prologue あの日の痛み

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「ごめんなさい」  息子が事故に巻き込まれたと連絡を受けて駆け付けた病院の廊下に、聞き慣れた声が響いていた。少なくとも話せる程度には無事なのだと安心しながら、声を辿って息子の姿を探して──唖然とした。 「…………司?」  冷たそうな廊下に膝をついて、床に額を擦り付けている。その前に立っているのは、自分と同じ年頃の夫婦らしい男女と、息子よりも少し年齢が低いと見える男の子だ。 「なに、してるの……?」  声をかけながら走り寄ったら、オロオロしていた夫婦がほんの少しホッとした表情に変わったのを見つけて、土下座を強要された訳ではなく、自らの意思で息子がそうしていたのだと気付く。  ということはつまり、前に立っているのは 「……お母様ですか?」 「……はい。藤澤司の母です」 「柴山章悟の、母です」  やはり、と何とも言えずにただ目を伏せて頭を下げた。顔を上げないままでチラリとこちらを見た息子は、またすぐに「ごめんなさい」を繰り返している。 「あなたのせいじゃないと、何度も伝えているんですが……さっきからずっとこの状態で……」  顔をあげて、ね?  弱り果てた声に促されても首を横に振るだけの司に歩み寄って、 「司、とりあえず立って。あまりご迷惑かけちゃ、」  声をかけて腕を引く。──と、無言で振り払われて、バッグを取り落とした音が空しく響き渡った。 「司」 「オレが……! オレが、悪い」 「司……」 「章悟は何にも悪くないのに……ッ」  廊下に雫がぱたぱたと落ちる音が聞こえる。荒い息遣いの合間のその音が、やけに悲しくて苦しい。 「……いいから、とにかく立ちなさい」  それでも、相手を戸惑わせるような謝罪をいつまでも続けては、逆に申し訳ない。泣き腫らした目元を隠せないあちらの気持ちを気遣えない謝罪なら、いっそしない方がいい。  バッグを拾い上げて、さっきよりも強く腕を引く。今度は抵抗しなかったものの、力が抜けきっていて酷く重い。  しゃんとして、と囁いたものの司からの反応はない。やっぱりどこかに怪我を、と足下から頭へと視線を動かせば、無理やり立たせている司のズボンの膝部分が破れていた。見ればさっきまで跪いていた廊下に、血の痕が付いてしまっている。拭き取った方が良いのだろうかと一瞬焦ったものの、フラりと体が傾いだ司を抱え込むように支えるだけで精一杯だった。 「……すみません、後日改めてきちんとご挨拶に伺わせて下さい」  とにかく今の状況で出来ることなど、頭を下げてこの場を去るくらいしか──。震えて混乱する心を抱えて頭を下げれば 「っ、一生……!」  躊躇いに躊躇って、言わずにはいられずに弾けた、震えた声。ハッと視線を向けた先で、男の子が呻いている。 「……優悟、やめなさい」 「一生許さないからなっ!! 母さんや父さんや……にぃちゃん、が、……許したって、オレは……」 「優悟!!」 「絶対……!!」  睨み付ける強い視線は、項垂れた司を貫いている。  涙を拭いもせず、「許さない」とほとんど音にならない吐息で呟いて崩れ落ちた背中を母親が擦る。父親が申し訳ない顔でやるせなく頭を下げてくれたのが救いだった。そして、彼の声音で何かを察して止めようとしてくれた母親にも感謝しかない。 「失礼します」  ただ静かに呟いてその場を辞す。軽く右足を引き摺る司の足取りはのろのろと重い。  何度も後ろを振り返る司の視線は、泣き崩れている弟さんの向こう側にある病室に向けられているようだった。  その後しばらくは、司から目を離せない日が続いた。眠らない食べない話さない。  気の強い娘が日に日に苛立っていくのにも気付いていたのに、止められなかったのは母親失格だった。 「あんたね! いつまでお母さんとお父さんに心配かければ気が済むのよ!? お友達が亡くなって辛いのは分かるけどね──!」 「唯、やめなさい」 「っ、けど!」 「唯!」  カーテンを閉めきって電気も付けない真っ暗な部屋に乗り込んだ唯を、慌てて押し止めた。唯が付けた電気の眩しさに目をしぱしぱと瞬かせている司が、掠れきった低い声でぽつりと呟いた言葉は、今でも耳に残っている。 「いいよ、もう。どうせ」  その言葉に何と続けるつもりだったのだろうか。  虚ろな目と掠れてひび割れた声に、元気だった頃の面影はまるで感じられない。  病院から帰ってすぐに手当てをした右膝と両手の平の傷は、あの日以来触らせても見せてもくれなくなっていた。  飲酒運転による事故だったこともあって事故のニュースがテレビで取り上げられ続けていたけれど、幸いと言っていいのかどうなのか、司のことに触れるニュースは皆無で、あちらの状況を考えると申し訳ないほどに平穏無事の我が家では唯の小爆発だけが不穏の種だった。  夫は沈痛な表情で何度か司の部屋を訪れていたようだけれど、何一つ解決の糸口は見つからなかった。  ご葬儀には結局、自分と夫だけが参列した。重ねようとした謝罪を遮ったのは母親だった。 「謝って頂くようなことじゃありません。あの子はお友達を守れる子だった。私はそれを誇りたい」 「…………はい」 「司さんにも、よろしくお伝えください。