石榴甘いか酸っぱいか

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 -1-  お江戸は今日も日本晴れである。  雲ひとつない青い空を、石榴は馴染みの飯屋の二階の四畳半で、布団に寝転がったまま、ぼんやりと見ていた。すでに日は高い。  石榴と書いて「せきりゅう」と読むこの男の姿は、いささか異形だ。  まず大きい。  相撲取りのように大きいというのではなく、背ばかりが高い。だからといって、ひょろりとした末成りなすびのようなひ弱さは無かった。  だらしなく羽織っただけの女物の緋襦袢からのぞく腕は、太く、たくましく。肩幅も広い。胸は厚く、その赤銅色にやけた肌には、いくつもの傷跡があって、この男のこれまでの生き方を表しているようだった。 中でも目をひくのは長い髪で、黒というには明るい色をしているそれを、月代を剃らず総髪のまま、朱房の紐で無造作にくくっているのだが、真直ぐでは無いその髪は、好き勝手にはねまわり、さながら獅子のたてがみのようになっていた。  その奔放な髪に縁どられた顔は、太い首に見合う四角い顎に大きな口。尖った鼻と、期待を裏切らない。ただ目は、つり気味ではあったが黒目がちの大きく綺麗な瞳をしていて、どこか愛嬌がある。それがどこもかしこも厳ついこの男の印象を、和らげていた。  寝ころんだまま、枕元の煙草盆を引き寄せる。煙管を手に取ったところで、階段を上ってくる足音がした。 「まぁだ寝てるのかい」  呆れた様な声に目を遣ると、細く開いた障子戸の隙間から、若い女が覗いていた。左の目尻に泣きぼくろがある。 この店の商いは飯屋だが、金を払えば、気に入った女中と二階に上がる事もできるのは暗黙の了解になっている。その一番の売れっ娘(こ)の、おれんという女だ。  からりと音をたて障子をあけて入って来ると、石榴が手にした煙管を取り上げて、慣れた仕草で煙草盆で火を点ける。紫煙が細く長く上がる煙管を、斜めに咥えて、うふふ。と笑った。 「ほら、もういいかげんに起きなよ。色男」 「ああ?」  「外でアンタのいい人が待ってるよ」 「なんだそりゃ?」  揶揄うような声音に急き立てられて、何の話だ?と窓から下を覗いてみる。  店の前に恰幅のいい商人然とした男が立っていた。一目で拵えの良いとわかる羽織を着た、大店の主という風体だ。それが石榴の姿を見止めると、嬉しそうに手を振ってきた。 「うわっ!」  石榴は慌てて顔をひっこめると、掻巻(かいまき)を頭からかぶった。 「何だって、ここがわかったんだ」 「そりゃあ、アンタ目立つからさぁ」  面白そうに言う、おれんの声に重なるように、階下でやりとりをする声がする。 「まだ、店ぇ開ける時間じゃねぇだろう。なんだって奴を入れンだよ!」  掻巻の中から怒鳴る石榴に、おれんは安煙草の煙を吐きかると、それはねぇ…と囁いた。 「いつも何やかや肌にいい薬茶なんかくれたりしてさ。ここの女の子たちにも優しくてねぇ。それになんたって金離れが粋でさあ。さすがは巷で評判の大店、薬種問屋文化堂の大旦那だからじゃないかねぇ」 「いつの間に、そんな事を」 「アンタの立ち寄りそうな所には、大方声かけてるみたいだよぅ。アンタが来たら、知らせてくれってさ。駄賃をたくさんくれるって、そりゃもう、皆、大喜びさ」 「なんだと…」 「いったい、どういう知り合いなんだい?羨ましいねぇ」 「はい。文化堂、善右ヱ門です。お邪魔しますよ」  のんびりとした口調で言いながら、話題の主は入って来た。汚れの無い足袋の白さが、眩しいくらいだ。そのまま何の躊躇も無く、擦り切れた畳の上に座った。 「探しましたよ。石榴さん」  やっと見つけましたよ。と言う声は嬉しそうだ。 「それじゃあ、アタシは湯屋に行くから」  どうそ、ごゆっくり。と笑顔で言い置いて、おれんは出ていった。おかげで真っ昼間の、緋布団敷いた四畳半に男がふたり、取り残される事となった。  気まずい沈黙が続くなか、善右ヱ門は石榴が潜り込んだ掻巻の横に座り、「良いお日柄ですなぁ」と呟いている。その姿は、さながら昼間の梟のようだ。  そのあまりの呑気さに、たまらず石榴は掻巻をはねのけた。 「アンタ!なんで、こんな所に来てんだよ!」 「こんな所とは?」  無邪気に聞き返す善右ヱ門に、石榴は唸り声をあげる。 「ここは、アンタみてぇな者(もん)が、来るところじゃねぇんだよ」 「何故です?」 「何故って…」  言いたい事はいっぱいあるのだが、どう言えばいいのかわからない。とにかくここは、飯屋という態をとってはいるが、実質は場末の女郎屋だ。こんな所に通っていると噂にでもなったら、商売にさわるのではないだろうか。  なにしろ善右ヱ門は、大旦那と呼ばれているが、実はそれほど年配というわけではない。