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7 天青 てんせい
いよいよキャンパス内が芸術祭直前で騒然となってきた頃、さすがに伊織さんはテキスタイル科の展示の方が忙しくなってしまって、あまり会うことがなくなった。
いや、だからどうというわけではないのだけど。
日本画科は恒例の和菓子喫茶を出すけど3年生が全部仕切ってやってくれるので、4年生は特にやることはない。だからみんな卒制に時間を割いている。
わたしも自分の卒制はちゃんとやっている、つもり。でも実際には思うようには進んでいない。ただ、スランプとかみたいな壁にぶち当たっているわけでもなくて、ただ、なんとなく集中できないだけ。
それよりも今はリカのインスタレーションの方がどうしても気になってしまって、つい、部室に足が向いてしまう。
特に打ち合わせの約束なんてないのに、また部室に来てしまった。
次に入っている予定は何だったっけ。確か、結局壁面に貼る布地の素材やデザインを最初から考え直すことになって、その打ち合わせをリカとのぞみちゃんとのテキチームでやるのが最優先、だったかな。だから、わたしや楓さんは今は出番がない。
縛り方やセットとの兼ね合いも、方向性はだいたい決まった。あとは本当に、セットの背景が決まり次第、使う縄の本数や長さも決まっていくはずなので、それに合わせて最終的な縛りの種類と内容を調整するだけ。
本当にわたしが今やれること何もないな、と思って、この企画がリカとのぞみちゃんとレオくんのものだったのだと思い知る。
そうだった。わたしのインスタレーションではないのだった。わたしはただの手伝い。こんなに大掛かりになって沢山の人たちが絡んできて、みんながそれぞれ自分の得意分野で能力を発揮して参加している。
実際に製作作業をしているリカとのぞみちゃん。その指導に当たっている伊織さん。セットを担当してくれている空間演出デザイン科のレオくん。緊縛のプロの楓さんとそのアシスタントの白崎さん。民俗学の知識をもって全体の監督をしてくれている宮本教授。音響を担当してくれる音大生でレオくんの友人の蘇我くん。思いつくだけでもこれだけの人が関わっている。その中で、わたしは特に何もしていない。ただ、縛られてそこにいるだけ。人形のように。
そうだ。そういえば最初から言われていた。何もしなくて良いから、人形のようにそこにいてくれるだけで良いから、と。
何を自惚れていたのだろう。自分も彼らと同じように才能を持ったクリエイターの仲間のひとりだなんて勘違いして浮かれて。ただのマネキン代わりなのに。
わたしがやる気を出したところで、何の役にも立たない。わたしでなくてもできる役。他に替えがいくらでもいる。そう思ったところで、一旦、思考を止める。ダメだ。これ以上考え続けたら、わたしはこの役を降りたくなってしまう。引き受けたから、ちゃんと最後までやる。でも、またみんなが揃った場に居合わせた時、本当に前向きに気持ちよく参加できるのかどうか不安でたまらない。
つい、大きなため息が出た。それを誰にも聞かれていなかったことを確認して、もう一度はっきりとため息をつく。そしてそのまま、机に置いたバッグの上に倒れ込むように突っ伏した。
バッグが動いた拍子に、バサッと何かが落ちる音がした。
見ると、クリアファイルが床に落ちている。バッグで押して落としたのか。
拾い上げて確認すると、特に折れたりはしていない。良かった。
何かの書類。書式的に、何かの申請書、かな。
一番表にある書類に、校内施設使用許可申請書、と書いてあった。なるほど、このインスタレーションで使う展示室の使用許可書か。
すでに色々と書き込んであって、まあ別に特に見なくてもわたしには関係ないな、と思ったところで、何か不思議な文字列が視界の片隅を横切った。
あれ。なんだろう。
すごい違和感。
場所と、時代と、何か色々な要素が、すごくズレているような。
一度目に入ってすぐに見失って、でも気になって追いかけて、探して。わたしが引っかかった文字が何だったのか、確認したい。でも、頭のどこかでそれは追わない方がいいという無意識も確かに存在していて、その小さな葛藤にわたしは気づかないふりをした。
ゆっくりと最初の方から確認をする。
学内展用の施設使用許可申請書。申請者と、学年と、学籍番号と、連絡先と。それから、使う場所と、利用期間と、利用目的や内容の詳細。ごく普通の、よくある申請書。
おかしな事は書かれていない。知らされている内容。納得してモデルを引き受けたインスタレーションと相違ない。それなら、何が気になったのか。もう一度確認してみる。
申請者。
あれ、これってリカが企画主ではなかったっけ。
でもリカの名前が書いていない。
リカの名前は、吉井リカ。すぐそこのリカの衣装ケースにもそう書いてある。
この書類の申請者は、小松理佳。
なんて読むんだろう。
いや、わたし、知っている。この名前。
コマツ、マサヨシ。
