episode.1 波乱の幕開け

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 ***** 「…………あの」 「……はい?」  躊躇いがちに声をかけられてキョトンと振り向いて──たぶん心臓が一回止まったと思った。 「しょぅ……」 「やっぱり。兄ちゃんのトモダチですよね」 「にぃ、ちゃん……」 「……まさか覚えてないとか言わないよね? あんたのせいで死んだのに?」 「ッ」  にっこりと。笑う口元とは裏腹に鋭く光った瞳の、人を殺さんとする強い怒りと憎しみを孕んだ色に震えるしかない。 「柴山章悟。忘れたなんて言わせねぇから」 「わす、れる……?」  笑い損ねて唇が震えた。そんなはずない。いつだって、いつまでだって忘れられるはずのない人だ。 「忘れたんじゃないの?」 「そんなはずな――ッ」 「だったらなんで、そんなモンつけてる訳? 一人だけ幸せになるとか、許されるとでも思ってんのかよ」  左腕を掴む手のひらには、強すぎる力が込められている。逃がすまいとしているのか、それとも発散できない怒りの全てが込められているのかどっちだろう。 「言ったでしょ。例えば兄ちゃんが許したとしても、オレが絶対にあんたを許さないって」 「っ……」 「あんた、兄ちゃんの恋人だったんでしょ」 「ど、して……それ……」 「絶対、許さない」  ギラリと光った目。振り払えない手のひらが、オレのことを突き飛ばした。コンクリートの壁に背中を打ち付けて、一瞬息が止まった気がする。  背中からじわじわと伝わる冷たさで、あの日額付いた床の冷たさを思い出して勝手に肩が震えた。 『んだよ!! お前のせいかよ!! お前のっ、せいで!!』 『ごめんなさい』 『謝って済むかよ』  突き飛ばされた弾みで床に這いつくばった。 『ごめんなさい』 『お前が一番悲しいみたいな顔してんなよ!! 兄ちゃん返せ!! オレの兄ちゃん返せよ!!』  返せと叫ぶ彼に、頭を下げることしか出来なかった。ごめんなさいを繰り返すことしか、償う方法も分からなかった。償えるとも思わなかった。 『あんたなんかと、出会わなきゃ良かったんだ……!!』  本当にそうだと思った。泣きたかったのに、言葉の一つ一つがいちいち的を得ていて嗤ってしまった。 『あんたが死ねば良かったんだッ!!』  あぁ、本当にそうだよね。  呟いたつもりだったのに、声にならなかった。 『……ンとか言えよ!!』 『ごめんなさい』  言葉が分からなくなったみたいだった。バカみたいにごめんなさいを繰り返していたら、章悟のお母さんが到着して、少し遅れてお父さんが到着した。  オレなんかが生きていて土下座なんかしてたから、二人は泣くことも出来ずにオレなんかの相手をしなくちゃいけなかった。  ごめんなさいしか繰り返せないでどのくらい経ったのかも分からなくなった頃、自分の母親が側に来ていた。  あの日からしばらく、なんの記憶もない。気がついたら病院のベッドの上で、付き添っていた母親に泣かれたのだ。生きていて欲しいと。悲しみの大きさで空腹も喉の渇きも感じなくなって、このまま緩やかに死んでいけると思っていたのに、母親の泣き顔を見たらその道を選べなくなった。 「お葬式にも来なかったよね。どういう神経してんの? 死んだ人間なんてどうでもいいってこと?」 「ちがっ」 「自分が可愛いだけじゃん、あんたなんて」 「ちがう……」 「許さないから。あんたが幸せになるなんて、絶対。誰が許したってオレが許さないから」  激しい怒りと憎しみが、目からも言葉からも伝わってきて目眩がする。  それなのに、ほんの少しだけホッとしてしまう自分もいた。  ――彼だけがずっと、オレを罰し(責め)てくれるのだ。 「母さん達が、なんであんたを許せるのか、オレには理解出来ない」 「……――そうだね」 「……はぁ?」 「オレも、自分で自分を許せないよ。……今でもずっと」 「だっ、たらなんで……!!」 「……生きてるから。……生かされたから。君にとってどれだけ不本意だったとしても……オレは、章悟に生かされたから」 「っ……」  顔を真っ赤にした彼が、右腕を振り上げるのを見つめていた。 「はいはい、お兄さん達どうしたの。