石榴より幾らかは上だろうが、まだまだ枯れる歳には思えない。  そうでなくとも、老いらくの恋などと言って、隠居が外で子供をこさえて、揉め事になるのもままあるのだ。  そう、思ったままを言ったら、軽く笑われた。 「ほほ。そんな事で落ちるような評判なら、最初から無いも同然でしょう」  それに。と石榴を指さした。 「あなたを探してたんですよ。そのあなたがここに居る以上、ここに来るのは仕方ないでしょう?」 「う…」 「ところで、お腹空いてません?」 「は?」 「ここに居ては拙いと言うなら、場所を変えましょう。美味い軍鶏(しゃも)鍋(なべ)を出す店を見つけたんですけどね。ひとりで行ってもつまらないから。今から行きましょうよ」  そう言って、善右ヱ門はいそいそと立ち上がった。  なんだかもう。  おっとりとした語り口に乗せられて、あれよあれよという間に連れて出されていた。  派手な女物の緋襦袢の上に暗色(くらいろ)の着物を着流して、素足に雪駄をつっかけた石榴と、見るからに仕立ての良い着物を着て、白足袋に草履を履いた商人の二人連れは、非常に目立つ。その上、石榴は大きい。連れだって歩く善右ヱ門は、特に小柄というわけではないのに、頭ひとつ違うのだ。道行く者たちが、驚いたような顔で見送っていた。  離れて歩こうとする石榴に、にこにこと笑いながら、おっとりとした口調で話しかけてくる善右ヱ門には、気にした様子は微塵も無い。その物腰は柔らかなくせに押しが強いのは、さすがは遣り手の大旦那というところか。 ことさら強い視線を感じて振り向くと、いかにもお店者という風体の男が二人、こちらを心配そうに見ていた。なんだ、お供がいるのか。と石榴は薄く笑った。  この善右ヱ門の店、文化堂は、江戸一との噂も高い薬種問屋だ。  処方される生薬はとても良く効くと評判で、おまけに値段も良心的ときている。客あしらいの上手な男前の旦那以下、対応の良い店の者たちに、訪れる客は引きも切らない。いつぞやは店の前に、家紋付きの立派な駕篭が長時間置かれていたとかで、どこぞの藩のお抱えになるのでは、という噂がまことしやかに囁かれているほどだ。  その評判の生薬の調合をしているのが、大旦那である善右ヱ門らしい。旦那衆との寄合いには顔を出さないくせに、山に薬草採りに行くのが好きだという変わり者。出入りの業者に任せておけばよいものを、なんとも太平楽なものだと言う、口さがない者たちもいた。  要するに、石榴が今までかかわった事の無い種類の人間だった。   「美味い軍鶏鍋」を出すという店は、洒落た造りの二階家だった。川縁にあって船宿も兼ねているようだ。店に上がる時、離れて付いてくるお供の二人はいいのかと思ったが、まぁ黙っておいた。  案内された奥の座敷は、真新しい畳の匂いがした。 「上等なもんだな」  暗色の着流しの裾を割って、石榴はさっさと腰を下ろすと胡坐をかいて座る。善右ヱ門は自然と上座へ座り、料理と酒を頼んだ。 「どうです?ちょっといい店でしょう」 「アンタの所の寮も、同じ匂いがしてたな」 「匂い?」 「新しい畳の匂いだ」  ああ…と善右ヱ門は小さく笑みを浮かべた。 「そういえば。あの離れ、ちょうど畳を張り替えたばかりでしたかねぇ。庭に、怪我をしたあなたが倒れていて」  善右ヱ門は懐かしそうに、にっこりと笑う。 「あン時はすっかり世話になっちまったな。しかしまさか、あんな田舎の生い茂った雑木林が、大店の寮の庭だとは思わなかったぜ」 「あまり手入れをしないもので」  自然のままがいいんですよ。と呟いた。 「そのせいか、いろんな獣がやってきますけどね」 「俺みたいに傷を負ってか?」 「そういう時もありますねぇ。でも獣は、治療なんかさせてくれませんよ」  獣ですからねぇ…と残念そうに息をつくと、運ばれてきたお膳に乗った、小ぶりの徳利を手に取って差し出した。  石榴の盃に酒を注ぎながら、でもあなたは、と続ける。 「治療をさせてくれて。こうして、お酒にも付き合ってくれますけどね」 「治療…ね」 「ええ。治療。ちゃんと傷は塞がったでしょう?」  酸っぱいモノでも食べた様な顔をする石榴に、善右ヱ門は怪訝そうに問いかけた。 「どこか不具合でも?」  そんなこたぁねぇが…と、石榴は自分の左脇腹の辺りを手で撫でる。 「まさか布みてぇに、縫われるとは思わなかったがな」 「ちゃんとした蘭学の技術ですよ。あの道具だって、わざわざ長崎から取り寄せた物なんですから」 「そりゃあ御大層なことで」  確かに。  もう駄目だと、死を覚悟したほどの傷だった。  度重なる破落(ごろつ)戸(き)との小競合いで、恨みを買っている覚えは有った。  酔ったところを襲われて、多勢に無勢で深手を負って、無我夢中で逃げていた。  低い灌木の枝がみっしりと生い茂った藪の隙間に潜り込み、そこで気を失ったのだ。  