episode.3 思い出のコーヒー

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「よかった、会えて」 「……何の用」 「……今度の水曜、時間、あるかな」 「……ある訳ないでしょ」  あんたと会う時間なんて、と冷たい目に睨み付けられたけれど、ここで怯む訳には行かない。  バイト先の最寄り駅名を告げて、 「……学校終わった頃に……。待ってるから」  そう重ねた。  興味なさそうな顔のまま、返事もなく立ち去っていく後ろ姿を、見えなくなるまで見送ったのは先週の木曜日のこと。  来てくれる可能性の方が低いよな、と思いながら約束の時間に待っていたら、優悟はのっそりと現れた。 「……よかった。来てくれて」 「……」 「行こう」 「……どこに」 「いいからいいから」  渋々といった顔をしながらも後ろを付いてきてくれる優悟を連れて行ったのは、バイト先のカフェだ。  「CLOSE」の看板の掛かったドアを開ける。今日は定休日のところを、無理を言って開けてもらった。 「おう、来たか」 「来ました」 「んで、君が章悟の弟くんか」 「え?」 「優悟くんです」 「いらっしゃい」  ニッカリと笑った店長がちょいちょいと手招きしてくれる。  優悟の背中を押して、カウンター席に座らせた。 「あの……?」 「ここね、章悟のお気に入りのカフェで、バイトもしてたんだよ」 「……兄ちゃんの?」 「……君あの頃はまだ中学生だったからさ」  ふふ、と笑って思い出すのは、初めてここへ連れてきてもらった日のことだ。あれはまだ付き合う前だった。 『まだ、誰も連れてきたことなかったんだ。司が初めて』 『へぇ……。……良かったの? オレで』 『なんで?』 『弟くんじゃなくて良かったの?』 『……アイツはまだお子ちゃまだからなぁ。……あいつが大人になったら連れてくるよ。それで、オレのお勧め出してやって、奢ってやるって決めてんの。格好いいでしょ』 『……格好いいのぉ? それ?』  あれ、かっこよくない? とキョトンとした章悟が、なんだか可愛かったのを覚えている。 「……オレのお勧め奢ってやるんだって、章悟が言ってたから……。章悟じゃなくてごめんなんだけど……」 「……」 「君の話、たくさん聞いてたよ、章悟から。……可愛くて仕方なかったんだよね、きっと。……店長も、たくさん話聞いてるって言ってたから」 「そうそう。アイツ、口開くと司の話か弟の話しかせんかったからな」 「ソレは言い過ぎですって」  優悟の隣の席に座る。 「……じゃあ、店長、お願いできますか?」 「勿論。ちゃぁんと豆も仕入れたんやで」  ひひひ、と嬉しそうに笑う顔は子供にしか見えない。コーヒーを扱うときの店長は、いつどんな時でも楽しそうだ。  慣れない環境で、よく知りもしない人間に囲まれて、そわそわと落ち着かない様子の優悟にそっと話しかける。 「……君と、話したいなって思って、今日誘ったんだ。来てくれてありがとう」 「…………来なかったら」 「うん?」 「来なかったらどうするつもりだった訳? 定休日だったんだろ、ここ」 「うん、そうだよね。店長にも迷惑かけたかもしれない。……そこはオレがたくさん謝るしかなかったかな」 「……」 「……君のこと、何度も誘うことはなかったと思う。……オレが満足したいだけなんだから、嫌がる君を無理矢理には誘えないよね」  なんだよそれ、とブツブツ言っている優悟が、イライラと足を揺すっているのが見える。 「付き合わせてごめんね。……だけど、『一生許さない』って言った君に、出来ることってなんだろうって思ったら……君の知らない章悟の話、たくさんすることくらいかなって……。章悟が君を、どれだけ大事にしてたか……伝えられたら、少しは自分を大事に思えるかなって」 「……」  ふん、と顔を逸らした優悟がチラチラと内装に目をやっている。