確認しなくてもわかる。でももう、目に入ってきてしまった。申請者の氏名の、フリガナの欄。どう見ても、どう読んでも、コマツマサヨシ。
どういうこと。なんで。どうなっているの。
中学時代、わたしは美術部に所属していた。
同じ美術部にすごく気が合う同学年の男友達がいて、いつも一緒にいた。グループで制作する時もいつも組んでいたし、部活が終わった後もいつも一緒に帰っていた。そこまで仲良くしていたのに周囲から付き合っているカップルとして認識されていなかったのは、その彼が少し変わっていたからかもしれない。
その男子は小松くんといって、周囲からは少し浮いた感じの存在だった。
あまり友達と騒いだりするタイプではなく、いつもひとりで自分の好きなことを黙々とやるタイプ。人が嫌がることをしたりはしないので、特にあからさまにいじめられたりという事はなかったと思うけど、それでも浮いている感じは周囲も感じていたようで、たまにそれをからかわれたりはしていた。でもそのことに対しても別に傷ついたり泣いたりということもしないで、なんとなくサラッと笑って受け流すような余裕がある感じで、だからはっきりとしたいじめにはならなかったんだろうな、と今は思う。
それに、スマートでルックスも割と良かったので、女子からは密かに人気があったのも知っている。それを鼻にかけたりもしないから、男子からもそれほど反感は買っていなかった。ただ、とにかく本人に友達とつるもうとする気がないようで、浮いている雰囲気だけははっきりとあった。
小松くんとは2年生の時だけクラスも一緒になった。とにかく気が合って、親友と呼べるくらい仲良くしていた。小松くんもわたしにだけはすごく懐いてくれて、部活内でのこと以外にも色々な話をした。好きな漫画やアニメや映画の話も楽しくて、たまたま同じアーティストを好きだと判明した時は、一緒にライブに行く約束もした。
どうしてこんなに気が合うのかな、と思って理由を色々考えたこともあった。
わたしは小学生の頃から特定の女子グループに所属したことがなくて、あの裏表があってマウンティングが当たり前で全て駆け引きありきなめんどくさい関係性が本当に苦手だった。だからいつもひとりでいたし、でもだからと言って誰とも話さないわけでもなくて、適当に無駄話をする程度の友達はたくさんいて困ったこともなかった。そういうところが小松くんとは似ているのかな、と思ったりして、似た者同士として仲良くできているのだろうな、とは漠然と感じていた。
2年生の時、クラスに少し厄介な男子がいた。どこにでもいるいわゆるガキ大将的な存在で、例に漏れず、自主性のない男子を4人くらい取り巻きとして連れ歩いていた。
その男子たちが、ある時から小松くんをからかうようになった。
その内容がまた下卑ていて、わたしと仲が良いことを、カップルとしてからかうのではなく、小松くんが女っぽいのだと嘲笑し出したのだ。
「コマツゥ、お前、女子としか遊べねぇのかよ!」
からかいは徐々にエスカレートして、ただのちょっかいからだんだん嫌がらせのレベルになっていった。
「お前、オカマかよ!」
お約束の、下衆なからかい。もちろん、小松くんは相手にしないで軽く笑ってスルー。その繰り返し。
わたしも気にせずそれからも一緒に過ごしていたのだけど、ある時、決定的に嫌なことがあった。
ウチのクラスでは、その日に誕生日を迎える生徒がいると、「今日は誰々の誕生日です、おめでとう」と担任が朝のHRの時に必ず発表するという意味不明なイベントがあった。
小松くんの誕生日、他の子の時と同じように先生が発表して、クラスメイトも普通に拍手をして、そこまではみんなと同じ対応だった。でも、その後が違っていた。
ガキ大将グループが次の日、誕生日プレゼントだと言って小松くんに紙袋を渡したのだ。一瞬戸惑った顔をした小松くんは、周囲に促されてその紙袋を開けた。
袋の中には、百円ショップで買えるような小さなダンベルセットと、むき出しのアダルトDVDと、男性向けセルフプレジャー用のアダルトグッズが入っていた。
「なぁー、コマツゥ! お前もそれ使えばもっと男らしくなるからよぉ、頑張れヨォ!」
最悪なのは、奴らが本気でそう思っているらしかったこと。本気で小松くんを男らしくしてあげたい、してあげられる、と思っていそうだったこと。ふざけた嫌味だったわけではなく、本気で自分たちが小松くんを男らしく変えてあげられるのだと思っていたことだった。プレゼントを渡した後の彼らの誇らしげな顔がひどく醜く見えて、涙が出た。
そのときの小松くんのなんとも言えない表情を見て、もしかしたらこの人は自分の身体の性に対して違和感を持っているのかもしれない、と気づいた。でもどうしたらいいかわからず、中2のわたしは知識もなくて、何も出来ないままだった。
小松くんはそのプレゼントを持ち帰った。でもそれをその後どうしたかは、わたしは聞けずにいた。
小松くんの態度はその後も特に変わらず、あまりに変化がないのでガキ大将グループも張り合いがなくてつまらなくなったのか、小松くんに絡まなくなった。