穏やかじゃないね?」 「っ!?」  制服姿の警察官に声をかけられたのは、殴られる寸前のこと。 「どうしたの。お二人、喧嘩か何か?」 「我々、今この辺をパトロールしてたんだけれども。近くにおられた方がね、お兄さん達の雰囲気がちょっとあれだからって、我々に教えて下さってね。何かあったのかな?」  拳を振るい損ねた彼が、どう繕ったものかと思案しながら腕をおろす。 「……別に……」 「――っ、すみません! その……恋人の弟さんなんです」 「あんた何言って……!?」  当然食い下がろうとした彼の服の裾を強く引いた。ここで大事にしたら大変だろうと言外に滲ませてみる。  ぐっと言葉を飲み込んだ彼をチラリと見た後、警察官に向かって、てへへという表情を取り繕って見せた。心臓が口から飛び出そうな程バクバク飛び跳ねているのに、彼を面倒事に巻き込むわけにはいかないと、彼を守らなければという気持ちだけがオレの口を滑らかにする。 「オレなんかに任せられないって言われちゃいまして……自分に勝ってからにしろ、みたいな感じに……」 「あらら。そうなの? だからって乱暴はダメだよ。腕っ節の強さだけが大事な訳じゃないからね。ご家族が増えるなんていいことじゃない」  納得したのかしていないのかは分からないけれど、一応見逃してくれそうな気配だ。  お騒がせしてすみませんと頭を下げて、行こう、と促す。彼の方も、すんませんした、とモソモソ呟いて素直にこちらに付き従う気配だ。  警察官の姿が見えなくなるまで離れたところで、「なんだよ今の」と不貞腐れた声で呟かれて彼の方へ振り向く。 「ごめん。……家族みたいな感じで言ったら見逃してもらえるかなって思って」 「……んだよそれ……」  思いもしなかったハプニングにさすがに毒気を抜かれたらしい声なのに、まだ不機嫌を装おうとする言葉遣いが微笑ましい。 『弟がいるんだけどさ……なんか、……可愛いって言うか、放っとけないって言うか……。……ちょっとだけ、司に似てるかも。……オレってブラコンなのかな』  照れ臭そうに笑っていた章悟の言葉を思い出したのと、なんとか警察官から逃れられた安心感も手伝ってつい顔が綻んでしまった。 「……笑ってんじゃねぇよ、くそ……」 「ごめんごめん。……章悟が……。……君のこと可愛いって言ってたの、思い出しちゃって……」 「はぁ?」 「放っとけないって、言ってたなって」 「…………」  ムスリと黙り込んだ彼を、今一度見つめてみる。  ジロジロ見るなと言いたげな彼の視線に、ごめんごめん、と目を逸らそうとして気付く。 「…………その制服……もしかして、章悟の……?」 「……だったら何……」 「ううん……そっか……。……制服の胸ポケのとこの引っ掛け傷、ついた時一緒にいてさ。……弟に怒られるって焦ってたなって……。大事に着ろって言われてたのにって」  懐かしい、と呟いて、震えそうになった息をことさらゆっくり吐き出した。  彼が黙って胸のポケットに手をやる。何かを懐かしむような愛おしむような優しい手付きだ。  その姿に、あの日泣き出しそうな困り顔で同じ仕草をしていた章悟の姿が重なって、息が苦しくなったような気がする。ぎゅっと目を閉じて息を整えながら、左手の指輪にそっと触れた。 「……章悟のこと……忘れたりしない。……自分のこと許せる日なんて、……たぶん、一生こない」 「……」 「でもねぇ……ごめんね。オレはもう、ちゃんと生きることしか出来ないんだ」  彼の目がまた少し憎悪に染まるのを見つめながら、それでも言葉を続ける。 「……一生許さないって、言ってたでしょう、あの日。……オレねぇ……ホント、…………救われてた」 「……はぁ!?」 「誰も……オレが悪いとは言ってくれなかった。君だけだった。……でもさ……不健全だよね、そんなの。君がずっとオレを許せない代わりに、オレは救われちゃうなんてさ……君だけ一生、雁字搦めだもんね」 「……何、だから許せって?」 「違うよ。……君の『許さない』に救われてる自分を、そろそろちゃんと律さなきゃと思って」  顔を上げる。背筋を伸ばす。  章悟が救ってくれた。  颯真が支えてくれた。  今ここにオレが生きていることは、二人がくれた奇跡だ。 