オシャレ空間というよりは無骨と言っていいかもしれない。剥き出しの骨格と、コンクリート打ちっぱなしの壁面。  女子がわんさか来てきゃっきゃ言う店というよりも、男子が好む秘密基地感の方が強い内装だ。男子ならきっと、しばらく時間を過ごせば馴染む空間だろう。 「……章悟が、コーヒー好きなのは、知ってた?」 「当たり前だろ」 「そっか。……じゃあ、“スペシャルティコーヒー”って、知ってる?」 「………………なんか、言ってたような……?」 「そっかそっか。……そのコーヒーを取り扱ってる店を、章悟がたくさん調べて、ここに辿り着いたんだって」  ふぅん、と興味なさげに呟いて、店長の手元をじっと見つめている。 「……章悟もそないして、よぉ見とったな」 「……ぇ?」 「こないして淹れよる手元、じーっと見てな。『それは何してるんですか?』ってめっちゃ聞いてきよったわ」 「……へぇ……」 「その内いろいろ聞かれるんが面倒くさなってきてな。入って自分で見てやってみぃて、カウンターの中に入らして、自分の分だけやけど淹れさしたりしとったわ」  君も淹れてみるか、と笑った店長が手招きしてカウンターの中へ優悟を誘っている。  え、と戸惑って助けを求めた先にオレがいたのはちょっと意外だったけど、行っておいでよ、と言ってやったら案外素直にカウンターに入っていく。  手取り足取り教えてもらいながら怖々とした手つきでエスプレッソマシンに立ち向かっている姿が、章悟に重なってぐっと喉が締まる。  恐る恐るの優悟と違って、章悟はかなり活き活きした表情で、どちらかと言えば店長に近い顔つきで立ち向かっていたなと思い出したら、鼻の奥がツンとした。  二人にばれないように、そっと店の外を見つめて咳払いする。 『練習したんだ。ちょっと飲んでみてよ』  何度目かの訪問の時、訳知り顔でカウンターの中に入っていったと思ったら、自分で淹れたんだと笑ってカプチーノを出してきた時は本当にびっくりした。 『いつかさー……優悟にコーヒー奢ってやるんだって言ったけどさ。……自分で淹れたコーヒーも飲ませてみたくて。店長に頼んで、練習させてもらってるんだ。めっちゃ大人ぽいでしょ?』 『……大人っぽいかなぁ? 章悟の大人の定義、凄く独特だよね? コーヒーに特化しすぎじゃない?』 『そうかな?』 『そうだよ。……じゃあ、いただきます』  笑いながら飲んだカプチーノは、店長の淹れたのよりちょっと物足りなくて、ミルクのスチームも少し甘かった。──なんて、当時はそこまで詳しく分かっていた訳ではないけれど、バイトで経験を積んだ今ならそうだったなと思い出せる。  だけどあの日のカプチーノは、なんていうか。弟を想って、オレを想って。色んな想いの詰まったカプチーノだったと思う。 『……実はさ。今度からさ、バイトさせてもらうことになってるんだ』 『そうなの?!』 『うん。……でさ。……司も、一緒にやる?』 『へ……?』  プシューッと蒸気が出る音がしてハッと顔を上げる。ミルクのスチームをしているらしい。おっかなびっくりの手のひらがミルクピッチャーをぎゅうっと握りしめている。  章悟も最初はあんな感じだったんだろうか、と微笑ましく見守る。オレと一緒にバイトを始めた頃には、章悟はあのレベルはもうとっくに卒業していた。 「……こんな感じ……ですか?」 「よっしゃよっしゃ、まぁ初めてにしたら上出来やろ」 「……初めてにしては……」 「……貸してみ?」  不満そうな声と顔をした優悟に、そっと笑った店長が手のひらを差し出す。素直にミルクピッチャーを手渡した優悟は、店長の手つきをじっと真剣な顔で見つめている。  兄の好きなものを、ちゃんと大事にしたいという気持ちが伝わってくる。 