仲良くしていただいていることは、ずっと……高校生の頃から本人から聞いていました」  すぃ、と動いた視線の先に、亡くなってしまったその人の優しく穏やかに微笑う遺影がある。  そっと涙を拭うその人に頭を下げ、ご遺族に向けてもう一度頭を下げたらそっと斎場を出た。誰でもいいと言いたげなハイエナじみたレポーター達がわらわらと寄ってくるのを避けるようにタクシーに乗り込む。私達が斎場を出るまでの間中、弟さんは悔しそうに唇を噛んだままだった。  家族が寝静まった家の中で、きしきしと階段を踏み締める音に目を覚ましたのはその日の夜のことだ。  司が起きてきたのかしらと体を起こしたら、ドスンバタンと大きな音がして、隣で寝ていた夫も目を覚ました。 「司!?」  2人揃って寝室を出て、目にしたのは階段の下で倒れていた司の姿だ。 「司!? やだ、どうしたの!?」  上の階から、慌てた様子で唯が降りてくる。  当の司は気を失っているのか呻くばかりだ。 「きゅ、……救急車! お父さん!!」 「あ、ぉ……そ、そうだな」  そこからはバタバタだった。  しどろもどろの夫が携帯電話を取りに行ったはずが何故かシステム手帳を持って来たり、リビングの端に置いていた子機をひっつかんできた唯がテーブルの角に太ももをぶつけて悶絶しているのに、構ってやれる暇も余裕もなかったり。  どうにかこうにか救急車を呼んで同乗して、病院へ辿り着いても目を覚まさなかった司が処置室へ運ばれるのを、ただ呆然と見つめていることしか出来ない孤独の中で、頼むから連れて行かないでと、酷い祈りを捧げていた。  病院に着いてからどのくらいの時間が経ったのかも分からなくなってきた頃に、処置室から医師が出てきて、今の状態を丁寧に説明をしてくれた。  命に別状はないこと。  階段から落ちたことで身体中に打撲傷が出来ているけれど骨に異常はないこと。  頭を打ったらしいけれど、MRIの結果からしてまず問題はないこと。  今一番問題があるとすれば、脱水と貧血だということ。  ありがとうございますと頭を下げて医師を見送って、あてがわれた病室に入った。静かに眠っている司の顔は、つい数日前の元気な顔からは想像もつかないほどに青白くやつれている。  手を伸ばしてそっと頬に触れたら、ピクリと瞼が震えてゆっくりと開いた。 「司……! 大丈夫!?」 「……なんで……」 「……司?」 「……」  呼びかけには答えずに目を閉じた司は、まだ生きてた、と呟いたようだった。静かな病室だったから聞こえたのか、自分の幻聴だったのかは未だに判別がついていない。 「……章悟くんのお母さんが」 「っ……?」  呼んだ名前にぴくりと肩が揺れて、真っ赤な目が久しぶりに私を見つめた。 「章悟くんは、友達を守れる子だったんだって……それを誇りたいって。……章悟くんが司のことをお家でよく話してたみたい。よく知ってるって、お母さんが仰ってたの。……私もよ。司が章悟くんの話、たくさんしてくれたものね。自分の息子が亡くなったみたいな気持ちがしてるの。……もしあなたが……、し、んでしまったなんて、知ったら……きっと……章悟くんのお母さんも悲しいし、苦しい」  泣くまいと決めていたのに。息子が一番辛い今、私が泣くまいと心に決めていたというのに、声が震えてしまった。  だけど、これだけは伝えなければと真っ赤な目を見つめ返す。 「私達も。あなたには生きていて欲しい」 「……」 「お願いだから……死のうなんて考えないで……っ」 「……。……ごめん、……なさい」  揺れた声で呟いた司が、ぱたぱたと溢した涙を拭いてやることしか出来ずにいた。  ──あの日の夜に還れるとしたら、何と声をかけてやるだろうか。 「もしかして、……恋人のお家にお家にお泊まりなの?」 『…………うん。そう、だね?』 「きゃあ、もうやっっっぱり!! ずっと前からそんな気がしてたの!!」  長い長い──長い時間をかけて、ようやくだ。  失った命の重さを、誰に吐露するでなく一人で──恐らくは恋人となったその人と乗り越えたであろう息子のその一言に、泣きたいほどの喜びと安堵に包まれた。  興奮してきゃっきゃと騒ぐうちに電話は切られ、息子の声が聞こえていない夫は、呆気にとられてぽかんと口を開けている。 「……お母さん、ちょっと落ち着いて」 「だって! もう、嬉しくって!」 「分かるけどね。……何も泣かなくても」   あーぁー、と呆れた顔を取り繕って笑う夫も、その実目が潤んでいることを隠せていないのだから、同じように安堵しているのだろう。  差し出されたティッシュを1枚引き抜いて自分の目元を拭った後に、もう1枚引き抜いたティッシュを夫に差し出した。 「はい、お父さんも」 「……ん」  バレてたか、と照れ臭そうに笑った夫が、同じように目元を拭った。 「……ねぇ、お父さん」 「なんだい?」 「……これから先何があっても、私達は司の味方でいてあげましょうね」 「……また、いったいどうしたの。大袈裟な……」 「いいから。ね?」 「分かった分かった。だから少し落ち着こう。お茶でも煎れるよ」
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