でも、小松くんはそれから少しずつ元気がなくなっていって、部活にあまり出なくなった。理由を聞いても何も教えてもらえず、ただ、絵を描くのがつまらない、と言っていつの間にか全く部活に出なくなった。
そして3年に上がってクラスが分かれてからは接点がほとんどなくなって、気づいたら小松くんは学校自体に来なくなっていた。そのことを美術部の顧問から聞かされた時、わたしは自分が小松くんから逃げていたことを認めざるを得なくなって、猛烈に後悔した。
小松くんが何かに悩んでいたらしいことはわかっていた。でも、それをわたしからは追求できなかった。だけど、直接そのことを問いたださなくても、何か他に方法が、言い方が、あったのではないかと悔やんだ。ただ、そう気づいた時にはもう遅かった。
小松くんの自宅に電話をかけてみたらその番号は使用されていないとアナウンスが流れて、次の日、小松くんの家族が引越しをしたことを担任から知らされた。
小松くんはいつの間にか転校してしまったのだ。
わたしと小松くんとの関わりはそれっきりで、自分の中では小松くんと過ごした日々は楽しい青春の日々だったとともに、苦く苦しい思い出にもなっていて、心の奥底にそっとしまってある。
その小松くんとのことがあってから、ジェンダーについて色々考えるようになった。自分のジェンダーや性的指向もそうだし、人との関わり、ジェンダーによるグループ分けや役割分担、行き過ぎたジェンダー差別、もっと大きな社会的ジェンダー格差など、男女の区分けだけでは処理しきれない現代のジェンダー問題に興味を持って、色々と調べたり考えたりするようになった。
でも、事はそれほど単純でもなくて、家庭での身の置き所、自分が生きていきたいと思える目標や場所、関わりたい人、そういう生きていくためのアイデンティティーのベースになり得るものが全て曖昧で適当で霞んでいるものなのだと自覚させられて、何度も絶望したのだった。そして、未熟なわたしはそれを解決する術を持っていなくて、なんとなく、そっと、それらの事から逃げたまま前に進むことを選んでしまっていた。
高校に入っても美術部に所属して、そのまま美大に進学するまで一応はブレずにやれている振りをし続けてきた。
でも実際には何も解決していなくて、自分自身をごまかしながら無難に適当に過ごすことだけは格別に上手になっていた。それで大丈夫だったし、これからもそうできる、はずだった。
でも今、思わぬ名前を目にしてしまって、もしかしたらこれは逃げられないのでは、というある種の焦りに取り憑かれている。
どうしよう。何も見なかったことにしてこの場を立ち去るか。それとも、これをリカに突き付けてどういうことなのか問い詰めるか。そんな権利わたしにあるのか。もしここで逃げて、今後はどうなるのか。インスタレーションは。大学生活は。いや、そもそも、リカとの関係は……。
「あーもぉう、今日3往復目ぇ!」
突然声がして、部室にリカが入ってきた。その背後には伊織さんも。
わたしの手には申請書が入ったクリアファイル。もう今からは隠せない。
一瞬、わたしの手の中のものを確認したリカの表情が強張った。それから、すぐにいつものテンションに戻って、あっけらかんとした声を上げた。
「ヤダァ、それそれ! それ取りに来たの!」
わたしの手からファイルを奪うと、そのまま伊織さんに手渡した。
「ここの担当責任者のとこ、名前とハンコお願いしまーす!」
何を考えてるの。
リカ。あなたはどうしたいの。
訊きたいことは山ほどある。
「オッケー」
伊織さんは、この雰囲気に気づいていないのか、いつも通りの対応だ。
「リカ」
1度目の呼びかけにはリカは答えなかった。だからと言ってごまかしたり逃げたりするわけでもなく、ただ黙ってじっとしている。
「リカ」
2度目で、じっとこちらを見た。
リカ。
知りたいよ。リカのこと。本当のこと。
「リカ」
「……うん」
訊いてもいいのかな。何を、どこまで。訊いたら、ちゃんと答えてもらえるのかな。
「リカは、小松くんなの?」
そのまま、思っていることがそのまんま口から出た。言い方に配慮したりとか、オブラートに包んだりとか、そういうことも何もできなかった。
頭の中の逡巡を、わたしは無視した。止められなかった。
リカの顔が、あの時のように、同級生からのプレゼントの紙袋を開けた時のように、何ともいえない表情になっていくのがわかる。
傷つけてしまうかも。辛い思いをさせてしまうかも。そう思うと、わたしは一瞬前に口にした言葉を取り消したいと思った。
でももう遅い。
この場から逃げていって欲しい。わたしの質問なんていつもの笑顔でスルーして、何事もなかったかのようにフラッといなくなって欲しい。それが無理なら、わたしが消えればいいのか。
ごめん。ごめんね。
「うん。そうだよ」
リカの返事が、空気を変えた。
穏やかな声。いつも通りの、華やかで明るい話し方。
天青のような吸い込まれそうに高く澄んだ空みたいな声。
怒っていない? 本当に?
