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9 滅紫 けしむらさき
リカの生き方を賞賛した伊織さんのせいにしたいわけではない。全部伊織さんに責任を押し付けるつもりもない。
ただ、伊織さんが言ったことを何の疑問も持たずに信じたことは事実で、わたしはリカを目標にしても良いと思うくらいリスペクトしているし憧れているし、色々な面で頼りにしていたと思う。
リカがリカとして生きられている今は辛いことなんてないだろうと思い込んでいたし、トラブルや問題ももうないのだとなぜか信じ込んでいた。
だから、予想もしていなかった突然の出来事にパニクったわたしは、情けないくらい何もできずに狼狽えるばかりで、本当だったら助けなければいけないリカに逆に助けられてしまった。
わたしは本当に、無力で無能で、弱すぎた。
あと数日で冬休み、という頃。
世の中がクリスマスや年末年始を控えて浮き足立ってきていた。
年明けに卒制の提出や展示を控えた4年生たちは、そんな浮き世のイベントとは無縁の日々を送っていた。デートの約束もクリスマス会も忘年会も何一つ予定を入れず、学生生活最後の作品に各々が懸命に向き合っていた。
リカのインスタレーションの方で、最初に予定していた背景に使う生地が気に入らないと言っていた件。あれからみんなで色々と試行錯誤した結果、なぜかわたしが花をモチーフにしたデザインパターンを描いて、それをテキチームがシルクスクリーンで印刷することになった。
たまたまわたしの卒制を覗きに来たリカが、画材箱を包んでいる風呂敷を気に入って、そのデザインをしたのがわたしだと言ったら即決でそういうことになった。
風呂敷は2年生の頃の授業で布用の絵の具を使って描いたもので、手描きの一点モノ。あの時の授業ではシルクを選択する人が大多数だったのだけど、わたしは手描きを選んだ。シルクを選んでおけば今回役に立ったのかもしれないけど、今更だ。
インスタのセットの背景に使う生地は大きくて大量なので全て手描きというわけにはいかないので、シルクでやってもらうことにした。
「更紗の絵って、黒いよね。暗いんじゃなくて、黒い。ちゃんと赤とか青なのに、なんか黒いんだよ」
リカの指摘は割と的を射ていて、教授にいつもダメ出しされている部分でもある。
わたしの絵は人を不安にさせる、と。なんてひどい事を言うのだ、と思ったけど、こうやってそれが何かの役に立つこともあるのなら、それはそれでアリなのでは、と思う。
わたしの絵が黒い?
そりゃそうだろう。だってわたしの中が真っ黒だから。
後ろめたいこと、人に言えないこと、反省、後悔、罪悪感、恨み、妬み嫉み、そんな感情ばっかり詰まっている。そんな人間が描いた絵が鮮やかに澄んだクリアな色なわけがない。
良いのだ。自分では結構気に入っているから。
イメージを提示されてそれに合わせて新規で作品を作るより、今回のように既にある作品を気に入ってもらってそれに準ずる作品を量産する方が当然やりやすい。
リカとのぞみちゃんと何度も打ち合わせを重ねて、順調に作業は進んだ。結構楽しかった。
原画は水彩で描いて、その絵を色ごとに分解して今回は7枚の版に分けた。
原画には、受験勉強でも使ったことのない不透明水彩絵具を使ったし、混色重ね塗りありき、な日本画科としてはほとんどやらない単色ベタ塗りを多用した。絵の具の扱いには苦労したけど、混色の工程なんかの大胆な作業は今まで経験なかったやり方だったりして、もちろんいい経験にもなったし、単純に面白かった。
そして、そのインスピレーションは少なからず自分の卒制へも影響して、ラッキーなことに、ずっと上手くいかず躓いていたところをあっさりと打破できた。
リカのインスタレーションにマネキンとしてだけではなくクリエイターとしての参加ができたことに、正直浮かれていた。わたしだけ別次元にいてずっと疎外感があったのに、ひょんなことからこうしてみんなと同じ土俵に上げてもらえて、やっとチームの一員になれたような気がして、調子に乗っていたのだと思う。
