雷竜の指輪

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 大雨の夜が明けた、よく晴れた朝のことだった。緑色の初夏の風が、〈王の森〉に吹き渡っていたのを覚えている。  アスティアは、ハクモクレンの大木に落ちた雷だった。  雷竜。空をすみかとし、雲の上を駆ける雷の化身。雷竜の体は稲妻そのものであり、雷竜の咆哮はすなわち雷鳴である。雷竜は瞳と角は金色で、身体は蛇に似ているが前肢と後肢があり、背に漆黒のたてがみがある。化身を得意とし、人の姿をとって人と交わることを好む雷竜も多い。小さな蛇の姿をとっていることもある。  花が終わり、緑色の葉をいっぱいに広げていたハクモクレンの大木は、雷竜のアスティアが落ちたためだろう、太い幹の上半分が真っ二つに割れていた。その根元に、アスティアは小さな白い蛇の姿で、胴体から血を流してうずくまっていたのだ。 「王子、なりませぬ。噛まれでもしたら大変です。」  朝の散歩に共に来ていた乳母が止めるのも聞かずに、私はアスティアのもとに駆け寄った。白い胴体と金色に光る目をした美しい蛇。まさかそれがアスティアという名の雷竜であろうとは、そのときまだほんの七つの幼い王子だった私は知る由もなかった。ただ、目の前の美しい小さな生き物を苦しみから救いたい、その一心だった。  果物を摘んで帰ろうと思っていた籠にアスティアを入れて宮廷に帰り、傷口を洗い流して清潔な布を巻いてやると、アスティアは小さな白蛇の姿のまま、絹織物を敷いた果物籠の中ですやすやと眠った。そして三日目の朝、果物籠をそっと開けると、アスティアは私の目の前で見る間に人の姿になった。 「わたくしは雷竜のアスティア。あの大雨の夜、雨雲の中を夢中で駆けていましたところ、ハクモクレンの大木に絡まり落ちて大怪我を負ってしまいました。あのまま血を流し続けていれば、私は死んでいたでしょう。あなた様は、わたくしの命の恩人です。」    アスティアは、蔦草で編んだ緑色の草の輪を、幼い私に差し出した。忠誠の証です、と恭しく首を垂れながら。そのときアスティアと私は宮廷の中庭にいて、アスティアは白い肌と漆黒の髪に金色の瞳をした端整な少年の姿をしていた。私はその輪を受け取った。そのときからアスティアは私の忠実なしもべであり友となった。  私は世界の西の隅の、小さな国の王子であった。父王のたった一人の息子であった。武勇に優れた父王は東の国々への遠征の日々で、たまにしか会えなかったが、私は多くの学者や武人から教育を受けた。彼らから講義を受けるとき、アスティアは小さな白い蛇の姿となって私の肩や金の巻き毛の髪の中にいた。剣や弓の稽古の際にはあの不思議な金の瞳をした、私と同じ年ごろの人間の姿になって、傍らで鍛錬を積み、共に汗を流してくれた。傍らにいつもアスティアがいたおかげで、私は厳しい武術の訓練を耐え抜くことができたように思う。私はいつも父王よりも偉大な王になるべく、期待されていた。それはまだ幼い私にいつも重くのしかかっていた。父王は私の誇りであると同時に、重圧でもあった。   落雷して傷ついていたところをたまたま助けた恩義から、私のしもべとなった雷竜の噂は、またたく間に国じゅうに広まった。雷竜を従えた王子。きっと父王をもしのぐ偉大な王になるだろうと言う者もいた。だが、私にとってアスティアはしもべである前にひとりの友であった。友、というものをそれまで持たなかった私にとって、はじめての友であった。忠誠の証として差し出してくれた蔦草の輪を、私はいつも大切に懐に入れていた。不思議なことに、その茎と葉は枯れることがなく、いつまでも若々しい緑のままだった。    東方の小国をつぎつぎと制圧した父王だったが、私が十六になる年の冬、遠征先で熱病にかかり、驚くほどあっけなく崩御した。父が私に言い遺したことは、東の地をかならずや手中におさめよと、ただそれだけであった。私は寂しくて人知れず泣いた。父は私を息子として愛してくれていたのだろうか。それとも、ただ自分の国と野望を継ぐ者としてしか考えてくれていなかったのだろうか。いずれにしても、戦場で武勲をあげて認めてもらうという、私の秘めた望みも叶わぬうちに、父は逝ってしまった。そのこともまた悲しかった。  父王の後を継ぎ即位した私が戦に出陣するようになると、アスティアは戦場を駆ける稲妻となって敵の軍隊を蹴散らした。私の肩に蛇の姿で載っているアスティアがたちまち力を開放し、巨大で神々しい雷竜へと姿を変えて咆哮を轟かせれば、味方の士気は一気に上がった。ひとたび雷竜となれば、雷の化身であるアスティアにはどんな砲撃も弓矢も効かなかった。目もくらむ一筋の閃光となって暴れまわる巨大な雷竜に対峙しては、どんな屈強な兵士たちも逃げ惑うしかなかった。