蠱惑『西瓜』

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「母さん、母さん、雅子姉さんが来てくれたよ」  母は寝返りを打って反対を向きました。母は姉が好きではありませんでした。私がこの家を継いだのもそれが原因です。 「母さん、もう昔のことはいいじゃないか。折角姉さんが見舞いに来てくれたんだから」 「いいよもう、あたしは帰るよ。それだけ強情で元気ならまだまだ死にゃしないよ。母さん、通夜の晩を愉しみにしてますから、それじゃお大事に」  姉は止める私を振り切りさっさと帰ってしまいました。 「母さん、母さんが悪いよ、姉さんは母さんが心配で来てくれたんだから」 「違うよ、父さんが帰って来たから来たんだよ、ベタベタしやがって」 「そんなことないよ、父さんは姉さんが可愛いかったからさ、それにもう五十年前のことじゃないか、消えた父さんが悪いんだから変な想像はしないでよ母さん」  その時母が寝返りを打ちました。私は驚いてひっくり返りました。腰が抜けて立てないとはこのことだと思います。タオルケットに包まっていたのは五十年前の母でした。母は起き上がると白い割烹着を着ました。 「さあ、父さんが直に来るからお前は外で遊んでお出で」  母は後ろに手を伸ばし割烹着の腰の紐を結わきながら台所に行きました。 「ああそうだ、今日は職人さんが来てるだろ、西瓜をご馳走しようと父さんが言ってた。お前悪いが商店で氷を二貫買って来ておくれ、買って来たら物置から盥を出して水を張って縁側の西瓜を冷やしておくれ」  母が振り返り言いたしました。私は返事をする声も出ませんでした。これが夢でありますように願うばかりですが、部屋の家具やカレンダーや柱時計がその願いを断ち切るのでした。私は柱を掴んでやっと立ち上がり台所に行きました。先日見た割烹着の若い女は姪の沙耶ではなく私の母でした。もしこれが現実ならば悲しむことなのでしょうか。母が若返ることは喜ぶべきことではないのでしょうか。私は母の使いに行くことにしました。もう当時の商店は無くなり、氷屋などとっくに廃業しています。スーパーの袋に入った氷を三つ買い、ポリバケツに水を張り氷を入れました。縁側に行き蔓の付いた西瓜を見つめました。職人さんが会釈しました。母は昨日この西瓜に跨っていました。喘いでいるように見えました。鋏を蔓に当てると急に雲行きが怪しくなって来ました。蔓をバチンと切ると西瓜が反転しました。雷が鳴り雨が降り出しました。もうじき梅雨明けでしょうか。  
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