それに加えて、自分の卒制も先が見えてきたことで気が緩んでいた。
年内最後の打ち合わせが終わって、クリスマスも忘年会も何もしなかったからちょっとだけ飲んで帰ろうか、なんていう誘いに簡単に乗った。
街の雰囲気にも流された。どこもかしこも混んでいて、年の瀬だから、という免罪符に甘んじてハメを外している連中だらけ。居酒屋は軒並み満席で、ようやく見つけた空席ありの居酒屋は、個人経営の地元密着型といった感じの小さな店だった。
素直に、誰かメンバーの家に酒持ち寄りで集まれば良かった。でも、課題や卒制のバタバタで来客対応できるほど家が片付いてる人は誰もいなくて、暗黙の、といった感じで飲み屋に行く流れになった。
通された2階にある座敷で、他の席の馬鹿騒ぎを横目にわたしたちは飲み始めた。
「やだ、なんか、ちょっと実感湧いてきたかも!」
ドリンクが揃って、お疲れ様、と声をかけて乾杯した後に、リカが唐突に言った。
伊織さんと宮本教授、それに楓さんの大人チームは、仕事が残っていたり家族と過ごしたりする予定があって、飲み会には不参加。
参加者は、わたしとリカ、のぞみちゃん、空デのレオくん、音響の蘇我くんの5人。
「えぇー、なんでよ、今までも散々色々準備したじゃーん!」
元気で明るいのぞみちゃんのツッコミも、隣の席の大声にかき消される。
わたしたちが席に着いた頃から隣の席の学生らしき集団はイッキコールを連発していて、店選びを失敗したかな、という気はしていた。今時そんな飲み方をしているなんて。コールの中に時々混ざる固有名詞から察するに、すぐ近くにある専門系大学の学生らしい。男子7割、女子3割といったところか。総勢10名くらいだけど、とにかくうるさい。2つのテーブルに分かれていたので別のグループかと思ったら、メンバーが席替えで入れ替わったりしているので一緒の集団らしい。
わたしたちは騒ぐのが目的だったわけではないので、騒音には目をつぶって我慢しながら食事を続けた。時々、絶叫といえるレベルの耳を塞ぎたいような大声が響いた。
30分くらい経った頃、音大生の蘇我くんが席を立った。
「ちょっと僕、耳やられちゃいそうなんで。すみません、お先に失礼します」
そう言って財布から千円札を3枚出してテーブルに置いた。
「あ、じゃあ俺も帰るわ」
続いてレオくんも同じように食事代を出して席を立った。
「まだそんなに食べてないし、お金こんなにいらないよー」
リカがそう言ってお札を1枚ずつふたりに返す。
「ごめんね、今年の締めがこんなんで。年明けたらまた改めてミーティングと、あともっと落ち着いた新年会しようね!」
「そうだねー」
「お疲れ様でした!」
こちらの会話は、隣の集団には聞こえていないだろう。
「じゃあ、良いお年をー!」
「良いお年を!」
「またねー!」
そんな会話の間にも相変わらず続く大騒ぎの声を聞きながら、帰って行くふたりの姿を見送る。そして、聴覚が商売道具の音大生を連れてきていい店ではなかったな、と反省した。美大生はこんなの慣れているけど。
でも、うるさい方向から使用済みのおしぼりが飛んできてわたしたちのテーブルにある食べかけの料理の皿にベチャッと乗った時に、これは許容範囲を超えているな、と思った。多分、リカとのぞみちゃんも。
「ちょっと!!」
リカが叫んだ。
でも、集団はこちらに見向きもしない。
「ちょっとぉ!!!」
もう一度、もっと大きな声で呼びかけた。
「は?」
一番こちらに近いところに座っていた女性がリカを見て、怪訝な顔をした。
あ、これマズいかも。リカ、怒ると声のトーンがかなり変わるからな。見た目とのギャップが一気に膨れて、いつもは感じない違和感が途端に発露する。
「これ、飛んで来たんだけど」
リカがおしぼりを突き返す。
「あ、すいませーん」
ごく軽く、そんなこと微塵も思ってないような軽さで言葉を発して、指先でちょいと引っ掛けるようにしておしぼりを受け取った。
「すいませんじゃなくて、こっちの料理に入っちゃったんだけど!」
リカがまた大声を出したので、集団のうちの半数ぐらいが一斉にこちらを見た。