「元、小松くんです」
そう言ってにっこりと微笑んだリカは、わたしが良く知るいつものリカだった。
相変わらず可愛いな、と思って、もっとよく見たかったのに、わたしの視界はぐにゃぐにゃに歪んで、ボヤけて、崩壊した。
喉の奥がギューギューに締まって熱くて痛くて、どうやったらそれが治るのかが全くわからない。
「更紗。泣かないで」
そう言われて初めて、自分が泣いているのだと気づいた。
恥ずかしい、と瞬間的に感じて、その泣き顔を見られたくないと思った。きっと無残なほどにブサイクになっているはず。綺麗なリカには見られたくない。だから隠さなきゃ、と思った瞬間、大きな体に覆いかぶさられるように抱きかかえられていた。
「黙っててごめんね」
優しい声が、リカの胸から直接わたしの耳元に響いてくる。
違うよ、リカが謝ることはない。わたしが気づかなかったのが悪い。あんなに仲良しだったのに。あんなに好きだったのに。
「気づかなくてごめんね」
喉は締まっているし、しゃくり上げは止まらないし、ちゃんと伝わったかな。
でもリカがわたしを抱きしめる腕の強さは変わらないし、おまけに抱きしめながら頭まで撫でてくれていて、きっとちゃんと伝わったのだと思いたい。
そのままわたしはリカに甘えて、混乱した気持ちが落ち着くのをじっと待った。
そして、何か忘れているような気がして、それが何かを必死に考えた。
「あ、あ! あの……」
そうだった。リカと一緒に伊織さんが入ってきていたけど。
慌ててリカの胸から顔を離して周囲を見てみたけど、伊織さんの姿はない。もしかして、気を遣って席を外してくれたのかな。
「ちょっと話そっか」
まだベソベソと泣いているわたしを真上から見下ろして、リカが笑った。
「うん」
こんな至近距離で泣き顔を見られるなんて、恥ずかしくて死ぬ。でもまたリカの胸に顔くっつけたらリカの服を汚しちゃうし、と思ったけどもう目の前のリカのブラウスにはわたしの涙の染みがはっきりとできていた。
「ごめん、服……汚しちゃった……」
「いいよ、そんなの」
優しくて、可愛くて、強いリカ。
大好きなリカ。
「屋上行こうか」
「うん」
さすがに壁で仕切られていない部室では周囲が気になって色々話せない。わたしはリカに促されて、屋上へ向かう外階段がある裏ベランダへ出た。
「うわぁ、涼しい!」
屋上はいつも使う人なんていなくて、非常階段みたいな裏口感丸出しの危なさそうなところを通らないと行けない。でも鍵なんてかかっていないし、学校の安全管理大丈夫なのか?と心配にすらなる。
「リカ」
「うん」
リカはしっかりとこちらを向いて、ちゃんとわたしと目線を合わせてくれている。
「リカは、わたしのこと気づいてたの?」
これからしっかりと会話ができるようにするためか、リカは階段室の壁際にあるちょうどいい高さの段差に腰掛けた。
「うん。知ってた」
「いつから?」
「……ちゃんと確信したのは入学式のとき。でも、実は予備校の時に、もしかしたらそうかな、って思ってた」
ちゃんと訊いたら、こうやってちゃんと答えてくれる。本当はそんなこと分かっていた。リカはそういう人だから。
「予備校? リカも同じだったの?」
「違うよ。別のとこ。でも実技模試だと外部生も受けられるでしょ。あれ受けに更紗の予備校に行った時に見かけて、もしかしたら、って思って」
予備校でも、専攻が違うとなかなか接点がない。ファイン系なら、油画と日本画と彫刻の3科合同のイベントがあったり、デザイン系でもグラフィックと空間と工芸とあたりで合同でやる授業もあったりする。でもファインとデザ系で一緒になることはほとんどなくて、しかも他の予備校から来た外部生ならなおさら認識は難しい。
「それから、更紗の予備校で模試やる時は必ず受けるようにしてて、何度も確認してやっぱりそうかもって思って、でも声かけたりとかはできなくて」
予備校時代、わたしは父の反対を押し切るのに必死で、なおかつ浪人を許さないと宣言されていたし、とにかく何が何でも現役で受からなければ死ぬ、くらいな勢いで、余計なことを一切考えずにひたすら受験用の絵の勉強ばかりしていた。周囲にどんな人がいるかなんて観察している余裕は全くなかった。
「大学決まって、入学式で更紗見かけた時は、あたし受験受かった時より嬉しかったんだよ!」
また会えた。失ったかと思っていた親友が、ちゃんと近くにいた。
しかも、リカもわたしのことを忘れないでいてくれた。
「そんな、合格より嬉しいなんてちょっと盛りすぎ」
「そんなことないよ。だって更紗は、あたしが好きになった最初で最後の女子だもん」
どうしよう。嬉しくて、なんかもう、どうしようもない。
「あーもう、なんで? あたし、なんかひどいこと言っちゃった?」
わたしまた、きっと泣いている。でももう止まらない。いいや、もう。リカが受け止めてくれるから。
「ワソ研に入ったのは、実は更紗がここに入るって知ったから」
「え、着物好きだったからじゃないの?」
鼻が詰まって、自分でも何と言っているのかよくわからない。でもリカはちゃんと聞き取ってくれている。
「着物はもちろん好きだったよ。でも、更紗がいなかったら別のところに入ってたかな」
次から次へとすごい発言が続いて、一種の言葉攻めだな、と思う。あんまりすごいので、これはトラップか何かかな、と心配になったりした。
そういえば、と、気になっていたことを訊いてみる。
「名前、吉井って」
「戸籍上はまだ小松なんだけど、父はもう一緒にいないし、あたしも母も父のことは、ちょっと……色々あって、もう関わりたくないと思ってて、だから、色々事情あってまだ籍抜けないでいるんだけど、今は母の旧姓で生活してる。大学にも、戸籍名と通称と使い分けてることは申告済み」