「許さなくていい。……苦しくなったら、オレを責めたらいい。……だけどオレは、もう二度と君の言葉に救いを求めない」 「……意味分かんねぇ」 「君に許してもらえないことに、甘えない。オレを罰するのも許すのも、章悟にしか出来ない」 「……」 「君は、解放されていい。オレと章悟に縛られちゃダメだ」 「るせぇんだよっ! 何、訳わかんねぇ屁理屈ぶっこいてんだよ!! オレは! アンタが憎い!! アンタが兄ちゃんを奪った! アンタを憎まない日なんて! これから先、一生……っ!」 「オレのこと憎んで過ごす一生なんて、勿体ないでしょ」 「うるせぇっ!」  泣き出しそうな声で呻いた彼の顔を怯まずに見つめて、制服の胸のポケットに指先でそっと触れる。 「章悟はこの傷作った後、制服凄く大事に着てた。ご飯食べる時は染みになったりしないように、わざわざブレザー脱いだりしてさ。……君のこと、凄く大事に思ってたんだよ。……ちょっと過保護かなって、……ウザイとか思われたらどうしよって、悩んだりしてた。……君のこと、大好きだったんだよ」 「……だから、うるせぇって……!」  振り払われた手がジンと痺れる。  頬を落ちていく涙を見つめて、それでもキッパリ告げた。 「章悟が大事にしてた君に、自分を大事にして欲しい。自分を大事にすることは、君を大事に想ってる人を大事にすることと同じだから」 「説教すんな! あんたの言うことなんて、聞くわけねぇだろ!」  勢いよく体を翻して、怒ったまま去っていく後ろ姿をただ見送ることしか出来なかった。  ***  結局あの後、優悟には何も言えずに自宅に帰った。自分の情けなさに落ち込むことしか出来ずにいたのに、更に追い打ちをかけてきたのは、掴まれた時に付いたらしい左手首の青あざと、右手の甲に出来たひっかき傷だった。 「……どうしよう……」  明日は颯真の家に行く予定なのに、こんな傷が残っていたら何をどう説明すればいいのか、と頭を抱えてしまう。  手首に関しては湿布か何かを貼ってしまえば転んで捻ったとでも言い訳出来るとして、手の甲のひっかき傷はなんとも説明に困ってしまう。  颯真は時々、オレのことを女の子扱いする。(本人曰くは恋人扱いなんだそうだけれど)  ちょっと転んで擦り剥いたり、ちょっとぶつけて青あざが出来ていたり。そういう些細な──自分でも気付いていないような小さな傷を見つけては、プリプリ怒るのだ。  大切にされているんだなと有り難く嬉しく思う気持ちも確かにあるのだけれど、そんな颯真に今回の傷を見られてしまっては、きっと根掘り葉掘り聞かれるに違いないわけで。  とはいえ、そんな追求を避けたいがばかりに会わないというのもなんだかなぁ、と思うのもまた事実だ。  悶々と悩むうちに結局夜は明けてしまったけれど、まだ結論は出ていない。  一晩経ったら治ってないかな、なんていう淡い期待は当然のごとく裏切られている。  季節柄長袖とは言え、手首をさらす機会は多い。まして、手の甲は隠しようもない。 (……どうしよっかなぁ……)  バレることが問題なのではなくて、上手く説明できないことが問題なのだ。  章悟の弟に会ったことは説明できても、こんな風に痕が残ってしまうような状況になったと、果たして颯真に伝えていいのかどうかが分からない。いくら恋人とは言え、そこまで甘えてしまっていいのだろうか。  第一、「甘え」なんていう生温い言葉で表していいことなのかも分からない。今回のことは、さすがに自分一人で解決すべきじゃないかと思う。  何より、自分が颯真にしてもらったことを、優悟にもしてやれたらいいなと思っている。  大事な人の大切にしていた人が、いつまでも苦しんでいるのだとしたら、──優悟が苦しんでいた間に、一人勝手に幸せを感じてしまっていた分も込みで、なんとかしてやりたい。  きっと颯真なら、そんなことを後ろめたく思う必要はないと言ってくれるだろうことも分かっているのだけれど、頭で理解できたとしても、心で納得できるかどうかは話が別なのだ。  さてなんと言って説明しようかと頭を悩ませながら、お泊まりセットを準備した。
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