「え、なに? 男?」
赤い顔をした別の女性が、ニヤッとしながら呟いた。
その瞬間、ゾッとした。足先から徐々に、粟立ちが全身に広がる。
ほら。だからダメだって。
これは、アウト。ダメなやつ。すぐに立ち去らなきゃ。
「リカ。帰ろう」
わたしの提案が、リカに届く前に周囲のガヤガヤにかき消された。
「えー、なになに? え、マジで? オカマ? ガチ?」
「やっべ、マジかよ! きんめぇ!!」
最悪だ。最低、最悪。本当に最低。ありえない。
「リカ、行こう」
もう一度、もっと大きな声で言って、ちゃんとリカに伝わったことを確認するためリカの反応を見守った。
リカはわたしの方を見てしっかり頷いてから、バッグに手をかけて立ち上がろうとした。
でも、立てなかった。リカの腕を掴んで押さえてる人がいたから。
「待って待って。ねぇ、待ってよ。ちょっとだけ。ちょっとでいいからさ」
ベロベロ、と言っていいほど酔ったガタイの良い男。ニヤニヤしていて気持ち悪い。
「ねぇ、お願い、なんか喋ってぇ!」
「ねぇねぇキミさぁ、マジでオカマなの? 正直なところぉ、どのくらいオカマなの?」
次々と男たちが近寄って来て、仲間の発言にいちいち大爆笑している。
笑える要素なんて塵ほどもないのに、意味不明で最悪すぎる。
「リカ!」
「ええー、リカちゃんってゆーんだ、じゃあさぁ、ちょっとだけさぁ、教えてよー」
しまった……名前、バレた。あんまり余計なこと言わない方がいい。黙って去るしかない。
「行こう!」
「え、待て待て待て。キミは、こっちね。ほーら。あれ、キミは普通に女子だよねぇ?」
リカに絡んでいたのとは別の男が、わたしの腕に触れた。
キモい!!!!
「だよねー、ちっちゃいもんねー」
小さければ女子なのか、とか、そういうツッコミはもうしない。したくない。無意味。全く、本当に、意味ないし不毛。
「ねーねー、やめようよぉ……なんかぁ、めんどくさいことになったらあたしやだぁ」
「あーあたしもなんかそーゆーの無理ぃ」
女子たちが一斉に立ち上がって、荷物を持ってそそくさと階段を降りて行く。逃げるように。でも、人が減ったのは少し助かった。
「触んないで」
酔っ払いの手なんて簡単に振りほどけると思ったけど、全然そんなことはなかった。
「俺もパスー」
「オーレも。無理ぃ」
男子数名も席を立って、適当に財布から札を数枚出してバラッとテーブルに置いて帰って行く。
残ったのは、リカに絡んでる男と、わたしの腕を掴んでいる男、そしてなぜかスマホで写真を撮りまくっているキモいバカ男。
「俺はぁあ、ぜんっぜんダイジョーブ、偏見とかないしぃ、今どきL、B……B、G、T……とかさぁ! 偏見、ないない!」
マジで最悪。クソ男。
少し離れたところに座っているのぞみちゃんが、さっきからスマホでどこかに連絡している。まさか、警察というわけではないよな?
「えー、こっちのちっちゃいコは、なんなん? リカチャンの彼女なん?」
「彼女!? ってことはぁ……どーゆーこと? ん? え? レズってことになんの?」
男どもが奇声を上げて大爆笑している。
なんなんだ。そんな面白いことなのか?
ダメだ。これ以上こいつらのネタになることはない。
もう一度、腕を強く引いて男から逃れるために体を捻る。
「おっと……なんだよぉ、逃げんなよぉ」
気持ち悪い。最悪。
「ちょっとぉ、その子に触んないでよ」
突然、リカが言った。その言い方に妙にクセがあって、気になる。いつものリカではない。
なんだか嫌な予感。
「あんたたちが興味あるのはあたしでしょ。その子は関係ないからぁ」
リカの口調が、普段の話し方よりだいぶ、なんていうか、媚びたような、科を作っているような、とにかくやたらとわざとらしい感じがする。
「あー、ダメダメ、その子の彼氏、超おっかないから、あんまりちょっかい出さないほうが良いと思うけどぉ」
そう言われて、わたしの腕を掴んでいた男が一瞬怯んだように手を離した。
「のぞみちゃん、悪いけどその子連れて帰ってくれない? あ、マーくんによろしく伝えてね!」
マーくん!?