「そっか……」
本当に色々あったのだ。会えない間に、色々。
「リカは、マサヨシを読み方変えて、そのまま」
「リカはリカが似合ってるね」
中学時代の小松くんと目の前のリカが、どうしてもリンクしない。言われてみれば面影はあるような気もするけど。
「見た目も、すっごい背が伸びたし、全然変わっちゃってて、声も……全然わかんなかった」
「成長期前の中学生男子と成人した今が同じ見た目な方がコワいでしょ。でもすっぴんになったら案外面影残ってるかもよ」
コロコロと笑う声も笑顔も、いつものリカだ。何も変わっていない。
「言い出せなくてごめんね」
改めてもう一度謝りながら、リカがわたしの手をそっと握った。
「あたし、更紗がいたから中学時代楽しかったよ。本当は、自分が他のみんなと違うことに気づいてしんどくなってた時期で、もう本当に死んだ方がマシかも、って思うくらい追い詰められたりもしてて。でも、更紗が一緒に仲良くしてくれてて、周囲の嫌がらせにも全然動じないで一緒にいてくれてて、本当に救われて」
ダメだ。また、涙が。
「でも、中2の夏頃に、元々DV気質だった父親にあたしの性自認が女だってことがバレて、あたしもひどい暴力を受けるようになってね」
リカの指先が、わたしの頰に触れて、涙を拭うようにゆっくり横切った。
「それで、母と、逃げたの」
できれば聞きたくなかった話題。そうであって欲しくなかった。学校の居心地が悪かったとか、友達とトラブったとか、そのくらいでいて欲しかったのに。
「それからも何度も見つかっては付きまとわれて、母子保護シェルターにも入ったし、とにかく逃げ続けて、今も逃げてる。まぁ、さすがに最近は諦め始めたのか、そんなにしつこくはなくなってきたけど」
わたしの頰にあるリカの手に自分の手を重ねて、リカの力になりたい気持ちが伝わるといいと願う。
「母が今、弁護士挟んで離婚裁判のやり取りしてるけど、なかなか解決しなくってさ」
なんでもないことのように言うけど、実際にはものすごく大変なことで、そんなことを抱えているなんて全然匂わせないで大学生活を送っていたリカは本当にすごいと思う。
「やだよねぇ、しつこい男は!」
単なる嫌いなヤツの話でもしているみたいに眉間にシワを寄せてしかめっ面をして見せた。
わたしも親、特に父は嫌いだけど、トランスジェンダーの娘に対して暴力を働く父親なんて、リカに一体どれだけ下衆いことをやらかしたのかと思うと、考えるだけで胸が痛くて苦しくて吐き気がする。
リカが一番苦しい時にそばにいてあげられなかったこと、今更だけど、知っていたかった。ついていてあげたかった。わたしの頰から外したリカの手を、またしっかりと握った。
「なんであの時色々相談してくれなかったの?」
本当に今更で、言っても仕方ないのはわかっているけど、どうしても黙っていられない。
リカは一瞬だけ困った顔をしたけど、ゆっくりと答えを探しながら、慎重に言葉を選ぶようにして説明を始めた。
「それは……あの頃、あたし性自認が女性だって気づいて、でもやっぱり身体は男性で、自分でもよくわからなくなってた時があってね。知識は本でもネットでもいくらでも手に入ったから頭では理解できてたけど、自分の持ってる感覚が、本当はどうなのか、っていうのが考えれば考えるほどわかんなくなっちゃって。でも、身体が、勝手にその、性欲的な部分で色々と変化するじゃない、あの年頃だと。その時にね、自分は女性だから男性と恋愛したいって思ってるはずなのに、持ってる身体だと女子と色々できたりするのかな、とか思っちゃって」
そこまで俯き気味に話していたのに、急に顔を上げてわたしを見た。それから、少し不貞腐れたような顔をして、嫌そうに眉間にシワを寄せながら続けた。
「その時にね、ちょっと……怒んないでね、その、更紗を、そういう対象として見たらどうなるのかな、とか」
一瞬、どういう意味か分からなかった。いや、ちゃんと考えてみても分からない。そういう対象、ってどんなのだろう。性欲的な部分って。女子と色々、って。
「あっ、いや、でも、1回だけ! 本当に1回だけだから! 色々考えた後に、これはダメだなーって思ってそれ以来考えないようにしてたんだけど、さすがに罪悪感酷くて、更紗に会わせる顔ないなーと思って部活行けなくなって……そうしてるうちに父親のことがあって、あと、身長も急激に伸びてきちゃってそれもすごく嫌で、学校も行けなくなっちゃったの」
自分の性自認と身体の性別が違っているという状況が、やっぱり想像できない。男子を好きな男子とは全然違うはずで、女子なのに男子の身体というところからもう想像ができない。どんなに考えてみても分からない。だから、リカがそういうことで悩んだ結果してしまった行為を、わたしは責めることは出来ない。
「もぅ、言い訳してもいい? あのさ、覚えてるかな、中学ん時に、クラスの男子にプレゼントもらったことがあってさ、もっと男らしくなれるように、とか言っちゃって、AVとか大人のオモチャとかくれやがってさぁ!」
リカも覚えていたのか。本当にアホバカだったな、あの男子たち。
「そのDVDをさ、つい、興味本位で観ちゃったのよ、女子でも興味くらいはあるじゃん。AVなんてちゃんと観るの初めてだったしさ、なんかものすごく衝撃だったんだけどね、すごく……気持ち良さそうだったの、女優さんが。それ観てたらさ、なんかもうたまんなくなっちゃって。気持ちは抱かれる女優さんに同調してるのに、身体はさ、自分の身体は男優側な訳じゃん。だから、どうしたらいいのかなーって思って、めっちゃ悩んで。女子として楽しむ方法がその時はわかんなかったわけ。で、じゃあ自分の身体でそういうことしてもいいかもって思える女子が更紗だけだったから、ちょっとね、つい、ついね」