「……ほい、こんな感じやな」 「…………オレのよりむちむちしてる」 「はっはっはっ、なんじゃそら。おもろい表現やな」  こっから先は任しとけ、とエスプレッソの入ったカップにミルクを注いでいる店長を見つめながら、そっと口を開いた。 「あのねぇ。……今ね、バイト募集してるんだよね、ここ」 「……」 「……しばらくは、オレと一緒の勤務になっちゃうけどね。……嫌じゃなければ、どうかな?」 「……なんで」 「うん?」 「なんでオレのこと誘うの。オレ、あんたのこと許せないって言ったじゃん」 「そうだね。……だけど、心配なんだよね。なんか放っとけないんだよ。……章悟が多分……一番大事にしてたからかな。……それに、……今、楽しかったんじゃない? コーヒー淹れるの」 「……」 「オレもね、章悟に誘われたんだよね。一緒にバイトしないかって。……だから、君のことも誘ってみようかなって。……オレ、来年の4月には就職してる予定だから、その頃にはバイトも辞めなきゃいけないし」 「……」  俯いて黙り込んだ優悟の肩を、店長がパシンと叩く。 「まぁまぁ、とりあえずは飲んでみ。美味いかどうかで決めてもえぇんちゃうか?」 「……うわ、すげぇ……」 「リーフな」  どうやらラテアートをしてやったらしい。優悟が純粋な尊敬の眼差しで店長を見つめている。 「見た目はえぇねん。味や味。飲んでみ。砂糖も入れてえぇからな」  促されて、だけど少しも砂糖を入れずに一口飲んだ優悟が、きゅっと眉を寄せる。 「苦い……」 「だから砂糖入れぇちゅうたのに」 「……でも、……美味しい……?」 「首傾げとるやないか」  笑った店長が、オレにも同じ物を出してくれる。 「ありがとうございます」 「そっちはオレが淹れた方な」 「…………味、違うんですか?」 「さぁなぁ……。飲んでみるか? 淹れたるで」 「…………飲んでみたい……です」 「よっしゃ。そっちで待っとけ」  ぱふぱふと肩を叩いた店長が、またコーヒー豆を挽き始める。  優悟は素直に戻ってきて、嫌がることもなく隣に座る。にっこり笑ってシュガーポットを優悟の近くへ置いてやった。 「……お砂糖どうぞ」 「……子供だって言いたいわけ?」 「何言ってんの。章悟なんて、底がジャリジャリ言うくらい入れてたよ、砂糖」 「……嘘だよ」 「ホント。……なんか、イタリアでは、エスプレッソに砂糖たくさん入れて飲むのが主流なんだって」  試してみる? とシュガーポットの蓋を開けてやったら、こっくりと素直に頷く。スプーンですくって、とりあえず2杯。 「……なんかね、最後に砂糖がジャリジャリするのを楽しむんだってさ。……まぁ、カプチーノはそうやって飲むものじゃないから、そんなにたくさんは入れないけど」 「……砂糖、沈まないんだ……」 「ミルクフォームがしっかりしてるからだろうね」 「混ぜなきゃダメなのか……」 「ふふ……勿体ないよね。でも混ぜた方が美味しいと思うよ」 「分かってるよ」  いちいちつっけんどんな言い方を取り繕っているのが、少し可愛い。  名残惜しそうにリーフを見つめた後にスプーンでかき混ぜて、口に運ぶ。 「……あ。美味しい」 「良かった」 「……。……オレも……あんたの話、よく聞いた」 「え?」 「…………家で。……しょっちゅう、話してた、兄ちゃんが」 「……そう……。……そっか……」 「……分かってんだよ。あんたがホントは悪くないことも……。……でも……。……でも、兄ちゃん……。……勉強だって見てくれるって言ってたし……今度、遊びに行こうって言ってたし…………全部出来なくなって……、呼んでも返事もしてくれなくて。……なんかに八つ当たりしないと、やってらんなくて……」 「……うん。そうだよね」 「……あんた……全然怒んないんだもんな。