マーくんは、リカの彼氏。
そうか。のぞみちゃんはさっきから、リカの彼氏に連絡を取ろうとしていたのか。
リカの彼氏は、ファッション科の助教授の早坂先生だ。これはオフレコで、いくら私大でもさすがに助教授と学生の交際は大っぴらにはできない。リカも自分からは早坂先生個人の話はほとんどしなくて、付き合い始めた頃にこっそり事実だけを教えてくれた後は、詳細はほとんど聞いたことがない。
「ほらぁ、早くしないと彼氏が迎えに来ちゃうよぉ!」
超おっかない彼氏、という印象を信じた男たちが、焦ったようにわたしとのぞみちゃんから引いた。
「もぉ、ほら。荷物持って」
リカが立ち上がって、わたしのバッグとコートを拾って手渡してきた。
「ほら、しっかりして。ちゃんと帰るんだよ」
このまま一緒に、走って逃げられないかな。階段降りればお店の人いるし。
「リカ、一緒に……」
内緒話をするみたいに小声で話そうとしたら、リカが小さく首を横に振った。
「あたし、荷物取られてんの。財布もスマホもあン中。大丈夫。店ん中だし、多分大したことして来ないと思うから。適当に遇らって荷物取り返したらすぐ帰るから」
言われて確認すると、確かにリカに絡んでいた男の背後にリカのバッグがある。それを隠すみたいにしているということは、やっぱりわざと取り上げたのか。なんて卑怯な。汚すぎる。
「でも」
「いいから。先に帰りな。大丈夫。いざとなったらマサヨシくん登場するし」
そんなこと、できるわけない。リカはリカなのに。
「のぞみちゃん、お願い」
のぞみちゃんは完全に萎縮していて、リカの言う通りに動くので精一杯といった感じだ。
立ち上がってわたしの手首を遠慮がちに掴んで、そっと引っ張った。
「やだ、リカ! 一緒に帰ろう!」
「大丈夫よぉ、ほらぁ、彼氏んとこ帰りな」
無理だ。リカを置いて帰るなんて。
「おーい、リカチャン早く楽しい話しようぜぇ」
「わかってるよぅ、もぉ、せっかちだなぁ」
リカが男たちに答えながら、後ろ手に手のひらを振って、わたしたちを追い払おうとしている。もしかして、わたしがこうやってゴネて粘れば粘るほど、リカが解放される時間も遅くなるのかな、とか思ったら、すぐに立ち去って応援を呼んできた方がいいのかもしれないと思い直す。
のぞみちゃんと顔を見合わせて、一度そこから立ち去る覚悟を決めた。
階段を降りている時、2階から笑い声が聞こえた。その下品な笑い声が、決してその場の全員にとって楽しいネタではないのだと、雰囲気でわかる。
リカを助けなきゃ。でもわたしひとりでは無理だ。それなら、誰を呼べばいい?
「のぞみちゃん、早坂先生には連絡ついた?」
「うんん、まだなの。ラインには既読付かなくて。ちょっと電話してみるね」
階段を降り切って、お店の人に声を掛けようかどうしようか迷う。
大きな揉め事にはなっていない。このまま何事も起こらず無事に終わる可能性もある。それなのに、満席で大忙しの店員に余計な手間を取らせるのも気が引ける。何より、店員に知らせたことで本当なら何も起こらなかったはずのところに却って火種を投げ込んでしまうことになったら厄介だと思った。
あと、もしかしたら立地的にあの酔っ払い集団はこの店の常連の可能性があって、一見さんのわたしたちより常連のあいつらの肩を持つ可能性がないわけではない、とも思った。
やっぱりダメだ。とにかく早坂先生を呼ぶしかない。
「ダメだ、繋がんない。あたしちょっと、学校行ってみるね!」
わたしの手に千円札を数枚握らせてから慌てて店を飛び出して行くのぞみちゃんを見送って、わたしはお店の人に声をかけた。
「あの、2階の、5人テーブルの分です」
レオくんと蘇我くんが置いて行ったお金と注文伝票を持ってきていたので、会計を済ませてしまおう。良かった、お金、多目に持っていて。あんな状況では、もう追加注文はないはず。
ダメだ。思い出したら涙が出そう。
2階からは特に揉めてるような音は聞こえない。と言っても1階も賑やかではっきりとはわからないけど。でも、悲鳴や大きな音は聞こえない。
早く誰か、助けに来て。
会計を終えれば、店員が上に片付けに行くかもしれない。でもお店が小規模で手の空いた店員がいそうにも思えない。早く、誰か上に行って欲しい。
お金を払ってしまったので、お店を出るしかなくなった。
でも、どこにも行けない。
学校はここから歩いて10分かからないくらい。のぞみちゃん急いでいたし、運良く早坂先生が見つかれば20分以内には戻ってくるかも。それまではどこか、お店の近くで待つしかない。早坂先生が来るまでにリカが解放されるのが一番いいのだけど。
もし、早坂先生が見つからなかったら?