とても寒かったのを覚えている。  夏だったというのに。 「見つけたとき、かなり弱ってましたから心配しましたけど。あなたが丈夫で良かった」  「まぁ、それだけが取り柄だからな」 「いや。大したものです」  羨ましい。と善右ヱ門は、しみじみとした口調で言った。  しばらくすると、焜炉に乗せた鍋にはった割り下が煮立ってきた。そこに仲居が薄く切った軍鶏の肉を、赤身から手際よく入れてゆく。表面だけに火が入った頃合いを見て、大皿に綺麗に盛られた野菜や豆腐を加えていった。  ふつふつと音がして、軍鶏の煮える良い匂いがする。善右ヱ門は溶き卵の小鉢を受け取とると、あとはこちらで勝手にするからと仲居を返した。 「さあ。煮え過ぎないうちに、頂きましょう」 「おう」  葱や牛蒡といっしょに煮込まれた軍鶏肉は、さっぱりとして、こりこりとした歯ごたえがある。 「美味いな」 「でしょう。なかなかのものです」  うふふ。と笑う善右ヱ門は屈託がない。おっとりとした大店の主だ。  しかし。と石榴は思う。美味い話には裏があるものだ。 「それで?」 「はい?」 「俺に、何の用があって、探してたんだ?」  そう言って、にやりと口の端をあげた。怪我を治してもらった恩もある。多少の荒事(あらごと)は引き受けるつもりにはなっていた。  ああ、そうだった。と善右ヱ門は箸を置く。 「実は私、本草学が好きでしてねぇ。珍しい薬草を探して、よく山野に分け入るのですが、すぐに疲れてしまいましてね」  その恰幅の良さではそうだろう。と思いつつ、石榴は黙って箸を動かしていた。 「たまぁに、足を滑らせたりして、動けなくなったりするのですけど」 「おいおい。あんた、一人で行くのかよ。誰か連れは?」 「店の者が付いて来てはくれますが、私の趣味に、そうそう付きあわせるのもねぇ」 「趣味って」  善右ヱ門の店は薬種問屋だ。薬草探しは本業のはずだ。  そう言うと、ええまぁ、そうなんですけどね。と善右ヱ門はため息をついた。 「それでね。石榴さんに、同行してもらえないかと、思って」 「薬草採りにか?」 「ええ。お願いしますよ。行ける所は、あらかた行き尽してましてね。それ以外の場所というと、いろいろと問題がありそうで」 「問題たぁ、何だ」 「まぁ、獣がいたり?」 「獣」 「山賊が出たり?」 「いったい何処に行く気だ」 「まぁそんなわけで、店の者が出してくれないんですよ。でも石榴さんみたいに、荒事に慣れた人が一緒なら、大丈夫だと思うんです」  だから、ね。と善右ヱ門は手を合わせて、石榴を見る。 「駄目ですか?」 「いや。そんな事ならお易い御用だが」  なるほど用心棒かと、なんだか拍子抜けした。もっと阿漕な事を、ふっかけられると思っていたのだ。 石榴はがっくりと肩を落とした。 「本当に?良かった。嬉しいです。ああ。もちろん、賃金はお払いますからね」 「お、おう。そうかい」  どうやら仕事としての話だったようだ。そこはやはり商人という事か。 「あ。でも」  ふいに善右ヱ門は、何かを思い出したように眉をひそめる。 「どうした?」 「あなた、住む処が決まってないでしょう。どこに知らせればいいんです?馴染みの口入れ屋も無いみたいだし。用があるたびに、今日みたいに探し回るのは、さすがに手間ですよ」  ああ…と石榴は肩をすくめた。 「そういうのは、億劫でな」 「女の人の所はいいんですか?」 「ああいう所は、金さえ出せば、余計な詮索せずに泊めてくれる」  口入れ屋に通すのも、長屋に部屋を借りるのも、いろいろと身の上を晒すことになる。  特に大家と店子は、親子も同然と言われるほど密接な関係性を持っているのだ。他の店子とも接触無しではいられないだろう。  石榴のような者には、それがいささか面倒だった。 「でも、それだと費用がかさむでしょうに?」 「まぁその辺はな。用心棒の真似事とか、板場を手伝ったりして稼いでるよ」 「おや。料理ができるんですか」 「見様見真似だがな」 「それはそれは」  善右ヱ門は楽しそうだ。 「いっそねぇ。あのまま私共の所にいてくれても良かったのに」 「やなこった」 「どうしてです?居心地悪かったですか」 「いいや」  居たせり尽くせり、居心地が良すぎて怖いくらいだったと身震いする。 「まぁ、あれだ。あんたにあんまり借りを作ると、ロクな事にならねぇ気がするんでな」 「おや」  善右ヱ門は意外そうな顔で、石榴を見た。 「私のどこが?」 「どこもかしこも、だな」 「いやだなぁ。そんな事ありませんよ」  心外そうに言いながらも、鍋をつつく顔は笑っている。  その笑顔が曲者なんだよ。と石榴はため息をついた。  さくさくと草を踏み、急な斜面を登ってゆく。密生というほどでは無いせよ、木は枝を張り、行く手を阻むように葉をしげらせていた。