクした。  楓さんの縛り方が、最初の頃は資料を見ながら恐る恐る、と言う感じだったのが、だんだん慣れてきたのかテンポ良くなってきて、その縄捌きに目を見張った。 「リカちゃん、どうする? どこと繋げるの?」  逮捕された、という設定なので、捕らわれているということを過剰にアピールするために、牢屋内なのに縛られてしかもその場に固定されているようにしたいらしい。しかも、その固定の過程も全てインスタレーションの一部として見せたいのだという。 「こっちの柱と向こうの壁の上に設置するカラビナの予定なんだけど、距離長すぎます?」 「1回張ってみようか」  周囲で動き回る人たちの声が、空っぽの展示室内に反響して渦巻いている。その雑音が薄い膜のように頭上に広がっていて、気をぬくと取り込まれてしまいそうだ。 「この縛り方だけだと地味だし、いっそのこと立ったままでこっちと繋ぐ縄をガッツリ見せた方がかっこいいかもね」  頭の中で、段取りを何度も反芻する。リカが書いた筋書きと、今まで何度も繰り返した楓さんの縛り方を、一つの流れとして頭に叩き込む。自分一人の作業を抜き出して思い浮かべるのではなく、全体を大きな塊として見て、手順も全体の流れを大きく捉える。自分はその中で、みんなに巻き込まれて抵抗も離脱も許されない弱小の存在なのだと思い込む。客観的に。そうしているうちに緊張も少し和らいで、自分がやるべきことに集中できた。  この方法、良いな。流れに乗ってしまえば、色んなものを制御しやすい。何より、余計なことを考えなくて済む。  数日前、着物の種類を最終決定するための打ち合わせでみんなで集まった時。ミーティングが終わって外へ出ると、伊織さんが声を上げた。 「うわ、今日は白い日かぁ」  そう言って空を眩しそうに見上げる。片目は完全に瞑って、もう片方は限界まで細めている。 「白い日?」  リカが不思議そうな顔をして伊織さんに訊いた。 「うん。そう。白いやん。空」  確かにびっちりと蔓延(はびこ)る薄い雲が陽の光を遮断して、空全体が痛いくらいに白い。灰白色(はいはくしょく)のような不気味な白が、攻撃を仕掛けてきてるみたいに。 「目ぇ、痛ぁ。青い空より眩しいんよ、こういう白い空は。苦手やなぁ、これ」  小さい頃、写真を撮られる時に、周りのみんなが平気で目を開けていられるのに自分だけどうしても空が眩しくて目が開けられず、結局目を瞑った残念な写真ばかりになっていたのを思い出す。  同じだ。わたしが眩しいと思うのも、こんな雲に覆われた白い空だ。 「わかる。刺さりますよね、目に」  そう言ったわたしに、伊織さんが嬉しそうに同調していた。  その少し前にも、サークル棟内で微かに薬品のような異臭がしていて、それに気づいたわたしと伊織さんが臭いの出所を探し当てたら、写真部の部室の裏にある廃棄用の現像液のタンクに小さなヒビが入っていて外のベランダに少しずつ漏れ出していたのが分かった。その時もわたしと伊織さん以外のメンバーにはその臭いは感知できなかったみたいで、みんなから敏感過ぎると驚かれた。 「サラちゃんも、もしかしたらHSPってやつかもしれないね」  標準語で話したということは、たぶんわたしに話しかけている。  初めて聞いた単語。  すぐにスマホで検索すると、ハイリー・センシティブ・パーソンという気質のことらしく、感覚や感性が他の人より敏感な人、繊細な人、という意味らしかった。  自分のことをそんなふうに分析したことなんてないし、そういう特性を誰かに指摘されたことも特に記憶にない。でも昔から、自分が感じている感覚をどうにも周囲の人と共有できなくて、どうしてなんだろう、と思うことは多々あって、もしかしたらそれがそういう特性のせいなのかもしれないと思えば、腑に落ちることはたくさんある。  物心ついた頃から厄介に思っていたことにちゃんと名前がついていて、しかも自分の他にもそういう特性を持つ人がいることがわかったのは良かった。でもだからと言って病気でもないから治療できるわけでもないし、ネットで書かれているような「ちょっとした特別感」をメリットとして感じることも全くない。  この特性を一般大多数の人より崇高なものとして普通にできないことの免罪符にしている情報にも腹が立つし、それを読んで特性を持ち合わせなかった人が妬みの感情を持つのもおかしいと思う。自覚としては繊細というより神経質に近いので、実生活では厄介で面倒なことばかりだ。 「気遣いとか、空気の読み方とか、実は結構バタバタ振り回されてるのに、それを外に出さないようにかなり頑張って抑えてるもんね」  伊織さんは、サラちゃん「も」、と言った。ということは、伊織さんもそうなのかな。 「ある程度のとこで意図的にスイッチ切らないと、疲れてしんどくなるよ」  知識がなさすぎて、あの時は自分がHSPなのだと認めるところまでは行かなかった。伊織さんからのアドバイスにも曖昧に返事をして、なんとなくその流れをスルーしてしまった。  でも、今こうして普段体験することがないような特殊な状況下で様々な刺激や感覚に翻弄されて、何かが破裂しそうなくらいいっぱいいっぱいになっていることを考えると、本当に他の人よりも敏感なタイプなのかもしれないと認めざるを得ない。  だから、自分の五感や感情の変化にはあえて意識を向けないようにして、段取りや流れに意識して集中した。こうして自分の中に渦巻く複雑で濃厚で過剰な感情が外に漏れ出さないように取り繕った。  やってみたら、感度を逃すのなんて今までもずっとやってきたことで、別に今始まったことでもない。慣れてること。自分にとっては当たり前の、普通のこと。それが楽かしんどいかは、もう考えないクセがついていた。  リハーサルを重ねて、縛り方を変えるたびに楓さんがスマホで写真を撮っている。そのシャッター音が、わたしが縛られている事を現実のことだと記録していっているみたいで、もう逃げ場はないのだと覚悟を決める要素の一つになった。  周囲が秋の芸術祭に向けて慌ただしくなってきているのに、4年生の自分たちはそれとは無縁のように卒制に取り組んでいることも、今やるべきことはこっちなのだと改めて納得する理由になった。  こんな体験、もう二度とできないだろうな。家族が知ったらどんな反応するだろう。勘当されたりして。案外、それも良いかも。  あ、なんだか楽しくなってきた。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

64人が本棚に入れています
本棚に追加