後ろめたいのか、握った手をそっと引いて離そうとしたので、わたしは力を入れて解けないように引き止めた。
「でもさー、いくらレズビアン的な感覚だったとは言え、男の身体使って満たされちゃった時のあの罪悪感たるや、もう本当に人格ぶっ壊れるかと思ったわぁ。それくらい最悪だった。本気で死のうと思ったくらい。まぁ、気持ちよかったんだけどね。だから余計、更紗に会えなくなっちゃって」
あの時、すぐ近くで助けてあげられなかったお詫びに、もうどんなことでも許そうと思っている。リカが頑張った結果だし。
「あ、言っておくけど今はもう完全に迷いとかないので、男としての使い方はしてないでーす。なーんにも手術とかしてないけど、彼氏がそっちは理解ある人なんで!」
そう惚気て見せたリカは本当に可愛くて、ちゃんと愛されているのだな、と安心する。
今、リカはこうして学生生活を楽しく送れている。それが、本当に嬉しい。過去の辛い出来事をなかったことには出来ないし、今だって全ての悩みが解決したわけではないと思う。でも、リカが笑っていて、ちゃんと学校に来ていて、恋人もいて、やりたいことができている。もうそれで十分だ。
「大学入って、更紗とまた友達になれた時に、トランスのあたしを何の迷いもなく受け入れてくれたの、死ぬほど嬉しかった。あの頃と何も変わってないんだなーって」
まっすぐにこちらを見ているリカがすごく美しくて、ドキドキする。階段室の陰になっているのに、ちょうど前髪の一部にだけ光が当たって、キラキラしていて本当に綺麗。
「高校のときから周囲には女子として扱ってもらえてたんだけど、でももし大学であんまり受け入れてもらえなかったら、またどっちつかずの中途半端な立ち位置に戻ろうかな、とか覚悟してたの。でもね、更紗が当たり前のようにあたしを女子として受け入れてくれて、なんか吹っ切れたっていうか。このままで大丈夫なんだ、って思えて、本当に救われたの。2度目だよ、更紗に救われたの」
握っていた手を引っ張られて、また、リカの腕の中にすっぽりと抱きしめられた。座っているリカはいつもより低い位置にいて、立っているわたしとは頭の位置がほとんど同じ高さで抱き合えた。わたしもリカの背中に腕を回してしっかりと抱き返す。
「本当はね、大学入って更紗見つけてやっぱりそうだって確信した時に、ちゃんと名乗ろうと思ったんだけど……やっぱり自分の中では生まれ変わったようなつもりでいたし、どうしても昔のコマツマサヨシとして認識されるのが耐えられなくて」
乗り越えたのだ。リカは。ちゃんと。自分と向き合って、ちゃんと自分の道を決めた。
すごい。カッコイイ。
「マサヨシくんだってあたしの大事な過去だよ。でも、やっぱり今はリカだから。初めまして、ってリスタートしたのにまた更紗が受け入れてくれて、それに甘えちゃった」
「うん……それで良かったと思うよ」
「ありがとね。更紗、大好き!」
わたしからも感謝とか謝罪とかいろんな気持ちをちゃんと伝えたいと思って、何て言おうかな、とか考えていたら、いきなり両肩を掴まれて身体を押し戻された。
「さ。それで? 更紗は? 何かあたしに言わなきゃいけないこと、あるんじゃないの?」
真正面からじっと射抜くように見つめられて、質問の内容を理解するのが遅れた。
「え、なに? 急に、何のこと」
「……そっか。まだ言えないか」
がっかりしたような悔しいような難しい顔をして、リカがため息をついた。
言わなきゃいけないこと、って、わたしが、リカに?
「もしかしたら更紗はこれからもずっと、一生そうやって色んなことから目を逸らして生きて行くのかなー、って思ったら、あたしはちょっとだけ寂しいけどね」
わたしが目を逸らしていること。そんなのいっぱいあるし。あり過ぎるし。
「なに、の、ことを言ってんのか……」
「わかんない? そんなことないでしょー」
いろんな修羅場をくぐり抜けて来たリカには、ごまかしは通用しないかもしれない。
「……まぁいいよ。無理に言わせることでもないし」
一歩引いたようにクールダウンしたリカが、文字通り一歩遠くに行ってしまったような気がした。
「更紗が言いたくなった時で構わないよ、あたしは」
怒っている感じではないけど、やっぱり少し、呆れたというか、諦めたというか、そういう微妙な距離を感じる。
「じゃあ、そろそろ行くか。あ、イオくんに書類持って行かれちゃったんだった」
そう言って立ち上がって、ふぅ、と一つ息を吐いてから階段室のドアの方を向いた。
今……今言わなければ、もしかしたらもう二度と機会は作れないかもしれない。
「あの」
「あーん、まためんどくさい。研究室まで受け取りに行かなきゃ……」
「あの、リカ」
ゆっくりとリカが振り返って、わたしの方に身体ごと向き直った。
「ん?」
「あの、ね……」
「うん」
リカが、もう一度座ってくれる。話していいよ、聞くよ、と言ってくれているみたいに。
言えるかな。ちゃんと、話せるかな。
「あの、わたしも、リカにずっと言えなかったことがあって」
「うん」
「あの、えっと、リカのこと、っていうか、小松くんと仲良くなった頃から、わたしにはずっと悩んでいたことがあって」
「うん」
リカが手を伸ばしてわたしの手をまたキュッと握ってくれた。
勇気が出る。ちゃんと伝える勇気。