この山の中を、もう随分と歩いた気がする。  今日は、約束どおり、善右ヱ門の薬草採りのお供だった。  恰幅の良い商人然とした善右ヱ門は、思いのほか健脚で、どんどん奥へ奥へと行ってしまう。 「おい。大旦那」  足に脚絆を巻いて、嬉々として進む善右ヱ門を、石榴は呼び止めた。 「いったん休もうぜ。いくら俺でも、三人担いで帰るのは無理だからな」 「え?」  振り向くと、共に付いてきた店の者たち三人が、息も絶え絶えになっていた。 「山に入るのは久しぶりで。嬉しくて、つい」  木々の途切れた、見晴らしの良い場所まで辿り着き、やっと腰を落ち着けると、そんな事を言う。  艶の良い頬を紅潮させた善右ヱ門は、相変わらず屈託がない。 「健脚だな」 「お恥ずかしい」 「ほどほどにしとけよ」  石榴が腰にさげていた鉈を手にすると、少し離れたところで、持参した竹筒の水を飲んでいたお供の三人が身構えたのがわかった。町場のお店者にしては、頑強な身体つきをしている。  これはつまり、石榴を見張るのが目的なのだろう。その気持ちは解らなくもない。いくら大旦那様の口利きとはいえ、どこの馬の骨ともわからない大男を、すぐに信用しろというのは無理からぬ事だ。  手頃な枝を三本切り落とし、細かい枝をはらって、杖にしろ。と渡すと、驚いたような顔をした。恐る恐る受け取った三人は、顔を見合わせている。何度も見慣れた光景だった。  気分を変えようと、辺りを見回す。かなり上まで登ったらしく、見晴らしが良い。遠くに光っているのは、海だろうか。 「ああ。舟が行きますね」  善右ヱ門が横に並んで、額に手をかざす。 「あんたの寮から、そんなに離れてないと思ったんだがな」 「それなら、ここから見えますよ」  ほら、あそこに。と指をさす先には、山から続くように樹木に囲まれた、屋根の連なりが見えた。 「ところでねぇ、石榴さん」 「なんだ」 「あれは、寮じゃありません。本宅です」 「え?」 「商いも、こっちが本店です」 「はぁ?」  たしか、薬種問屋「文化堂」は、京橋にあったはずだ。薬種に縁のない石榴でも知っているくらい、評判の大店だ。間違えようもない。  あの界隈の他の店と比べると、こんじんまりとした造りではあるが、客足が途絶える事は無い。  そこには病を治すための薬種だけではなく、煎じ薬というよりはもっと手軽な、身体に良いお茶と銘された物もいくつか置いてあって、値段もそれほど高くは無い。それが肌に良いと評判になり、若い娘たちが三々五々買いにくる。おかげで店先はことさら華やかだった。  しかしあれは単なる出店(でみせ)でだと、善右ヱ門は言う。 「京橋の店がか?」  京橋といえば、日本橋と並ぶ商業地だ。とても活気がある。  居並ぶ店も大店ばかりで、そうそう簡単に出店(しゅってん)できるものではないだろう。 「商いは、あちらの者に任せてあります。私は、あまり人の多い所は、好きではないのでね」 だから隠居なのだ、と肩をすくめた。 「いいのか?それで」 「最初は、商いもこちらでしてたのですけれど。まぁ流通の関係もありましてね。京橋の方が荷物を受け取り易いからと、あちらに店を移したようなわけでして」  薬種には二種類あり、日本でとれるものと、中国が産地で日本に輸入されてくるものがあった。  中国からのもの、「唐薬種」はすべて大阪の「唐薬問屋」に集められ、そこから薬種中買仲間を通して全国へと送られてくるのだ。 「あー…たしかに、この辺はちょっとなぁ。街道からも外れてるし。商いには向いてねぇかもなぁ」 「ええ。でも山に来るのには、便利ですけどね」  以前は採取した薬種は、すべて検査を受けなければ販売できない時期もあったらしいが。今はその改(あらため)会所(かいしょ)も無いと、嬉しそうに話してくる。商いというより、好きな事の話をしているのだとわかった。  そんな善右ヱ門の話は、無頼に生きている石榴にとっては、まったく新しい事ばかりで、妙にくすぐったい。  なにしろ石榴は、自分に対する世間の目というものを嫌というほど知っていた。でかい図体で、強面で。髪の色も黒くなく、動きがガサツで物を壊す事も多い。更に口は重いし、考えるよりも先に手が出てしまう。そんなこんなで、嫌われ者人生を送ってきていた。  この善右ヱ門のように、ここまで親しく接してくる者など居なかったのだ。  故に、少々狼狽えている…というのが正直なところだった。 「さて。そろそろ行きましょうか」  そんな石榴の心情に気づく事も無く、善右ヱ門は、にこにこと声とかけてくる。 「前は、この先で猪に出会いましてね。行くのをあきらめたんですよ」  事も無げに、そんな事を言う。 「なんだと?」 「でも今日は、石榴さんが居ますから、安心ですね」 「大旦那様!」 「この辺で戻りましょう」 「危のうございますよ!」  