のぞみちゃんがなかなか戻って来なかったら?
その間にリカに何かあったら?
『いざとなったらマサヨシくん登場するし』
リカはもうリカになって、リカでしかない。男に戻るなんて無理だ。そんなことが必要な状況にならないことを祈るしかない。
不安で心配で、でも何もできない自分を呪い殺したい。なんでこんなに無力なのだろう。
やっぱりもう一度お店の2階に戻って、わたしも一緒にいようか。何かされたとしても、リカが一緒なら大丈夫なのではないか。でも向こうは3人だったし。
悶々と、ただひたすら悶々としたまま、無能なわたしは事が動くのを待つしかなくて、ただ時間が過ぎるのを耐えていた。
どれくらい時間が経ったのか、いきなりお店のドアがガラッと乱雑に開いて、2階にいた男たちが出てきた。咄嗟に店の脇の小道に隠れて身を潜める。
「あー、思ったより面白くなかったなぁ」
「マァジでぇ、期待外れ」
ゲラゲラと下品に笑う男たちの中に、リカはいない。
「おめー、何期待してたんだよー」
嫌な予感がする。
「そりゃぁオカマなんておっぱいとチンコ両方付いてるの期待するだろー!」
セリフの内容と爆笑のギャップに血の気が引く。
ああ。なんだか、吐きそう。
何があった。
リカに何をした。
「がっかりだぜぇ」
「もー俺けっこートラウマんなりそー」
すぐにあいつらの前に立ちはだかって、全員潰したい。めちゃくちゃにして消したい。でも、わたしひとりでできることなんて何もない。返り討ちにあって瞬殺だと思う。でも、許せない。どうしても。
その男たちがヨロヨロと店から遠ざかって行くのを、店の陰からスマホで撮影する。本当に、もし何かあったら絶対に許さない。
3人とも顔がしっかり認識できるように横顔を何枚も撮影して、確実に男たちが遠ざかってからお店に戻る。
店員は1階の奥にいて気付いていない。
忘れ物。そう、忘れ物を取りに来た。
大事な忘れ物だ。
リカ。リカ!
2階に上がると、人影がない。
でもリカはお店からは出て来なかった。
小上がりの手前に、リカの靴はある。まだ、いる。
でもどこに?
リカのバッグとコートは、座敷に置きっ放しだ。
「リカ!」
呼びかけに返事はない。
どうしよう。どこか、どこに……リカ!!
「リカ!!」
もう一度、呼ぶ。
階下から上がってくる騒音で返事が聞こえないのかもしれない。
部屋を見回して、どこか死角がないか探す。
部屋の奥の、少し狭くなった先にある、あれは……トイレ?