はじめのうちは新王として民に力を示せずにいた私も、東の地を支配していた王の軍勢を各地で打ち破り、ついには王を追いつめて捕え、気がつけば父王をもしのぐ勇猛な王として民から崇められるようになっていた。傍らにはいつもアスティアがいて、人は私を「雷竜王」と呼んだ。  いつだっただろうか、まだ即位する前、夏の夕暮れのことだった記憶がある。剣の稽古のあとに、私はアスティアに聞いてみたのだ。雷竜には仲間や故郷はないのか、ずっと私のそばにいて、仲間や故郷は恋しくないのかと。そのときのアスティアの、一瞬驚いたような顔を今でもよく覚えている。そのアスティアの姿は十四、五歳の少年のものだったから、私もそのくらいの年頃のときのことだったのだろう。アスティアは人間の姿をとって私と対話するときは、年齢と背格好は私のそれに合わせて変えていたから。漆黒の髪に満月のような金の瞳をしたアスティアは、しばらく空の彼方を見つめて黙っていたが、やがて口を開いた。 「わたくしは、仲間たちから疎んじられておりました。」  寂しそうに一言言って、それからぽつり、ぽつりとアスティアは語り始めた。雷竜の寿命は千年もある。アスティアが生まれたのは二百年ほど前で、その日は日蝕だった。太陽が翳ったそのときに、アスティアは母竜の六番目の子として生まれた。母竜はアスティアを身ごもっているときから身体が弱り、アスティアを産んだと同時に死んだのだという。父竜は母竜の死をとても悲しみ、アスティアを遠ざけた。父が名づけたアスティアという名は、雷竜たちの言葉で「涙」という意味なのだという。五頭の兄弟たちも、アスティアには冷たかった。愛しい母竜が死んだのはアスティアのせいであり、日蝕の日に生まれた不吉な竜だと、父からも、兄たちからも、ずっと疎まれていた。だから、いつもめちゃくちゃに雨雲の中を駆け回っては、寂しさを紛らわしていたのだと、アスティアは言った。 「あなたは、あの日<王の森>の大樹に落ちたわたくしを救ってくださいました。わたくしは、あなたという素晴らしい主人を見つけ、いま、幸せなのです。もう空には戻りません。」    金色の瞳の端整な少年の姿で、アスティアは答えた。私の母親も、私を産んだときに命を落としていた。父王はその悲しみがあまりにも深く、私の誕生を喜ばなかったと、噂に聞いて知っていた。自分たちが似た者同士であることを、私はそのとき知った。私はそのことをアスティアに打ち明け、ずっと親しい友であろうと約束したのだった。  それなのに。忠誠の証にアスティアが差し出してくれた、蔦草を編んだ輪が枯れかけていることに、私は長いこと、気がつかなかったのだ。雷竜王の異名を得て、東の大国を征服したあとも、私の日々は戦と執務で過ぎていった。傍らのアスティアが人の姿をめったにとらなくなり、小さな白い蛇の姿でいることが多くなったことにも、私は気がついていなかった。本来、空の上を駆けるべき雷竜が、戦のときに大地を駆けまわることで、四肢から戦場の瘴気を吸い取ってしまい、その命を削っていたのだ。人の姿でいるよりも、いちばん身体に負担の少ない、小さな蛇の姿で居ることで力を温存しているのだということに、私はまったく気がついていなかった。もう長いこと、アスティアと睦まじく語っていなかった。征服した土地で反乱が起きる度、私はアスティアを連れて戦場に赴いた。いつしか、ただの兵器のようにアスティアを考えるようになっていた。若かりし頃は懐に大切にしまっていた蔦草の輪は、執務室の棚の中にしまい込んだままになっていた。父王をしのぐ雷竜王として、国の礎を築くこと。そのためにアスティアの雷竜の力を戦に使うこと。それしか頭になくなっていた。  そしてとうとう、ある冬のはじめ、アスティアは私に言った。アスティアが自分の過去を打ち明けてくれたあの約束の日から、はや二十年が過ぎていた。 「わたくしは、戦場で命を使いすぎてしまいました。冬の間、南のセティア山のふもとで蛇として眠りとうございます。春になっても、もしもわたくしが目覚めてこなければ、わたくしは死んだものと思ってください。」  その言葉に驚く私に、アスティアは琥珀色の指輪を差し出した。 「雷竜の力を宿した指輪です。これをはめて祈れば、わたくしがいなくとも、敵陣に稲妻を走らせることができます。いちど祈るたびに、持ち主の命はほんの少しずつ削れていきますが、指輪は壊れることは決してありません。これを代々の宝とすれば、あなたの亡き後も、雷の力はあなたの子孫に受け継がれます。……いつか、こうしてあなたに渡そうと、少しずつ雷の力を貯めて結晶にしたものです。」  わたくしがいなくとも。アスティアのその言葉に私ははっとした。私の役に立つために、アスティアが戦場で命を削っていたことも、いつか自分の命が尽きるときのために、指輪を作ってくれていたことも、私はまったく知らなかった。