お供の者たちが止めるのも聞かずに、善右ヱ門はさっさと行ってしまう。 「おい!」   慌てて追いかける石榴の後を、お供の三人も追いかけてきた。 「あんたンとこの大旦那は、いつもこんなかよ?」  呆れたように問う石榴に、ええまぁ。といちばん年嵩の番頭だという者が応えるのに、あとの二人も上がる息の中、同意していた。 「大変な主だな」 「ご自分のお好きな事に、正直なだけです」  石榴の軽口への返事には、敵意は無かった。 「でも、良い方なのです」 「そのようだな」  同意する石榴の声には、楽しそうな笑みが含まれていた。  その日の夕餉は、牡丹鍋になったのだった。 -2-  馴染みの飯屋の二階の窓にもたれて、外を眺める。  かなり空が高くなっていた。   昼間はともかく、朝夕などはかなり涼しく感じられる時があり、季節の移ろいを感じさせる。  石榴は柄にもなく、ため息をついた。   このところ、善右ヱ門からの連絡が途絶えていた。  あれほど精力的に薬草採りに出かけていたのに、最近、トンとお呼びが無いのだ。  もう、欲しい薬草が揃い、採りにゆく必要が無いのかもしれない。  それは有りうる事だ。何度も山に入り、かなりの量と種類を採取していた。  または。もっと良い用心棒を雇ったのか。  あれほどの大店だ。それに善右ヱ門は金払いがいい。なりたい者は大勢いるだろう。  それとも…と顔をしかめる。  あれは半月以上も前になるか。その時は、美味い蕎麦屋があるからと、引っ張りだされたのだ。  喰い物の事ばかりだな。と呆れると、食べる事が好きなので。美味しく頂けるという事は、有難い事ですよ。と笑っていた。  その帰り道。人通りの多い街道の中を、漆塗りの立派な駕篭が大勢の侍に囲まれてやってきた。庶民が使えるような駕篭と区別して、乗物と呼ばれている物だ。道行く者は皆、それを避けて脇で待っていた。  ふいにそれは止まり、供の侍のひとりが、こちらに走り寄る。善右ヱ門を駕篭へといざなうと、何事かと行きあわせた者たちが遠巻きに見守る中、乗物の引き戸が開いた。  中にいたのは、まだ年若い男だった。どこかの若君様らしい。膝をついた善右ヱ門と、親しげに言葉を交わすと、ちらりと、脇で待つ石榴に目を向けた。  あれは何者だ?と怪訝な顔で問うているのがわかる。善右ヱ門は何と答えたのか。聞こえなかったが、「獣のような男だ」と言う若君の声は聞こえた。  もしかすると。あれが、文化堂をお抱えにすると噂の、藩の若君ではないだろうか。  だとしたら。あのような下賤の者との付き合いはやめろ。と言われたのかもしれない。 「…けっ!」  そんな自分の考えに呆れて、石榴は自嘲を浮かべながら、傍らの煙草盆に手を伸ばした。 「まったくもう。辛気くさいねぇ」  紫煙の向こうに、おれんが立っていた。太い縞の着物を粋に着こなした腰に両手をあてて、仁王立ちで睨んでいる。 「怖(こえ)え顔だな。おれん」 「アンタほどじゃあ、ないよ」  ふん!と鼻で一蹴すると、石榴の手から煙管を奪いとって、さっさと吸い付ける。 「いい煙草じゃないか。これも、あの大旦那からの頂き物なんだろう?」 「まぁな」 「だったら、こんな所でとぐろ巻いてないで。さっさとご機嫌伺いに行っておいでな」 「ご機嫌伺いだぁ?」 「そうだよ。あんな良い旦那、逃がしたくはないだろう?」 「俺は、そんな…」  拗ねたように横を向く石榴に、おれんは焦れように声を荒げた。 「さっさと行けって言ってるんだよ!この唐(とう)変(へん)木(ぼく)。もしかすると、病で寝込んでるのかもしれないだろう?」 「病だと?」 「こんな所に。あんたに会うために、三日とあけずに通って来てたような、あの大旦那がだよ?もう半月も顔を見せやしない。余程のことがあったんじゃないのかい」 「いや、しかしなぁ。むこうにも都合ってモンあるだろう。そうでなくとも、あそこは薬種問屋だぞ。薬なら売るほど」 「だからこそ、だろう。この朴念仁(ぼくねんじん)が!」  薬だろうが草津の湯だろうが、治せない病だってあるんだよ!という、おれんの声に追い立てられて、石榴は重い腰を上げた。  さて。  外には出たが、どうしたものかと。人の流れに身を任せながら、あてど無く歩いていたが、気が付けは、足は京橋に向かっていた。  ここまで来たのだから、店の様子だけでもと、雑踏に紛れるように覗いてみる。  薬種問屋文化堂は、相変わらず繁盛しているようで、人の出入りが途切れることはない。別段いつもと変わらないように見えた。  店頭で、若い娘たちの相手をしているのが、こちらの店を任されているという旦那だろう。愛想良く笑いながら話を聞いている。噂どおりの、すらりとしたいい男だ。店の者に指示をして、客の求める品を揃えるのにも、そつがない。  