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実家のドアを開けたら、ビリビリした刺々しい空気を感じてゲンナリした。正直、逃げ帰りたいほどの重苦しさだった。
ただいま、と伺うように恐る恐る声を放ったら、同じような空気を感じて居心地悪そうな顔をした陽香がわざわざ玄関まで出迎えに来てくれた。よっぽどリビングにいるのが嫌と言うことだろう。
「おかえり……」
「……何、どしたの」
「……わかんないよ」
オレを盾にするみたいに背後に回った陽香に背中を押されてリビングに入る。
父親は項垂れていてこっちを見ないし、母親は大きな溜息で出迎えてくれる。
「……えぇと……ただいま?」
「おかえり」
「……なんなの、ホント……どしたの?」
恐る恐る声をかけたら、「とりあえず座んなさい」と促された。後ろに隠れていた陽香を隣に座らせて、自分も床に腰を下ろす。
で? と母親と目を合わせた瞬間に、
「お父さんと離婚することにしたから」
「…………は?」
「え!? 何それ!? え!? なんでなんで!? 何それどういうこと!?」
アッサリと放たれた言葉に呆然と問い返した自分とは対照的に、はわわと慌てきった様子の陽香がオロオロと両親を交互に見てオレの方を見る。こっちを見られたって、何にも言ってやれない。オレだって初耳なのだ。
「ちゃんと説明するから、落ち着きなさい」
「……はい」
ぴしゃりと言いつける母の──なんとも母らしい言葉に、陽香と二人で目を見合わせた後に神妙な顔で母の方を見つめる。
「……お父さんね……。大事な人が出来たの」
「……大事な人って……」
「赴任先でね……子供も生まれるって言うから……」
「こども!?」
淡々と告げる母とは対照的に、父親の顔はどんどん下がっていって、表情を伺うことすら難しい。
「こどもってどういうこと」と陽香が上げた素っ頓狂な声にすら、父親は顔を上げようとしなかった。
「あんた達も、もう大人だし。……これから生まれてくる子供には、父親がいた方がいいに決まってる。……この人は……父親としては悪くなかったものね。──だから離婚するの。もう決めたから」
きっぱりとそう告げた母の目はほんの少し淋しそうながらも、その表情はスッキリしていて晴れやかだ。
「でもっ……あたしっ……。……っ、……おじいちゃんには、……なってもらえないってこと……?」
「…………おじいちゃん……?」
陽香の涙声に、呻くような声を上げた父がようやく顔を上げる。真っ赤になった虚ろな目が、陽香を凝視した。
「おじいちゃんて……どういうことだ?」
「陽香も妊娠してるのよ」
「そんっ!? なんで!? そんな大事なこと……っ!?」
「離婚するのよ、あたし達。……裏切ったのは、あなた」
「でもっ……そうだとしても、こんな……っ」
「あなたのせいで! あたしはっ、娘の妊娠報告に、素直におめでとうも言えなかったのよ……っ!!」
「おかあさん……」
「……陽香は、それでも産むって決めた。……ちゃんと、相手の人にも挨拶に来てもらった……この人になら任せられるって思った。……あなたは新しい家族のことだけ考えてればいいじゃない」
「そんな……」
呆然と呟いた父を、恨みのこもった目で睨み付ける母親の姿に、胸が痛くなる。
「……更年期じゃなかったんだ……」
「ばかっ」
場にそぐわないポカンとした声が、思わずといった体で爆弾を落とした。隣に座った陽香に思わずツッコミを入れながら慌てて口を塞ぐ。
キッと純粋に怒った様子の母親に睨み付けられて、こんな時ながらもテヘヘと誤魔化し笑いを浮かべた陽香に、母親は毒気を抜かれたように疲れた笑みを浮かべる。母親の纏う空気が緩んだ。
「…………あなたは、家族を裏切った。それは、どんなに言葉を繕ったって取り返しのつかない事実だから。忘れないで」
「……はい」
「だけど、陽香や颯真が連絡を取ったり、会ったりすることに制限をつけるつもりはないわ。二人とももう大人なんだから、そのくらい自分で判断できるんだし。……むしろ、あなたがきちんと新しい家族と話をして、決めたらいい」
