episode.3 思い出のコーヒー

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 ***** 「……母さん」 「なぁに?」 「…………藤澤司って人……覚えてる?」 「……ぇ?」 「…………兄ちゃんの……その……」 「あぁ、藤澤くんね。勿論覚えてるわよ」  どうかしたの? とにこやかに聞かれて、面食らった。 「ぁ……その……。今日……学校帰りに、……見かけて」  校門前で声をかけられたとは言えずに言葉を濁したら、そうなの、と何も疑わない声が続ける。 「元気にしてた?」 「…………元気、……だった」 「そう、良かった」  にっこりと他意なく微笑んだ母の気持ちが理解できずに、「どうして」と呻く。 「ん?」 「なんで! 元気で良かったなんて……!」 「……優悟……」 「あいつは……! 兄ちゃんはあいつのせいで……!」 「……あいつなんて言わないの」 「っ……」 「それに、藤澤くんのせいなんかじゃないわ」 「っ、けど!」  叫ぼうとしたオレを遮るように静かに首を横に振った母親が、座ったら、と自分の前にある椅子を勧めてくる。  憤りを隠さないまま、どかりと乱暴に座った。 「……お母さんはね。藤澤くんは悪くないって思ってる。……勿論、最初は凄く悲しかったし、混乱もしたし……素直に受け止められなかったけど。……あの時、私達に謝っていた姿を見ていたら……私達と同じように傷ついてる姿を見てたら、藤澤くんのせいだなんて思えなかった」 「……」 「……それに……。例えばあの日、お兄ちゃんが一人で出掛けてたら……。藤澤くんじゃない誰かが、そこにいたとしたら……。きっとお兄ちゃんは、そこにいたのが誰だったとしても、同じように庇ったんじゃないかしらって、思うの」 「……」 「悪いのは、飲酒運転をしたドライバーよ」 「……。……けどっ」 「けど?」 「…………葬式のときに……来なかったじゃんか……」  唇を噛んで俯く。  兄ちゃんは、あいつを庇って死んだのに。  見送りにもこないなんて。  兄ちゃんは、あいつのせいで死んだのに。  恋人だったはずなのに。  こんなの。  兄ちゃんは、無駄死にじゃないか。  ぎゅうっと握り込んだ手のひらに、爪が食い込む。 「……──来られなかったのよ」 「…………来られなかった?」  思いも寄らなかった言葉に、思わず顔を上げる。痛そうな顔をした母さんが、ゆっくり頷いた。 「……お母様が来られてたでしょう? 少しお話したの……。藤澤くんは、食事もロクに摂らずに部屋に閉じこもってるって……そう仰ってた」 「……」 「ずっと、苦しんでたんでしょうね」 「……」  そんなの、と呻く。 (……今更、そんなの……ズルい)  なんだよそれ、と呟いて膝をぎゅっと掴む。  自分一人だけが辛いみたいな。そんなのズルイと思うのに、心がグラグラ揺れる。  そんなことくらいで、許したくないのに。  ずっとずっと、恨んでいたいのに。 「だから元気だったって聞いて、安心したの」 「……あんしん?」 「……お母さんねぇ……。藤澤くんのことも、ちょっと息子みたいに感じてたの」 「……何それ……」 「だって……お兄ちゃんたら、口を開けば藤澤くんの話ばっかりで……。もう……他人なんて思えないわよ」  ふふふ、と笑う母親の言葉に思い出したのは、楽しそうに笑って大袈裟な身振り手振りで笑わせにくる兄の声だ。 「……優悟」 「…………なに」 「……悪いのは、ドライバーの人だけよ。誰も悪くない」 「……」 「お兄ちゃんは、大事な人を守れる人だった。……誰かを憎んだり恨んだりする前に、その事を覚えていて」 「…………大事な人を……守れる人……」  母さんは、兄ちゃんを美化しすぎてる。兄ちゃんは、ただの友達を庇った訳じゃない。あの人は恋人だったんだから。他の人でも庇ったなんて、そんなのただの妄想で──だけど、物凄くすんなり受け止められるくらいには、兄ちゃんはお人好しだった。 「……さ。お母さん、晩ご飯の準備しないと。……久しぶりに優悟にお手伝い頼んじゃおうかしら」 「……え~。……めんどくさい」 「面倒くさくない。……ほら、荷物置いて着替えてらっしゃい。制服、汚れちゃうわよ」  あの後、久しぶりにフラリと入った兄の部屋の机の引き出しから、このノートを見つけた。勝手に中を見たから、いつか兄ちゃんに怒られるかもしれないけど、そんなのオレとの約束いっぱい破ったことで全部チャラだ。そんなんじゃ足りないくらいだし。  母さんがオレを呼ぶ声に適当に返事をしながら、ボーッとノートをめくっていてこの付箋を見つけた時の、あの苦しさといったらなかった。  大事な人に飲ませたいなんて。そこに、オレもちゃんと入ってるなんて。  何より、オレには自分で淹れてやりたいなんて。  特別扱いが嬉しくて泣いた。  自分のこと大事にしないのは、大事な人を蔑ろにするのと同じだ、なんて。知った風なこと言ったあの人は、きっと兄ちゃんにすごく大事にしてもらってたんだろう。  今更、こんなノートの一つや二つで何が変わるとも思えないけど。  だけど今、こんなにホッとして。こんなに嬉しくて。愛されてる実感は、人を優しくするのかもしれない、なんてバカみたいなこじつけの理由まで考えて。  今日、ここについてきた。  あの人は、ノートを見るなり泣きそうになっていた。きっとこのノートのことを知ってたんだろう。 「……そういや、ここの店名、なんて読むんですか?」 「ん? あぁ。……『piccola felicita』。イタリア語で、小さな幸せっちゅう意味や」 「ふぅん……」 「今、顔に似合わん格好付けやなと思たやろ」 「ンなこと……っ!?」 「冗談や」  ひひひ、と人の悪い顔で笑う店長の下でバイトだなんて、これから先が思いやられるけれど。 「章悟は実際に口に出しとったぞ、気にすんな」 「……兄ちゃんマジか」 「仲良かったですもんね、章悟と店長」 「なんや、ヤキモチか」 「違います!」  この人と一緒なら、なんとかなるかもしれない。  兄ちゃんが選んだ人は、多分にお人好しで、真面目で、いい人そうだ。あんな態度を取ったオレを、心配してくれた。  似たもの同士で、お似合いだったんだろう。 「いつから、来ていいですか」 「……それって……」 「明日からでもえぇぞ。ビシビシしごいたる。な、司」 「…………はい」 「よろしくお願いします」 「こちらこそ」
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