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龍神side
「それで……紗代子さんは、どうされたのですか」
負ったショックを隠すように、俺は続きを問うた。肺癌のことも、父上と母上がこの地を訪れていたことも、俺だけが知らない事実だった。俺だけが、蚊帳の外。何も知らないまま、全て終わっていたのが辛くて、苦しくて、けれどそれを知られまいと俺は唇を噛んだ。
「………行ったの、もう一度、瑚登里ちゃんの家へ」
紗代子さんは、凪のように穏やかな目で笑った。先ほどの悲嘆に満ちたものではなくて、もっと、慈しむような、優しい瞳。まるで俺の感情が見透かされているようで、妙に落ち着かなかった。
「……そこでようやく、龍神さんの言っていた意味が分かったの。瑚登里ちゃんの部屋に入って、本当にびっくりしたわ。今でもあの時のことが忘れられない」
思わず膝の上の手が服を握り締めると、優しく制するように西連寺の手が俺の手を上から覆った。テーブルの下で、そっと。ただ、握るだけ。
でも、それで十分だった。
真っ直ぐ、紗代子さんの目を見つめ返す。紗代子さんは、宗一郎さんと顔を見合わせて、二人して微笑んだ。紗代子さんが、ゆっくりと口を開いた。
あのね。
「……瑚登里ちゃんの部屋には、写真がたくさん貼ってあったの」
「写、真………」
紗代子さんは、殊更優しい目で俺に頷いた。
「全部、あなたの写真だったのよ」
何かが、小さく弾けたような気がした。
真っ白な世界。黒の闇が、割れて出てきた、白。
夜が明けるように、伸びた光が、触れて。
「……狭い小さな部屋だったけれど。古い壁にサイズの違う写真が、丁寧に貼られてた。随分昔のものもあって色褪せていたのもあったわ。その写真、一枚一枚、全て。全て、あなたの写真だったの」
伸びたひかりは、俺に絡んで。俺は、そのひかりを呆然と見つめる。
「まるで宝物みたいに、その部屋は扉もしっかり閉まってて、守ってあったわ。私ね、泣いちゃった。もう、年甲斐もなくボロボロに。涙が止まらなくって」
ああ、やっぱり瑚登里ちゃんは瑚登里ちゃんだったんだって。
少し潤んだ瞳で、紗代子さんは目を細めて笑んで、そしておもむろに立ち上がった。向かったのは、後ろにあったチェスト。その引き出しを開けて何かを取り出すと、俺の前にとす、とその何かを置いた。
それは、ノートだった。
装飾がほとんど無い、質素とも言える表紙。日に焼けて、色が少し落ちている。分厚い、というのが特徴と言えるくらいの、そんな朴訥な様相。
その中での唯一の装飾。真ん中に小さく書かれた文字。
『日記』
角のある達筆。なぜか、その字から目が離せない。
「部屋の、机の上に置いてあったの、しおりを挟んだまま。本当はいけないんだろうけど、私、どうしても気になって。宗一郎さんと、その場で読んだの」
その言葉で、確信した。これは、母の日記なのだと。
「瑚珀君が、これを読むか読まないかは、私達が決められることじゃないわ。読んだ方がいいとか、読まない方がいいとか、そんなことも言うつもりはないの……だって、それはあなたが決めることだと思うから」
それは、突き放しではなくて。
俺への、尊重。
俺を大切にする、想い。
──だから、怖くなかった。
俺は、日記に手を伸ばして、そっと大切に、一ページ目をめくった。
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