あなた達も好きにしなさい、とオレと陽香の目を見て告げた母親が、言いたいことは言ったと言いたげに近くにおいてあった麦茶のグラスを一息に煽った。
俯いていた父がゆっくりと顔を上げる。オレと陽香の顔を順番に見つめた赤い目から、涙が一滴。
親が泣くところなんて見たくなかった、と視線が勝手に横に流れる。
「……すまなかった」
床に額がつきそうなほど深々と頭を下げた父が、二の句を継げずに黙り込む。
「…………あたし。……結婚するの。……相手は、柏原さんっていって、今は大学院生」
「…………そうか……」
「……、……笑って、言いたかったな」
「そうだな。……本当に、悪かった」
床に手をついたまま子供のように泣いている父を前にして、しゅんと俯いた陽香の頭に手を乗せてぱふぱふと慰めてやる。
ぷすん、と鼻をすすった陽香にティッシュを渡してやったら、泣き止むのを待たずに腰をあげた。
「……お兄ちゃん?」
「……オレ、帰るわ」
「そうま……」
「あぁ……。予定があったのよね。ごめんなさいね」
「別にいいよ」
「颯真」
「──じゃあ」
縋るような父の声を無視して、足早に玄関へ向かった。
*****
ピーンポーンとごく常識的に鳴らされたインターホンに、配達か何かだろうとさして疑いもせずに受話器を上げた。
「はい」
『……あれ? もしかして司さん?』
「……陽香ちゃん? ちょっと待ってね、今開けるから」
訪問者が意外な相手だった(しかもいつもの嵐のような訪問でもなかった)ことに驚きつつ、走って行ってドアを開ける。
ぽつん、と所在なげに立っている姿に、一瞬言葉をかけ損ねた。
「……、」
「……あの、司さん……?」
「ぁ、いや……、どうしたの? 颯真、今日は実家に帰るって言ってたけど……」
「あ、うん……。その……もしかして、お兄ちゃん、まだ帰ってないの?」
「うん。帰ってきてないね」
「……そっか……てっきりもう帰ってると思ってたんだけど……」
手に何やらぶら下げているらしい陽香が、どうしたものかと思い悩むらしい顔に
「ちょっと連絡してみよっか」
そう声をかけてスマホを引っ張り出そうとして、リビングに置きっぱなしなことに気付く。
「あっ、いいのいいの! その……ちょっと、色々あって……」
俯きがちな視線が痛々しくして、「とりあえず入って」と促す。「お邪魔します」と呟いた陽香を、とりあえずリビングに通した。
「何か飲む? っていっても、お茶か水になっちゃうけど……」
「……あの……お兄ちゃんいるからと思って……これ……」
「何? ……ケーキ?」
手渡されたビニール袋には、陽気に笑ったおじさんの顔がプリントされた箱が入っていて、チーズケーキの文字が読める。
「お兄ちゃん甘党だし……。お父さんが買ってきてくれたんだけど……お母さんと一緒に食べるのは、……さすがに……なんか、ちょっと……」
「うん? ……とりあえず、麦茶でいいかな? 持ってくるから、話聞かせて」
言い淀む陽香の頭をパフパフと慰めるように撫でて、キッチンへパタパタ走る。何やら落ち込んでいるらしい陽香の様子を見ると、やはり昨日の颯真のぼやきが現実になってしまったのかもしれないなと思いつつ、それにしても颯真が帰ってこないのはどういうことかと首を傾げるしかない。
二人分の麦茶をグラスに注いで戻り、ちょこんと所在なげに座っている陽香の目の前においてやる。
「ありがと……」
「……何があったのか、聞いても大丈夫? 聞かない方がいい?」
「ううん。……あの…………。あのね? …………お父さんが……、浮気? してたんだって……」
「えぇ?!」
思いも寄らない言葉にあんぐり口が開いてしまう。
「でね。……その……相手の人に…………赤ちゃんが……出来ちゃったんだって……」
「……それは……」
しかも追い打ちをかけられて、絶句してしまった。
麦茶を飲むでもなく、縋るように両手でぎゅっとグラスを握りしめている陽香が、すん、と鼻をすする。
