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「……母さん」
「なぁに?」
「…………藤澤司って人……覚えてる?」
「……ぇ?」
「…………兄ちゃんの……その……」
「あぁ、藤澤くんね。勿論覚えてるわよ」
どうかしたの? とにこやかに聞かれて、面食らった。
「ぁ……その……。今日……学校帰りに、……見かけて」
校門前で声をかけられたとは言えずに言葉を濁したら、そうなの、と何も疑わない声が続ける。
「元気にしてた?」
「…………元気、……だった」
「そう、良かった」
にっこりと他意なく微笑んだ母の気持ちが理解できずに、「どうして」と呻く。
「ん?」
「なんで! 元気で良かったなんて……!」
「……優悟……」
「あいつは……! 兄ちゃんはあいつのせいで……!」
「……あいつなんて言わないの」
「っ……」
「それに、藤澤くんのせいなんかじゃないわ」
「っ、けど!」
叫ぼうとしたオレを遮るように静かに首を横に振った母親が、座ったら、と自分の前にある椅子を勧めてくる。
憤りを隠さないまま、どかりと乱暴に座った。
「……お母さんはね。藤澤くんは悪くないって思ってる。……勿論、最初は凄く悲しかったし、混乱もしたし……素直に受け止められなかったけど。……あの時、私達に謝っていた姿を見ていたら……私達と同じように傷ついてる姿を見てたら、藤澤くんのせいだなんて思えなかった」
「……」
「……それに……。例えばあの日、お兄ちゃんが一人で出掛けてたら……。藤澤くんじゃない誰かが、そこにいたとしたら……。きっとお兄ちゃんは、そこにいたのが誰だったとしても、同じように庇ったんじゃないかしらって、思うの」
「……」
「悪いのは、飲酒運転をしたドライバーよ」
「……。……けどっ」
「けど?」
「…………葬式のときに……来なかったじゃんか……」
唇を噛んで俯く。
兄ちゃんは、あいつを庇って死んだのに。
見送りにもこないなんて。
兄ちゃんは、あいつのせいで死んだのに。
恋人だったはずなのに。
こんなの。
兄ちゃんは、無駄死にじゃないか。
ぎゅうっと握り込んだ手のひらに、爪が食い込む。
「……──来られなかったのよ」
「…………来られなかった?」
思いも寄らなかった言葉に、思わず顔を上げる。痛そうな顔をした母さんが、ゆっくり頷いた。
「……お母様が来られてたでしょう? 少しお話したの……。藤澤くんは、食事もロクに摂らずに部屋に閉じこもってるって……そう仰ってた」
「……」
「ずっと、苦しんでたんでしょうね」
「……」
そんなの、と呻く。
(……今更、そんなの……ズルい)
なんだよそれ、と呟いて膝をぎゅっと掴む。
自分一人だけが辛いみたいな。そんなのズルイと思うのに、心がグラグラ揺れる。
そんなことくらいで、許したくないのに。
ずっとずっと、恨んでいたいのに。
「だから元気だったって聞いて、安心したの」
「……あんしん?」
「……お母さんねぇ……。藤澤くんのことも、ちょっと息子みたいに感じてたの」
「……何それ……」
「だって……お兄ちゃんたら、口を開けば藤澤くんの話ばっかりで……。もう……他人なんて思えないわよ」
ふふふ、と笑う母親の言葉に思い出したのは、楽しそうに笑って大袈裟な身振り手振りで笑わせにくる兄の声だ。
「……優悟」
「…………なに」
「……悪いのは、ドライバーの人だけよ。誰も悪くない」
「……」
「お兄ちゃんは、大事な人を守れる人だった。……誰かを憎んだり恨んだりする前に、その事を覚えていて」
「…………大事な人を……守れる人……」
母さんは、兄ちゃんを美化しすぎてる。兄ちゃんは、ただの友達を庇った訳じゃない。あの人は恋人だったんだから。他の人でも庇ったなんて、そんなのただの妄想で──だけど、物凄くすんなり受け止められるくらいには、兄ちゃんはお人好しだった。
「……さ。お母さん、晩ご飯の準備しないと。……久しぶりに優悟にお手伝い頼んじゃおうかしら」
「……え~。……めんどくさい」
「面倒くさくない。……ほら、荷物置いて着替えてらっしゃい。制服、汚れちゃうわよ」
あの後、久しぶりにフラリと入った兄の部屋の机の引き出しから、このノートを見つけた。勝手に中を見たから、いつか兄ちゃんに怒られるかもしれないけど、そんなのオレとの約束いっぱい破ったことで全部チャラだ。そんなんじゃ足りないくらいだし。
母さんがオレを呼ぶ声に適当に返事をしながら、ボーッとノートをめくっていてこの付箋を見つけた時の、あの苦しさといったらなかった。
大事な人に飲ませたいなんて。そこに、オレもちゃんと入ってるなんて。
何より、オレには自分で淹れてやりたいなんて。
特別扱いが嬉しくて泣いた。
自分のこと大事にしないのは、大事な人を蔑ろにするのと同じだ、なんて。知った風なこと言ったあの人は、きっと兄ちゃんにすごく大事にしてもらってたんだろう。
今更、こんなノートの一つや二つで何が変わるとも思えないけど。
だけど今、こんなにホッとして。こんなに嬉しくて。愛されてる実感は、人を優しくするのかもしれない、なんてバカみたいなこじつけの理由まで考えて。
今日、ここについてきた。
あの人は、ノートを見るなり泣きそうになっていた。きっとこのノートのことを知ってたんだろう。
「……そういや、ここの店名、なんて読むんですか?」
「ん? あぁ。……『piccola felicita』。イタリア語で、小さな幸せっちゅう意味や」
「ふぅん……」
「今、顔に似合わん格好付けやなと思たやろ」
「ンなこと……っ!?」
「冗談や」
ひひひ、と人の悪い顔で笑う店長の下でバイトだなんて、これから先が思いやられるけれど。
「章悟は実際に口に出しとったぞ、気にすんな」
「……兄ちゃんマジか」
「仲良かったですもんね、章悟と店長」
「なんや、ヤキモチか」
「違います!」
この人と一緒なら、なんとかなるかもしれない。
兄ちゃんが選んだ人は、多分にお人好しで、真面目で、いい人そうだ。あんな態度を取ったオレを、心配してくれた。
似たもの同士で、お似合いだったんだろう。
「いつから、来ていいですか」
「……それって……」
「明日からでもえぇぞ。ビシビシしごいたる。な、司」
「…………はい」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
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