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────12年前。
「瑚登里ちゃん!」
「はい、何でしょう、紗代子さん」
望月紗代子は、庭先から通りを歩く佐伯瑚登里の姿を認めるなりドタドタと門を開けて彼女を呼び止めた。
「瑚登里ちゃん、瑚珀君を手放したって聞いたんだけど、本当なの!?」
紗代子がその話を聞いたのは、つい昨日のことだった。偶然居合わせた近所の主婦と少しばかり立ち話をした時に、相手の女性がところで、と声を潜めて喋ったのだった。最近どうも瑚登里と歩く瑚珀の姿を見かけないな、なんて思っていたが、まさか別離していたとは思わず紗代子にとっては寝耳に水の話だった。
嘘であって欲しいと思いながら瑚登里を見つめると、彼女は何度か瞬きをした後、いつもの微笑を浮かべた。
「ええ、もう私の息子ではありません」
いつもと同じ、美しい笑み。なんの後悔もなく言い切るその顔に、紗代子は息を呑んで一瞬押し黙った。情報が頭の中で溢れて、混乱を極める中つっかえながら疑問を口にする。
「ど、うして……?」
信じられなかった。だって、少し前までは二人で買い物に行って、手を繋いで歩いて、笑顔で歩いていた。誰が見ても、幸せな親子で。境遇こそ大変ながらも、二人は、二人だけの世界を生きていたはずだった。二人だけの、小さな幸せを、生きていたはずなのに。
「……私は最初からあの子のことは愛していなかったんです。生活費も余分にかかりますし、必要な人がいるのなら譲った方がお互い良いでしょう?」
自分の息子をまるで物のように表現する瑚登里に、思わず紗代子は彼女の肩を掴んで問い詰めた。
「瑚登里ちゃんっ!!何か、何か理由があるのよね?そうなんでしょ?もっと別の、何か事情が」
「いいえ、これ以外の理由はありません。単純に、私がそうしたいからしたんです」
絶句して言葉を失う沙代子に瑚登里はにっこり笑って、「冷えますから紗代子さんも早めに戻ってくださいね」と告げその場を後にした。
残された紗代子は茫然自失としたまま家に戻り、玄関にしゃがみ込んだ。
そんな、そんな馬鹿な。
愛していなかった……?
いつから?初めから?
そんなわけが無い。
だってあんなに嬉しそうに、毎日息子の成長を紗代子に話していた彼女だ。
愛していないのに、あんな顔ができるものじゃない。
だって、だって。
思い返せばキリがなかった。脳が必死に瑚登里の言葉を否定しようと反論を並べ立てる。紗代子にとって娘同然の彼女が孫同然の彼を手放した。母親としての義務から、逃げた。
二人だけの世界は、虚像だったのか?
否、そうではない、と叫びたかった。
けれど、紗代子と瑚登里は所詮他人。実際の娘でもなければ、母親でもない。瑚登里のことを知った気になって、その実何も知らなかったという結末も否定できなかった。
夕方、帰宅した宗一郎は妻の異変をすぐに察知し紗代子の話を聞いた。空気が重くなり、鉛を飲み込んだような深沈が二人を襲う。紗代子は、きっと何か事情があるのだろうと説得する宗一郎に頷きながらもやはりどうしても気になって、瑚登里に接触を試みた。
けれど、彼女に出会う頻度は日に日に落ちていった。出会ったとしても彼女は挨拶程度で済ませて立ち去ってしまうのだった。
ここまでされれば流石に紗代子でも分かった。露骨に避けられている。
それにまたショックを受けて、紗代子はやがて瑚登里と会うことを諦めてしまった。いつの間にか、彼女を遠目から見るだけの日々が続いていた。
彼女は、遠目から見ても何も変わりなかった。
誰に対しても優しく、笑みを絶やさない聖母。
隣にあの子がいないだけ。手を繋いでいないだけ。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬になっても。
瑚登里の隣から瑚珀の姿だけが、綺麗に切り取られたような、変わらない笑み。
何度も、何度も、季節は巡った。紗代子も宗一郎も年を取り、定年を迎え、二人の中で母譲りの碧眼をキラキラさせる小さな姿の記憶は、季節が巡るごとに褪せていった。
瑚珀がいなくなって、10回目の冬。
ふと、ぱったり瑚登里の姿を見かけなくなったことに気がついた。ここ何日か、全く見ない。
嫌な予感がして、紗代子は宗一郎と共に瑚登里を訪ねた。妙な胸騒ぎがした。
呼び鈴を鳴らして待ってみたが、応答がなかった。3回ほど鳴らしたが、扉の向こうは静まり返ったまま。宗一郎が顔を険しくしてドアを叩いた。
「瑚登里ちゃん僕だ、いたら返事してくれ!」
しかし、張り上げた声に反応したのは近所の人間だけで肝心の扉の向こうは沈黙のみ。念の為野次馬根性で出てきた近隣住民にも瑚登里を見かけたか聞いてみたが、彼女を今日見た人はおろか、ここしばらく見かけてすらいないという情報しか得られなかった。
「鍵が開いてる……」
ドアノブに手を回して瞠目した宗一郎は意を決した顔で振り返り、紗代子は泣きそうな顔で頷いた。無事を祈ることしかできなかった。
室内は、夕方だというのに薄暗かった。
「瑚登里ちゃん!!いるの!?瑚登里ちゃん!!」
細く短い廊下を歩きながら、名前を連呼して奥へと進む。不気味なくらい静まり返った家は、永遠に朝が来ないのではないかと思えるほどだった。
「っ!!さっちゃん、こっちだ!!」
先に中に入ってリビングに向かった宗一郎が、切羽詰まった叫びで紗代子を呼んだ。紗代子はその声に狭く暗い廊下を駆けてリビングに向かい、その目に飛び込んできた光景に錯乱した。