「……離婚、するんだって……。お父さんと、お母さん……」
「……そう……」
「……お兄ちゃんも、ショックだったんだろうね……。どっちかっていうと、お父さんっ子っていうか……男同士仲良かったっていうか……。……離婚の話してる時のお母さんは、凄くお母さんらしくてちょっと安心したけど……。……でも、やっぱりちょっと……淋しい? っていか……悲しいっていうか……ショック、かな……」
「……そりゃそうだよね……」
しゅんと俯いていしまっている頭に、そっと手のひらを乗せる。
仲が良すぎて困るくらいと聞いていた二人が、まさか離婚だなんて。颯真や陽香が受けた衝撃の大きさは、計り知れないものがある。
「……でもね。……食べ物に罪はないかなって……。だから、食べてあげなきゃって思って。……でも、お母さんに一緒に食べようとは、さすがに言えなくって。……ワンホールだし、さすがに一人で食べられなさそうだし……だったらお兄ちゃんと一緒に食べようかなって……。……こんなことになるなら、買ってきてなんて言わなきゃ良かった。……お父さんも、こうなるって分かってただろうに、なんで買ってきたんだろう……」
「…………。オレには想像しか出来ないけど。……買ってきてって頼まれたからには、ちゃんと買ってあげたかったんじゃないかな」
「……うん……」
「……颯真はどこ行っちゃったんだろうね。ちょっと連絡してみよっか」
声もなく頷いて、俯いたまま顔を上げない陽香の肩が揺れている。小さく縮こまった肩が、痛々しくて仕方ない。
ティッシュを箱ごと引き寄せて、目の前においてやってからスマホを手に取る。颯真の連絡先を呼び出したら、発信ボタンを押した。
*****
『颯真、今どこ? 陽香ちゃんがケーキ持ってきてくれたよ』
何度かの着信を無視した後で、司から届いたメッセージを既読をつけずに読んだ。陽香が家にいるということは、両親の離婚のことも伝わったのだろうか。
正直なところ、今の気持ちをどう表せばいいのか、自分でもよく分からない。
悲しいのか、淋しいのか。
ショックだったのは勿論だけれど、母も父も揃って涙していたというのが、一番ダメージが大きいところかもしれない。
父に言いたいことは色々あるような気もするし、どういうことだよとぶつけたいような気もするけれど、結局は何をどう伝えていいのかわらかなくて、その場から逃げることを選んでしまった。泣いている妹を置いて。──情けないことこの上ない。
家を出た後、どこにも行き場がないような気がしてぐるぐると彷徨った後、結局はあの公園に落ち着いている。
根っこがぐらぐらになったような気分だった。
子供が呆れるほど仲の良かった両親が離婚する。──しかも、母を溺愛していたはずの父の不倫が原因だなんて。帰宅を強制された時に、一瞬でも頭を掠めなかったかといえば嘘になるけれど、それでもまさか天地がひっくり返っても起こらないだろうと思っていたことが起きてしまって、自分でもどうすればいいのか分からない。
正直、こんなに動揺するとは思っていなかった。大抵のことなら平然と受け止められるんじゃないか、なんて思っていたのに。
自分が思っていたより子供だったことを思い知らされたようで、ダメージに追い打ちをかけられている感も否めない。
けれどおそらく、仲のいい両親が──妻を愛していると子供の前で臆面もなく言える父が、自分の誇りであり目指すべき姿だったのだ。
それなのにまさか、父が不倫するなんて。目標にしていたはずの道しるべが、途中でポッキリ折れて壊れてしまったような気がするのかもしれない。
迷子になって途方に暮れる子供のように心許ない気持ちのまま、重たい腰を上げる。
いつまでも、陽香の面倒を司に見させるわけにもいかない。
司からのメッセージに既読をつけたら、「今から帰るよ」と返事を送る。
と、入れ違いで返事が来た。
『早く帰ってこないとケーキなくなっちゃうかも』
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