ふいに。  うなじの毛が逆立つような、嫌な気配を感じた。  あたりを見回すと、人混みの向こうの男と目が合う。  いや、目が合ったような気がしたのだ。しかし相手は黒い塗笠を目深にかぶり、顔は見えない。それでもこちらを見ている。そう思った。  睨み合うこと、数瞬。相手はかすかに口の端を上げると、その場から立ち去った。  なんだ、あいつ?  石榴の背は、ぐっしょりと汗で濡れていた。  詰めていた息を吐くと、つんつんと袖を引かれているのに気が付いた。傍らを見ると、今度は、恐々と見あげている子供と目が合った。商家のお仕着せを着た、丁稚のようだ。 「何だ?」  あっち、と言うように小さな手で、指をさす。その方に顔を上げると、文化堂から少し離れた路地の入口で、手招いている男が見えた。  ありがとうよ。と丁稚の頭を撫で、石榴は何気無いふうを装って、その路地へと移動した。素早く曲がって板塀沿いに奥に進むと、途中の木戸が開いている。中をうかがうと、どこかの裏庭のようだ。蔵の前に積まれた荷物の上で、三毛猫が大きく伸びをしていた。 「早く入って。木戸を閉めて下さい」  見れば、男が一人、立っていた。先程の者とは違う。背が高く、髪はもうほとんどが白い。かなり年配のようだが、背筋のしゃんと伸びた、目付きの鋭い男だった。 「あなたが、石榴さんですか?」  じろじろと無遠慮に見ながら、口を開いた。 「そうだが。あんたは?」 「私は文化堂の大番頭で、与(よ)助(すけ)と申します。以後、お見知りおきを」  そう言って深々と腰を折る姿は、商人のそれだったが、石榴はかすかな違和感を覚えた。 「あんたは、元は侍か何かかい?」 「何故、そう思います?」 「いや。違うならいいんだ。悪かったな」  質問に質問で返され、深追いはせずに引く。キラリと、目が光ったような気がした。 「それで?何かあったのかい。俺をこんな所に呼び込んで」  気を取り直すように、冗談めかして言う石榴に、与助は頷いた。 「大旦那様が、何者かに襲われました」 「何だと!」  いつ?と訊くと、半月ほど前だという。所用で出かけた、帰り道の事だった。 「物盗りか?」 「それはわかりません。幸い怪我も無く、ご無事でしたが。用心のため、出歩かないようにと」 「それで、用心棒は?何人雇った」 「用心棒は一人もおりません」 「どうして?」 「大旦那様が、大事(おおごと)にする必要は無いと仰いまして」 「そういう問題じゃねぇだろうが。何考えてんだ、あの親父はよう」  唸るように言い捨てる石榴を、与助は値踏みするような目で見ている。 「じゃあ今は?どうしてるんだ」 「店の者が付いております」  薬草採りに行った際に付いてきた三人は、たしかに屈強な身体つきをしていた。しかし。 「大丈夫なのか?」 「今のところは」  そうか…と石榴は嘆息した。 「それで。あなたにも、お願いできないかと」 「そりゃあ、もちろん」  否やは無い。むしろ、すぐにでも知らせてくれればよかったのだ。 「大旦那は、今、どこに居るんだ?」 「本宅に」  与助は、声をひそめて答えた。  大旦那、善右ヱ門の住まう本宅は、京橋からはかなり遠く、郊外にあった。  背後の山から続くように木々が生い茂り、まるで緑の帳(とばり)の中に隠れ建つ庵のようにも見える。以前はここで商いもしていたという話だったが、よく客が来たものだと思う。それほど善右ヱ門の調合した薬は、良く効くという事なのだろう。  質素な作りに見える門は、思いのほか頑丈そうで、連なる塀も高い。先に来た時に比べると、いろいろと補強されているようだった。  ためしに裏手に回ってみると、以前、怪我をした石榴が潜り込んだような植込みの隙間は、見つける事はできなかった。  一応、用心はしているらしいな。と呟きながら、今度は締まったままの門を叩き、訪いを入れた。  訝しがられる事も無く、むしろ待ち受けていたような気すらするほどすんなりと、座敷へ案内される。そして腰を下ろすより早く、廊下をこちらへ足早に来る音が聞こえた。 「石榴さん」  閉められかけた襖をこじ開けるようにして、座敷に転げ込んで来た善右ヱ門を、石榴は受け止める。案内の女中が驚いていた。 「なんです?」 「いや」  不思議そうに見上げる善右ヱ門は、少し痩せたように見える。 「どうして、ここに?」 「大旦那のご機嫌伺いに行けと、おれんが五月蠅くてな」 「おれんさんが?」 「ああ。まぁそれだけじゃ無いんだが」  とにかく座ろう。と手を放した。  薫り高い茶を一口飲み、実はな。と、向かいに座る善右ヱ門の顔を見る。 「通りすがりに京橋の店を覗いたら、妙な男がいたんだ」 「どんな男です?」 「いや、笠を深く被ってたんで、顔は見えなかったんだが。