急いで靴を脱いで奥の扉の前まで走る。散乱した座布団に足を取られて転びそうになる。でも、リカがいるかもしれない。
「リカ!!」
扉を叩いて、反応を待つ。
「リカ!! いる!?」
少しの間。無音。
それから、何かが動く気配。
そして、内側から鍵を解錠する音が響いた。嫌な音。乾いた、冷たい音。
鍵が開いたのに扉は開かなくて、わたしはこの後どうしたらいいのか逡巡した。
開けるのが怖い。リカからの応答もない。何が起きているのか、知るのが怖い。でも、リカがいるのなら、ここにいるのなら、絶対に助けなきゃ。
「リカ! 開けるよ!」
色々なことを祈ったし願った。何でもない、ただ、いつものリカが笑って待っていてくれること。いつもみたいにキラキラな顔して笑いかけてくれること。
ろくに信じたこともない神様に、初めて、何事もありませんように、と祈った。
でも、そっと開けた扉の向こうに広がる光景は、わたしが想像した中で一番最悪なパターンだった。
洗面所の床に全裸でペタリと座ったリカ。
白い肌に赤いミミズ腫れが沢山。髪はぐしゃぐしゃ。
座布団を一つだけ抱えて体を隠すようにしている。
何これ。
何が起きたの。
涙がドッと溢れて、一瞬、視界が歪んだ。
目眩がする。
「あははー。やっぱ力では敵わないわぁ」
笑っていない。全然。
あの時と同じ。中学の時、同級生の男子たちにプレゼントを渡されて、それを開封した時の顔。
コートを脱いでリカの体を覆い隠そうと駆け寄る。
「もぉー、最悪ぅ……めっちゃ気に入ってたパンツも窓から捨てられたし」
そういえば、リカの周囲に服が何もない。
洗面所の窓が開いていて、そこから覗くと真下の路地に服が散乱していた。
わたしのコートなんかでは、大きなリカの体は全部は隠せない。
「リカぁ……」
コートで隠し切れないところを全部隠したくて、無駄だとわかっているのに必死に覆い被さる。でもやっぱり全然無理で、もう1枚、カーディガンを脱いでリカの下半身にも掛けた。
「やだぁ、更紗。泣かないで。大丈夫だから。何もされてないから」
「そんな……そんなわけないじゃん、こんなことされて」
逆だ。泣きたいのはリカの方だ。わたしが泣いてどうする。
「ホントに脱がされただけだって。他には何も、本当に何もされてないから」
今目の前で傷ついているリカを救える方法がわかれば、何でもしてあげたい。何でもする。でも、それがわたしにはわからない。ただ寄り添うことしかできない。
「あいつら、脱がすだけ脱がしといて、あたしの身体見てドン引きしてたし。全然、どこも全く触られもしてないよぉ」
わざと明るく話す痛々しさに、わたしは自分の胸を針で何度も刺されているような感覚を覚えて、奥歯をギリギリと噛みしめるほど必死に耐えた。
「あたしもし女の子の身体だったらレイプされてたかも、って思ったら、こんな体で命拾いしたよねー、良かったぁ」
「そんなわけない! そんなこと、あるわけないよ! 良かったなんて……リカは女の子なのに……」
細い肩。薄い胸。背骨が浮いて見える細い腰。
華奢で、儚げで、薄暗いトイレの灯りにぼんやりと浮かび上がるリカの裸体は、悲しいほどにものすごく美しかった。
こんなに細い身体で、ひとりで戦って来たのだ。理不尽な暴力や差別、偏見と、ずっと。そしてそれは今でも続いていて。
自分の身体に付いているはずのものがなくて、あるはずないものが付いている。そんな恐ろしいこと、どれだけ想像しても全然ピンと来ない。でもリカは、想像することをすっ飛ばして実感しているのだ。
どんなに苦しかっただろう。どんなに辛かっただろう。それだって、わたしには計りしれない。それなのに、こんな目にまで遭うなんて。
やっぱり離れなければ良かった。一緒にいれば良かった。判断ミスだ。例え一緒にいたせいでわたしまで同じ目に遭ったとしても、それでも一緒にいるべきだった。一緒にいたかった。
「……警察。警察に」
「ダメ。それだけはやめて。お願い」
「わたし、あいつらの写真撮ったよ! 顔わかるように何枚も撮ったから!」
「いいんだって。ただ笑われただけで、何もされてないし」
「でも」
泣き寝入りなんて、そんなの納得いかない。服を脱がせた時点で十分犯罪だ。
「……何を話すの」
「え?」
一瞬、誰か別の人が話し始めたのかと思った。
今まで見たことのない顔。聞いたことのない口調。
「警察行って、何から説明すればいいの……身体は男だけど中身は女なんだって説明すればいいの? 言葉で!? 証拠を見せろって言われたら? パンツ脱いで見せればいいの!? 診断書でも出せって言われたら? 病院行くの? 病院で検査するの? 何を調べるの? 細胞? 遺伝子? あたしはそんなに面倒な説明しないと理解してもらえない生き物なの……?」
反論できない。
「あたしはただ、普通に、ただの普通の女子として生きて行きたいだけなのに……」
何も、言葉が見つからない。
「警察呼んだら死ぬから」
もうわたしにできることはない。リカの望む通りにするしかない。
「リカ。もういいから」
いつの間にか到着していた早坂先生が、リカの隣に跪いた。
良かった……!