「わたしは、小松くんが、もしかしたら自分の性別に違和感を持ってる人なのかな、って中学の時点で気づいてて、でも知識もないしあんまり無責任なこと言えないと思って、小松くんから話してくれるまではそっとしておこうと思ってて、でも同じ頃から、わたしはなんで小松くんと仲良くなったり、小松くんがそうだとしても全然嫌じゃないのかな、とか考えたりしてて、それで、小松くんのことは大好きだけど、でも彼氏になって欲しい感じではないな、と思ったりしてて」
話しているうちに、当時の気持ちが色々と蘇ってきた。色んなことを、思い出してきた。
「その時は色んな可能性を考えたんだけど、自分に一番都合のいい、小松くんが男臭くないから彼氏っていうより親友ポジションでいいんだわ、って自分に言い聞かせてたんだけど」
一度話し出したら思いのほか言葉がどんどん流れ出して、逆に、止められなくなりそうだった。でもいいや。リカになら。リカ相手になら、全部さらけ出しても。
「でも、それからも色んな友達ができて、色んな人と接して、わたしは……自分は、もしかしたら男の人より女の人の方が、好きなのかな、とか、思ったりして」
「うん」
わたしの手を握るリカの手にギュッと力が入って、言い淀んだ言葉がまたちゃんと流れて行く。
「だから多分、わたしは、わたしも……」
止まるな。ここまで来たのだから。頑張れ。
「わたしは、いわゆる、同性愛者なんだと思う」
自分のことを語る時にこの言葉を使ったのは生まれて初めてだ。
父の差別的な暴言にあんなに腹が立ったのもこういうことだからなのだと、頭のどこかではうっすらとわかっていた。昔からジェンダー感がはっきりしない人が好きだったのも、それと関係があるのだと思う。
そうなのかもしれない、と思ってはいても、でもなかなか自分でも認められなくて、それは親への手前だったり体裁だったり、それまで取り繕って生きてきた自分を正当化したいズレた正義感だったりするのだろう。そうやってごまかして見ないふりをしてるうちに、本当にそのことをなかったことだと勘違いとして思い込むことに成功した気分になっていて。
だから、今こうして話していて、自分でも初めてそれを知ったみたいに新鮮な気持ちで受け入れることができている気がした。
「うん」
驚く様子もないし、否定するような素振りも見せない。リカはじっとわたしを見ていた。
「はーあ。やっと言ってくれたかぁ!」
意外な反応に、こっちの方がびっくりする。
「え、なんで? やっと、って……」
「サラちゃん。あのね。中学の時に、好きなアニメとか漫画とか映画の話いっぱいしたじゃん。その時にサラが好きだって言ってたキャラとかって、誰だったか思い出せる?」
そんな昔のこと、と思ったけど、実は全部覚えている。小松くんと話した楽しい思い出だし。自分の好きなキャラも、小松くんの推しも、全部覚えている。
「それに、好きなバンドの人も、好きな芸能人も。どんな人だったか覚えてる?」
「……ん。覚えてる、けど」
「全部女性。ぜーんぶ、女の人。男は1人もいなかった。それで大体は想像つくでしょ」
そうだったよな、と今なら納得する。
「どんだけ超絶イケメンのキャラがいても無関心だし、あたしとあれだけ仲良くしてても男として見てる雰囲気はゼロだし、周りがどの男子が好きだ嫌いだってキャーキャーしてる話題に一切乗らないし、当然好きな男子がいるような話も全く聞かないし。仲良いのにそういう話題にもならないってことは、男子には興味ないんだろうな、ってさすがに気付くわぁ」
「そっか……そう、だよね。うん……」
気が抜けた。
全部バレていたなんて。しかも本人より先に。
「それで? サラがたまに会いに行ってる男とは、これからも続けるの?」
ドキリとした。
リカにあの男の立ち位置をちゃんと説明したことはない。ただ、デートの約束がある、とかいう曖昧な言い方でスケジュールを伝えたりしたことはあった。色々突っ込まれそうになっても、言いたくないような雰囲気をわざと出してごまかしてきた。
「……あれは、あの人は……向こうもちゃんとわかってて、ただの性欲処理だって、お互い、わかってるから」
「性欲処理? それは違うよね」
今までにない厳しい口調で断言するリカを、少し怖いと思う。
「サラの性欲が男に向かうわけないじゃん。それは、男に抱かれてるっていう事実をただ体に刻みたいだけじゃん」
リカの言い分は尤もだ。本当にその通りだし。あまりに図星過ぎて反論できない。
「更紗には、ちゃんと好きな人と一緒に過ごして欲しいよ」
一番、触れられたくない話題。一番怖い。ちゃんとできなくなりそうで。
「そんな、人……いないもん」
「……はぁ。そう。そうね。もう、あんたは本当に時間かかるったら……」
好きな人のことなんて考えたことがない。自分の恋愛が成就するイメージなんて今まで一度も持ったことないし。だから、最初から考えないようにしている。今までもずっとそれでやってこれていた。
「ほんっとめんどくさいけど、それでもあたしは更紗のこと大好きだし、見放したりはしないよ。でも、更紗が本当に一緒にいたいと思った人がそんな更紗をちゃんと見ててくれるかどうかは、わかんないよねぇ」
諭すように厳しい言い方をしているのに、その眼差しはすごく優しくて温かくて、何か導かれてみたいような、縋ってみたいような気持ちになる。
「あたしは、更紗にもちゃんと幸せになって欲しい」
リカみたいにキツい場面を沢山乗り越えて来た人に言われたら、本当にそうなのかも、と思ってしまう。だから、言われた通りにしてみてもいいのかも、とか思ってしまう。
「更紗ならちゃんとできると思うから」
ちゃんと。
ちゃんと、って、どういうふうに?
何がどうなったら『ちゃんとできてる』ということになるの?