「瑚登里ちゃんっ!!!」
そこには、ぐったりとした様子で宗一郎に抱き起こされた瑚登里の姿があった。ふらふらしながら瑚登里に手を伸ばす。
陶器のように冷たかった。
宗一郎が目に涙を浮かべて首を振る。元救急隊員である彼には、少し医学の心得があり既に瑚登里が手遅れな状態であることが分かっていた。紗代子は何度も何度も瑚登里の名前を呼びながら、ただ泣くことしかできなかった。
「ど、うして………」
「……もう随分時間が経ってる…一日くらい経ってるかもしれない」
冷たく固いその骸を抱き抱えて、宗一郎は静かに涙を流しながら110番と119番に電話をかけた。
全てが終わった後、二人は警察と病院を通して彼女の死の原因を知らされることとなった。
「佐伯瑚登里さんの死因は、肺癌です。かなり進んでいたようで、既に末期症状に突入していたと思われます」
「肺癌………!?」
「肺癌は進行しても症状が現れないことも多いですが…ここまで進んでいるとおそらくかなりの症状が現れていたでしょうね」
何か変わった様子はありませんでしたか?と聞かれて二人は力なく首を振るだけだった。ここ何年かは瑚登里のそばで彼女を注視していない。以前なら絶対に気がつけたはずの異変に、彼らは最後まで気が付けなかった。
間違いだった、過ちだった。彼女を放っておくのではなかった。
放ったばかりに自分達は、彼女を失った。
────私が、簡単に諦めたから。
避けられたくらいで、自分が話を聞くことを諦めたから。
気が付けなかった。娘同然に思うなら、最後まで、彼女にもっともっと気を回すべきだった。
紗代子は後悔で胸が押しつぶされて、涙を止めることができなかった。
「私のせいよ!どうしよう、私、私瑚登里ちゃんのこと何にも知らないでほっといて……!」
「さっちゃん…君だけのせいじゃない。僕も、大丈夫だって、そのうち時間が解決するって、君に無責任なことを言ってしまった」
二人はしばらく、体を抱きしめ合って泣いた。
心に大きな穴が空いたまま、2人は葬儀を迎えた。警察が戸籍を調査したところ、瑚登里の両親はすでに交通事故で亡くなっており彼女は親戚含む身内が一切おらず、天涯孤独だったことが判明した。息子の瑚珀は実は戸籍にすら載っていないことを知って、紗代子と宗一郎はさらに驚いた。
通夜に参列したのは、彼女とは誰も血の繋がっていない近隣住民だけだった。誰もが若く美しい、街の聖母の死に涙して、肺癌という病魔を恨んだ。
葬儀が済み、会場となった地域の公民館は参列客の帰宅によって閑散とした。紗代子と宗一郎も片付けを終えて帰ろうしたが、後ろから声を掛けられた。
「失礼っ、あなた方は、佐伯瑚登里さんの望月さんご夫妻でしょうか?」
振り返るとそこには、紗代子達よりも一回りか二回りほど若い男女が立っていた。急いで来たらしく、男性の方はオールバックにした髪を乱れさせていた。
「え、ええ……そうですがあなた達は……」
「私は瑚登里さんと知り合いの、龍神完治と言う者です。彼女は私の妻で、いすずと言います。妻は瑚登里さんの古い友人で……」
龍神、という名字に宗一郎はピンと来た。確か、警察から見せられた彼女の携帯の連絡先に唯一職場以外で登録されていた苗字だ。やり取りの形跡から彼女と親しい友人だったのだろうと言われて、宗一郎は教えてもらった住所宛に訃報を葉書にしたためて投函したのだった。目を真っ赤に腫らしたいすずを見れば、やはり瑚登里と親しい間柄だったのだろう。
「遅れて申し訳ありません、急いで飛ばしたのですが……改めてこの度はお悔やみ申し上げます」
「いえ、そんな……」
厳かに頭を下げる彼らに、紗代子と宗一郎はあわあわとする。本当の親でもない自分たちが出しゃばって良いものでもないと紗代子が言うと、完治は首を振った。
「いいえ、血の繋がりなど所詮大した事実ではありません。血の繋がっていない彼女のために通夜と葬儀を開いているあなた方は彼女の身内と言っても過言ではないでしょう。それだけ、愛情を持っているということですから」
そう言って彼は傍らのいすずを慰めながら、2人に微笑んだ。
「火葬代と葬儀代は我々が支払います。もちろんお墓に関してもこちらが手配します。彼女は、望まないかもしれませんが」
彼の提案と物言いには、何か知っているような含みがあった。全て知っているようで、尚且つ悲しげな二人の瞳を見て、紗代子は思わず彼らにしがみついて問いを口にした。
「何か、何か知っているのっ?あなた達は、瑚登里ちゃんについて何か、」
「さっちゃん!」
慌てて宗一郎が紗代子を止めようとするが、それを完治が穏やかに制する。いすずと目を合わせて、少し頷いた。
「……ある程度の事情は察しています。おそらく、奥様の知りたい情報も持っています」
その言葉に紗代子は藁にも縋る思いで完治に縋りついた。
「お願い、教えて欲しいの。私、私このままじゃ、ずっと後悔してしまいそうで、」
今にも溢れそうな涙を堪えながら必死に嘆願する彼女を、宗一郎は何とかしなければと踏み出す。それと同時に、完治が言葉を返した。
「彼女の家の中は、じっくり見られましたか?」
「……え?」
唐突に切り出す完治に紗代子だけでなく宗一郎まで固まった。完治は、優しげな笑みを浮かべて続けた。
「きっと、見れば必ず分かりますよ。彼女のことが」
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