のぞみちゃん、会えたんだ。良かった。
「大丈夫だから。帰ろう」
お店に着いた時に気付いて拾ってくれたのか、リカの服を全部持ってきてくれている。
息がだいぶ乱れていて、ここまで走ってきてくれたのか。
「ほら。これ着ような」
「サラちゃん。行こう」
背後から声をかけられる。
知っている声。これは、会いたくなかった人の声。
振り向かなくてもわかる。
伊織さんも来てくれたんだ。
「でも……」
「あとは早坂さんに任せよう」
そっと肩を支えられ立ち上がらされて、ポジションを早坂先生と交代する。
床にうずくまったままのリカをそっと抱き寄せた早坂先生はわたしとは比べものにならないほど大きくて、リカの身体はすっぽりと先生の腕に収まっていた。
それまでずっと強がっていたリカも、さすがに限界が来たのか、ポロポロと涙を零している。
「大丈夫。リカ。もう大丈夫だから」
良かった。リカに早坂先生がいてくれて。ちゃんと気を緩めて泣ける場所があって。
安心と、悔しさと、情けなさと、いろんな感情が一気に湧き出して、それがそのまま涙や嗚咽に姿を変えて溢れ出してくる。止まらない。
立ち上がってはみたものの、涙で視界は不良。しかも今更ながら酔いが回ってきたのか、真っ直ぐ立っていられない。
帰りたい。1秒でも早くこんな店から出て行きたい。でも、身体が動かない。
少しよろけて壁に背中をぶつけて、いっそ座ってしまいたい、と思ったら、いつの間にか横から身体を支えられていた。
「リカちゃんについててくれてありがとね」
至近で聞こえる伊織さんの声。柔らかくて、優しくて、心地いい。
「さ。リカちゃん服着るし、行こう」
そのまま肩を支えられながら、ゆっくりと階段を降りる。
カーディガンとコートをリカに貸してしまったので、ブラウス1枚になっていた。店の外に出てから寒くて気付いた。
「これ着てな」
ふわりと肩に掛けられたのは、伊織さんが着ていたジャケット。
暖かい。
「でも、そしたら伊織さんが寒いし」
「サラちゃんの格好よりはよっぽど厚着だから平気だよ」
「……すみません」
ジャケットに袖を通している間に歩き始めた伊織さんに、なんとなくついて行く。あれ、これ、どこに向かっているのだろう。
「のぞみちゃんから大体のことは聞いた。大変だったね」
言われてから、ずっと気になってたことをはっきりと認識した。
「あ、あれ、そういえばのぞみちゃんは?」
「お店までは一緒に戻ってくれたんだけど、服散らかってるの見つけて泣き出しちゃったから、あとは任せてもらって帰ってもらった」
のぞみちゃん、きっと心配している。捨てられた服を見て、きっと嫌なこといっぱい考えて、そのまま帰ったのだ。リカがすぐに連絡できる状態ではないだろうし、わたしから連絡しておいた方がいい気がする。
とりあえずラインで、大丈夫だったと伝えたい。でも、無事、と書いてもいいのかな。あれは無事だったと言える?