「大丈夫。ね。一緒にいるから」
なんて答えたらいいか分からなくて、ただ頷くので精一杯。でもリカはそれで許してくれた。
これは、わたしが自分で解決しなければいけない問題。そろそろ本当に向き合わなければいけないのだと、覚悟を決めるしかないのかもしれない。学生生活が終わって、社会に出て、自分の力で生きていかなければいけなくなるのだし。もう、逃げてはいられないのだろうな。
「さ。行こ。あ、イオくんとこに書類取りに行くの付き合ってー!」
「え、なんで、いいよ、わたしは……い、行かなくていいよ」
「えーいいじゃん、あたしが更紗と一緒に行きたいんだもーん」
「なんで……」
手をがっちり繋がれて、これは強制連行状態だ。
本当は、今伊織さんに会うのは嫌だ。さっき気を遣って席を外してくれたけど、わたしとリカが込み入った話をしていたことはもう気づいているだろうし、そのことで色々と詮索されたりこれ以上気を遣われたりしたら、今後気まずくなってしまいそうだったから。
でも結局、リカのペースに巻き込まれて逆らえなかった。
なんだか今日のリカの勢いは激し過ぎて、色んな感情や感覚に翻弄されたわたしには、もう逆らう力があまり残っていない。それを言い訳にして、もうなんとなく色々流されてみるのもいいのかも、と色々諦めた。
「イオくんってさぁ、可愛いよねぇ」
可愛い?
カッコイイ、の間違いではなく?
「……そう、かな」
「だって、あれだけ王子様してても実際はさ、めっちゃ尽くすタイプなんだよ」
手を繋いだまま、その手をブンブン振って、テキの研究室に向かって歩く。
すれ違う学生たちがジロジロ見ているような気がするけど、まぁいいや。中学生の頃に戻ったみたいで、なんだか楽しい。
「あ、あとね、料理が超ウマい!」
うわ、なにそれ。あの見た目で料理上手とか。
「……ふぅーん」
嫌だ。これ、まためんどくさいやつだ。だから関わりたくなかったのに。
「あれ、イオくんから何か聞いてる?」
「何かって?」
「んーと、イオくんのこと。イオくんの、ジェンダーその他諸々について」
「うん。聞いた。リカがわたしにもう言っちゃってるって勘違いして、普通に話題にしてて勝手に焦ってたよ」
そうだった。
同類、なのだった。全然タイプは違うけど、カテゴリー的には、同類。
そう思うと少し親近感が湧いてしまうのは、やっぱりマイノリティ故の寂しさや心細さから来る感情なのかな。
伊織さんからレズビアンだとカミングアウトされた時は、どこか自分の中でも他人事だという意識がまだあった。あの時はまだ、自分もそうだと完全には認められてなかったから。
でも今は、違う。
リカにカミングアウトした時点で、自分でも、しっかりと認めて受け入れることができた。というか、もう逃げられないのだと覚悟を決めた、という方が近い。
「あははー! やっぱり面白いな、あの人!」
リカにとっては、伊織さんやわたしが同性愛者だという事は特に大きな問題ではないのかな。本人はもっと大変な問題を抱えて闘って来たのだし、同性愛なんて大したことないと感じているかもしれない。それならそれで助かる。
同性愛者ってことに抵抗ないの?なんて訊いてみたくなってから、アホらしくてやめた。リカにそんな質問することに何の意味もない。
わたしが男子臭くない小松くんやトランス女性のリカをすんなり受け入れられたのはわたしも当事者だからなのだと、リカは自然と理解しているのだと思う。それと同じことだ。
中には、当事者同士でも自分と違うタイプを受け入れない人もいるみたいだけど、リカは違う。だから、わたしもリカにはそういうことは訊かないでいようと思う。
リカはリカだから。
じゃあ、伊織さんには?
伊織さんからのカミングアウトは聞いておいて、自分のことは言わないつもり?
言わなければいけない理由はない。でも、隠しているのもどこか後ろめたい。
どうしよう。別に言わなくてもこれからのわたしと伊織さんの関係には、特に支障はないとは思うのだけど。
「今度さぁ、イオくんのご飯、ご馳走になってみようよ!」
「えー、そんな機会あるかなぁ」
良かった。話題が逸れた。
今日は色々あったし、あまり頭が働かない。だから、もう余計なことは考えない。また明日考えよう。
テキスタイル科の棟が見えてきて、なんとなく心の表面にうっすらとモヤがかかったような気がしたけど、あえてそれに気づかないふりをしてわざとリカの手を強く握った。
それに気づいたリカがこちらを向いて怪訝な顔をしたけど、わたしはそれすらもスルーして何にも気づかないふりをして歩き続けた。
テキ棟特有の染料の匂いがしてきて、この辺りに来るとわたしはいつも、海外の空港に降り立った時を思い出す。その土地特有の匂いがどこにもたいていあって、匂いの記憶はしっかりとその時の出来事や出会った人との記憶とリンクして脳に刻み込まれている。
ということは、このテキ棟の匂いはリカのインスタレーションや伊織さんとの記憶とリンクするんだろうな、と思って、いやいや、伊織さんよりはのぞみちゃんだろう!と慌てて意識をコントロールする。そうだ、関わりが多いのはのぞみちゃんだし。テキといえばのぞみちゃん。のぞみちゃんだ。
もう少ししたら会ってしまう伊織さんのことは、今は考えない。疲れてるから。頭が。
やだな、と思う。
テキ棟の匂いが嫌いになりそう。
本当は大好きだけど。
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