酷く痩せてて、黒づくめの、なんとも嫌な気配のする男でな」 「嫌な気配、ですか」  善右ヱ門は怪訝そうな顔で、聞き返す。 「それは、どんな?」 「なんてぇかこう、うなじの毛が逆立つような?ひりひりするような」 「ほう」 「それでまぁ。あんたに何かあったんじゃないかと、思ってな」  やって来たわけだ。と石榴は肩をすくめた。 「迷惑だったか?」 「まさか。嬉しいですよ。来てくださったのは」  うふふ。と笑って、善右ヱ門は息をつく。 「店の者に、話を聞きました?」 「ああ。襲われたらしいな」  石榴はあっさりと応える。おっとりとしているが、なかなかどうして。善右ヱ門は聡(さと)い。 「なのに、用心棒も雇っていないとか」 「事を荒立てたくなかったのでね」  店の者たちが付いててくれますし。と微笑む善右ヱ門に、石榴はため息をついた。 「俺の出番は、無さそうだな」  そう言って腰をあげると、引き止められた。 「石榴さんも、居て下さいな」  「何故?」 「私が居て欲しいからです」  本当はねぇ。と、ぽつり、ぽつりと話し出す。 「あなたを巻き込みたくはなかったので。知らせなかったのですけども」 「巻き込みたくなかった?」  それは、つまり。 「身に覚えがあるって事か。襲われるような」  この、太平楽とされる大旦那に。 「ええまぁ。それなりに」  さらりと言い放つ善右ヱ門を、石榴は初めて会った相手のように見返した。  またここへ、戻って来るとはな。  そう思いながら、石榴は逗留場所としてあてがわれた部屋を見回す。以前、怪我をして転がり込んだ時、寝かされていた、例の離れだ。今度は、真新しい畳の匂いはしていなかった。 「そうそう、替えられるもんじゃねぇしな」  なにしろ畳は高価なものだ。板張りのままの家も多い。 「え?」  石榴の呟きに、案内役の若い男が振り向く。 「何か入用の物があったら、言って下さい。私は、ここの手代で、正吉(まさきち)と申します」 「おう。よろしくな」 「こちらこそ、よろしくお願いいたします。それから夕餉なのですが、大旦那様がご一緒したいとの事ですので、のちほど呼びに参ります。あの…」  流れるように話していた正吉が、急に口ごもる。 「ん?なんだ。何か気になる事でもあるのか?」  正吉は、細身だが骨のしっかりした身体つきをしている。動きにも隙が無い。それが何かを言いだしかねて、俯いてもじもじとしている。  しばらく待っていると、思い切ったように顔を上げた。 「石榴さん。おいで下さって、ありがとうございます!」 「お、おう」  その勢いに面食らう。 「大旦那様が、夕餉に食べたい物を仰られたのです」  嗚呼。と感激したように嘆息する正吉に、石榴は怪訝な顔をする。 「夕餉がどうかしたのか?」 「ここ最近は、あまりお召し上がりになりませんでした。心配して、いろいろと好物などをお勧めするのですが。あまり動かないから、腹も空かないと仰るばかりで」  痩せていたのはそのせいか、と得心した。 「家人一同、とても喜んでおります。大旦那様がお元気になられて」  ふうん。と石榴は息を漏らす。たしかに、ずっと家の中に閉じこもっていては、腹も空かないだろうし、気も滅入る。ならばさっさと用心棒でも雇って、外出すればよいだろうに。  そう言ったら、正吉はいやいやいや。と手を振った。 「それも考えたのです。しかし、大旦那様は知己で無い者と一緒に居る事を好まれません。用心棒ともなれば、四六時中、傍に居るわけですから。どこの誰ともわからないような者とは、無理ですよ」 「俺も、どこの馬の骨ともわからん者だがな」 「いいえ。石榴さんは、以前にここに居たのですから。大旦那様は、知己だと思っておられるかと」 「そうかな…」 「そうですよ」  でなければ、あれほど嬉しそうなお顔はなさいませんよ。そう結んで、正吉は母屋の方へと戻っていった。   用心棒とはいっても、今は取り立ててやる事は無かった。  すぐに暇を持て余した石榴は、警戒の名目で屋敷の中を歩きまわった。前の時は、怪我をしていた事もあって、離れ周辺しか見ていない。動けるようになるとすぐ、逃げ出したからだ。  ここの庭には、山野で採取した薬草を元に栽培している畑が多数あって、それらが放つ独特の匂いがしている。それが嫌だったのかも知れない。と今になって思った。  大勢いる家人たちは、その世話に忙しく働いている。お店者(たなもの)というよりは、学者のような風情だ。ただ、そのわりには屈強な者が多く、身のこなしも素早い。なるほどこれでは、わざわざ他所から用心棒など雇う気にはならないかと思われた。  ぶらぶらと歩きまわり、下働きの者たちとも、あたりさわりのない世間話などしてみる。そうして分ったのは、大旦那の善右ヱ門が、皆に好かれているという事だった。  京橋の店から旦那の清太郎も来て、わざわざ挨拶してくれた。