「まだ寒い?」
そう訊かれて、何か寒そうにしてたかな?と思って考えてみたら、自分の体がガタガタと震えていることに気付いた。スマホをタップする指が笑えるほど震えていて、それをきっと見られたのだ。
これは、寒さから来ている震えではない。
怖かったのだ。すごく。恐ろしかった。
あいつらも、リカがされそうだったことも、自分がどうなってしまうかも、すべて。
「のぞみ、ちゃんに、大丈夫だったって……教えてあげないと」
「そうだね。無事だったって伝えてあげて」
やっぱり無事だったと言っていいのか。良かった。そうだ。リカも言っていた。何もされていないと。
嫌がらせされたけど無事だったよ、と書いてから、先生たち呼んできてくれてありがとう、とお礼も書き加えた。すぐに読んで安心してくれると良いのだけど。
「送れた?」
「……はい」
しばらく止まって待っていてくれた伊織さんが、またゆっくり歩き出した。
わたしはこのままこの人について行って良いのかな。このまま歩いたらどこに行くのだろう。
「何も出来なかった」
色々と、思い出したくないのに記憶が蘇ってきて、つい口に出した。
「何も出来なかったんじゃなくて、何もしないであげられた、んでしょ」
伊織さんが、少し後ろを歩くわたしの方を振り返って、確認するように言った。そして、わたしが伊織さんのところまで進むのを待って、隣に立ったところで肩に腕を回してきた。そのままゆっくりと肩を抱かれて、歩くのを手助けされてるみたいに誘導される。
「リカちゃんの言い分、聞いたよね? おおごとにしたくなかったんだよ、誰にも知られたくなかった。サラちゃんのおかげでそれが叶った。リカちゃん的には最良の結果だと思うよ。大丈夫。大事な友達が付いててくれて、最後には一番大好きな人が助けに来てくれたんだから、きっと大丈夫だよ。いいなぁ、きっと今夜はめっちゃ盛り上がるんだろうなぁ」
敢えて悲壮感を出さないように話してくれているのがわかる。
話の内容的には、こんな時に不謹慎だ、と一瞬思ったけど、伊織さんの表情にふざけているような色は見えなくて、冷静に考えてみたら、彼女なりにわたしの気持ちを和ませるために言ってくれたのだろうと理解できた。慰めてくれているのだ。
「リカはリカなのに。なんであんな」
言いたいことが山ほどある。言うべきことも、言わない方がいいことも、両方。
「身体がどっちだって関係ないのに」
「それはサラちゃんがシスジェンダーだからこそ思えることじゃないかな。身体と心の違和の辛さは、当事者じゃないとわからないよ」
「でも」
「セクシュアルマイノリティって一言で言っても、内容は様々だし、個人差もあるし」
わかっている。そんなことは。わたしだって当事者だし。
そう思ってから、そういえば伊織さんには言ってなかったんだっけ、と気づく。
「なんでこんな、ただ、身体が違うってだけで、こんな目に、なんで」
聞いていて欲しいという気持ちと、耳を塞いでいて欲しいという気持ちが混在して、混乱する。自分でもよくわからない。
「性別って何なの。女に生まれたら何なの。男なら、何なの。誰が決めるの。なんで、なんで女は女で男は男で」
あれ、なんか、もしかして、やっぱりすごく酔ってる?
言葉が止まらない。めちゃくちゃなのに、全然。
「男だからとか、女だからとか」
肩を抱いていてくれた伊織さんが歩くのを止めて、ゆっくりとわたしを両腕で抱き込んだ。
なんだ、これ。こんな、公道で。今の時期、めちゃくちゃ人いっぱいいるのに。
「誰を好きになったっていいじゃん、好きになっちゃダメな人なんていないのに」
普通ではない状態だとわかっているのに、止められない。
「同性だって、Xジェンダーだって、トランスだって、みんな同じなのに」
わたし何を言いたいのだろう。何を言おうとしている?
「好きになっちゃったら同じなのに」
いつの間にかリカについての話ではなくなっているな、と気づいてはいるのだけど、元に戻れない。
「なんでダメなの」
マズい。止まらない。
「もぉ、やだ……」
言ってはダメな言葉が出そう。
「好きでこんなふうに生まれたわけじゃないのに」
あぁ。もう。ダメだな。アウト。
止められない。
「マイノリティになんて、なりたくてなったわけじゃないのに」
でももう、いいや。別に。どうでも。
だってなんか、すごく温かい。
「くそじじぃ」
あーあ。言ってしまった。全部。
色々、バレたかな。でももう本当に、いいや。
「うん、そうだね。うん……」
抱きしめられている身体も、響いてくる声も、全部。何もかもが温かい。気持ちいい。
酔っているのかも、と思ったけど、その心配は段々と安心に変わっていって、いつの間にか、酔っているから仕方ない、酔っているから許してね、という言い訳にすり替わっていた。
伊織さんの腕の中からそっと見上げた空は、真夜中に近い時間なのに漆黒ではない滅紫で、薄く張った低めの雲に地上のネオンが反射しているのだろう。ぼんやりと薄明るいような夜空を見ていたら、また涙が出てきた。
ついさっきまでの涙と意味が違うような気がしたけど、そのことにはわざと気づかないふりをした。
伊織さんのハグが腹立たしいほど温かかったから。
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