……何言っても、何やっても」 「……怒れないよ」 「…………葬式に、来なかったから」 「……うん」 「……しかも、あんた今、指輪してっから」 「……うん」 「……死んだやつのことなんて、どうでもいいんだって……だったら兄ちゃんは無駄死にじゃんかって……あんたのこと、許せなくなった」 「……ごめんね。そうだよね。……オレが弱かったせいで、君のこときっと、余計に傷つけたんだよね」  ごめんね、と頭を下げたら、諦めたみたいに首を横に振った優悟が言葉を探すように黙り込む。上手く言葉に出来ないことを悔やむように、何度も口を開こうとしては首を横に振るのを繰り返している。  大丈夫だから、と声をかけようとしたタイミングで、カタンと優悟の前に静かにカップが置かれた。 「……まぁ、飲みぃな。これからいくらでも話したらえぇねん。……まだまだこの先、時間はいくらでもあるんやから」 「……」 「バイト採用やし」 「……するって言ってない」 「でも章悟の話も聞きたいんと違うん?」 「……聞きたい……」 「客として来るより、コーヒー、淹れたいんと違う?」 「……淹れたい」 「バイト決定やないか」 「……」  むしゅっとした顔のまま、置かれたカップを手にとって砂糖を入れずに口に運ぶ。 「……苦い」 「だから砂糖入れぇっちゅうねん」 「……兄ちゃん……こんなの好きなの? 苦いだけじゃん……」  パタパタと落ちていく雫が、テーブルを濡らしていく。  カウンターの中から慌てたようにティッシュが飛んできた。  しばらくグズグズと鼻をすすった後で、優悟が鞄をゴソゴソ探って何かをテーブルの上に置いた。 「っ、それ……!」 「……兄ちゃんの部屋で見つけた」 「……コーヒーノートだよね……懐かしい……」 「……これ、どれ?」  ぶっきらぼうに呟いて、優悟がノートをこちらに押しやってくる。触れる手が少し震えた。  めくったノートの中は、懐かしい文字で溢れている。 「……マメに書いてるよねぇ、ホントに……」  声が震えたけれど、誰も何も言わなかった。  飲んだ日、飲んだ店、豆の種類、焙煎度合い、味わいを示すグラフ。綺麗なラテアートで出てきた時は、写真も貼ってある。  目的のページを探してペラペラめくった後。 「……あぁ、……もう、ホント……」  それ以上、続けられなかった。  優悟の方にノートを押しやって、くるりと背を向ける。 『一番好きだから、大事な人にも絶対飲ませたい』  付箋に赤ペンで大きな文字で。書いた上に、何重にも円を重ねて印がついている。  それだけでも十分だったのに、その下の付箋に決壊した。 『司は今度、絶対店に誘う。優悟にはいつか、自分で淹れたのを出してやりたい。店長に相談』  こんなのズルい。こんなタイミングで。章悟がいつからオレのことを好きでいてくれたのか、なんてことを知らされるなんて。  こんな愛情。受け取っても返せないじゃないか。  ぱふん、と手のひらが頭に乗せられて、ビックリと肩が跳ねた。ゆっくりと向き直る。  店長の手が、オレと優悟の頭に乗っていた。 「嬉しいてしゃあないな、こんなん。一番好きやて」  店出した甲斐あったわ、と笑う声が少し湿っている。  その言葉には頷くしかなくて、ただこくこくと首を縦に振る。 「…………このメモ見て、あんたにまた会おうって思ったんだ」 「……」 「母さんにも言われた。あんたは悪くないって……葬式の時も、出かけられるような状態じゃなかったんだって」 「……」 「……ずっと、ごめんなさい」 「……オレの、方こそ……」  ごめんと謝ろうとして優悟の手に遮られた。 「もう謝んなくていいから。……あんたにこれ以上謝らせたら、オレが兄ちゃんに怒られる」  へへへ、と。初めて見た照れくさそうな笑顔は章悟によく似ていた。
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