アスティアは、呆然と立ち尽くす私の手をとって、私の指に琥珀色の指輪をそっと嵌めた。久しぶりに人の姿をとったアスティアはもはや少年ではなく、精悍な顔立ちの働き盛りの男の顔をしていた。そう、初めてアスティアと出会ったあの日から、二十年の月日が流れてしまっていたのだから。指輪を嵌め終えると、アスティアはすぐに小さな白い蛇に姿を変えた。蛇は鱗がところどころ剥がれ落ち、金色の瞳は光が翳り、生命の灯が弱っているのだと私は直感した。どうして今まで気がつかなかったのかと、私は激しく悔いた。  アスティアは、春になっても目覚めなかった。私の手元にはすっかり枯れた蔦草の輪と、琥珀色の雷の指輪が残った。私はアスティアの帰りを待ち続けた。どうか今日こそは。明日こそは。そう思い続けるうちに、初夏が過ぎ、夏が過ぎた。祈るたびに握りしめる蔦草の輪は枯れ果てたままで、再び緑が芽吹く気配はなかった。アスティアは死んだのだと、心のどこかでは私は悟っていた。それでも、空が荒れて雨が降れば、アスティアが雨雲の中で遊んでいるのではないかと、空を見上げずにはいられなかった。夏が過ぎて秋が来ても、私は祈っていた。きっとアスティアはセティアの山から戻る途中、別の人間と出会って道草でも食っているに違いない、心優しいアスティアのこと、困っている人間を見つけたら放ってはおけないだろう、そのうち、帰ってくるはず、と、アスティアとの再会を望み続けた。  北の山脈から冬の風が吹いて初雪の舞ったある日、私のもとに、アスティアと姿かたちのよく似た五人の男が訪れた。漆黒の髪に、金の瞳。蔦草の絡み合う紋様を裾にあしらった白い織物をまとった様子は、在りし日のアスティアそのもので、私は懐かしさに胸を打たれた。待ちわびた友が帰ってきてくれた、私はほんの一瞬、そのように錯覚した。しかし、それが母竜の六番目の子であったアスティアの五人の兄たちであるということを、私はすぐに悟った。 「偉大なる人の王よ。あなたのしもべたる我らの弟は、セティアの山麓で眠りながら死にました。あなた様にそれをお伝えし、弟の形見を頂戴するために、我らはまいりました。」 「父竜の許しが得られず、参るのが遅くなりました。」 「弟があなた様に贈った二つの輪、そのうちのひとつを弟の形見として頂戴したいのです。」 「弟を生んだとき、我らの母たる竜は死にました。父竜はそのことを嘆き、弟に涙を意味するアスティアと名付けて弟を遠ざけ、我ら兄弟にも、弟と交わらぬように厳しく言いつけました。ゆえに、弟はずっと孤独でした。」 「せめて、命尽きたあとには我らの近くに置いてやりたいのです。どうか、形見として弟の作った輪をお譲りください。」  二つの輪。出会ってすぐに忠誠の証として贈られた蔦草の輪と、別れの間際に贈られた琥珀色の指輪。ひとつはかけがえのない絆と思い出の品であり、もうひとつは雷の力を秘め、我が国の繁栄のため代々受け継ぐべき宝であった。  私は迷う余地もなく、蔦草の輪を雷竜の兄弟に差し出した。雷の指輪の力なくしては、わが軍の戦での無敗は保てない。アスティアの残してくれた指輪は、代々の王に家宝として受け継いでいかなくてはならなかった。  長兄と思しき一人が、葉の枯れ落ちた蔦草の輪を、恭しく受け取った。アスティアは、決して仲間たちから愛されていなかったのではなかったのだ。ただ、父竜が兄弟たちに、アスティアと睦むことを許さなかったのだろう。私に忠誠を誓ってくれたアスティア。孤独だった私の友となってくれたアスティア。なぜ私は、この輪が枯れていることに気がつかなかったのだろう?後悔しても、もう遅いのだ。 「恩に着ます、偉大なる人の王よ。」  次の瞬間、五人の男たちは私の目の前から忽然と消え、遠くの空に五筋の稲妻がくっきりと光った。轟く雷鳴の音を残して、雷竜の兄弟は二度と私の目の前には現れなかった。  こうして私は、忠誠と友情の証である蔦草の輪を手放した。手元には雷の力を宿した指輪だけが残った。私は十年後に命が尽きるそのときまで自ら戦場に赴き続け、雷竜王としての役目を果たし、跡継ぎとなる息子に指輪を託して世を去った。  それから月日が経ち、アスティアの物語は国じゅうに広まり、人々はハクモクレンの花が落ちて葉が茂るころになると、雷竜アスティアの化身として蔦草の輪を編んでは家々の戸口に飾るようになった。輪を花や菓子で飾りつけ、アスティアを国の守り神として感謝の念を表す―今年もまた、<王の森>に初夏の緑の風が吹く季節が巡ってきた。これから先もこの国には、雷竜アスティアの物語が、連綿と語り継がれてゆくだろう。
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