とても心配しているのがよく分かった。それでも、ひとり歩きが好きな善右ヱ門を、屋敷に閉じ込めるという事はしないのだ。石榴のところに訪れる時も一人ではあったが、常に陰ながら誰かが付いていた。  甘やかし過ぎではないかとも思うが、それを許してしまう気持ちも分らないでもなかった。  ただ。そのわりに、ここには家族は居ないみたいだった。  二日、三日と、穏やかに日は過ぎていった。  昼下がり。石榴は、庭に面した日当たりの良い座敷で、善右ヱ門がやっている薬草の仕分けを手伝っていた。それは仕事というには楽しげで、本当に薬草の事が好きだとわかる。  そこに、京橋の店から使いが来たと、手代の正吉がお伺いをたてにきた。 「構いませんよ。ここに通しなさい」  鷹揚に応える善右ヱ門に、石榴は席をはずそうと腰をあげた。  「離れに居るから。用があったら呼んでくれ」  そう言い置いて、大柄な石榴が、鴨居にぶつからないように頭を下げて座敷を出ると、見覚えのある男が廊下に立っていた。 京橋の、裏庭で会った、大番頭の与助だ。  軽く会釈をして通り過ぎる。前と変わらず、値踏みするような鋭い目をしていた。  石榴が離れに戻り、しばらくすると与助がやってきた。 「お話があるのですが。お邪魔して宜しいですか」  伺いをたてているようで、有無を言わせない強さがある声だ。 「おう。構わねぇよ。何だい?」  与助はおもむろに正座すると、床柱にもたれて座っている石榴に、深々と頭を下げた。 「なんの真似だ」 「まずは心からの御礼を。ありがとうございます」 「だから、何が?」 「大旦那様の事です。お食事も召しあがるようになられたと、聞きました」 「ああ、らしいな。まぁ身体動かさねぇと、あんまり腹も減らないしな」 「そうですね」  顔をあげた与助は、笑みを浮かべて石榴を見た。 「ねぇ、石榴さん」 「ん?」 「先に京橋の店で会った時。あなたは私に、元は侍だったのか?と訊きましたね」 「ああ。そんな気がしてな。気を悪くしたんなら、謝るぜ」 「いえ。実のところ、私は以前。さる藩の禄を食んでおりました」 「やっぱり侍だったと?」  居住まいを直した石榴に、与助は、ええ。と頷く。 「故有って藩の名は申せませんが、先代の大殿には、なかなかお世継ぎに恵まれず、側室も持たれなかったので、ご養子をお迎えなさりましてな」   それが?と、石榴は首をかしげる。何処に転がる話なのか見当もつかない。 「とても賢き若君で、家臣一同、安堵したのですが。二年後、御正室様が、ご懐妊されまして」 「え。まさか」 「若君でした」 「するってぇと、どうなるんだ?血筋的には弟の方が本筋だが」 「すでに幕府の方にもお世継ぎとして願い出てあった、兄君が藩主に」 「良かったのかい?それで」 「良いも悪いも無いのです。決まっていた事なので。しかし藩主となられた殿ご自身が、それを好(よし)とされなかった…」 「あ?」  訝し気な顔の石榴に、与助は大きく息をつく。 「藩内が兄君派と弟君派の真っ二つに分かれて、もめましてね。殿は、ご病気を理由に早々に隠居届けを幕府に出し、藩主の座を弟君にお譲りになったのです」 「それじゃあ、今は?」 「別邸で、療養中。という事になってはいますが」 「が?ってこたぁ、まだ先があるのよ」 「ええ。その後、間を置かずして別邸から出奔。兄君派の主だった家臣も共に脱藩しました」 「まさか、そいつは…」  石榴は、母屋の方を見た。 「殿は本草学がお好きでしてね。薬草にも詳しく、家臣たちにもよく調合して下さいましたよ」 「なんで、そんな話を俺にする?」  低い声で訊く石榴に、与助は鋭い視線を返す。 「覚悟しておいて頂きたいのです」 「覚悟だと?」  ええ。と与助は頷く。 「昨今。どこの藩も財政が困窮しております。かの藩も別邸をなくすようで」 「誰も居ねぇんだろ?たしかに無駄だよな」 「病気快癒ならず、との偽りの届け出を幕府にするわけですが。できればそれを、真(まこと)の事にしておこうと考える輩もいるとか」 「真の事?」 「後顧の憂いを絶つために」 「おい!」 「今回の襲撃が、その筋なのか、どうなのか。いまだ確信はありません。思いがけず始めた商いが繁盛し、こちらの方でも恨みを買っておるやもしれません」  しかし。と与助は膝を詰める。 「藩の存亡を賭け、密命をおびた、手練れの者たちが来るやもしれませぬぞ。石榴殿」  それでも宜しいか?と、強い目をして囁いてくる。  いまや完全にお店者の皮を捨て、武士の様相で迫る与助から、石榴は目を逸らさなかった。 「殿様だろうが何だろうが。俺には関係ねぇよ。大旦那を護るだけだ」  相手が猪だろうと。手練れの刺客だろうと。  ただ、それだけだ。  そんな石榴の返事に、与助は満足したような笑みを浮かべた。 「ありがとうございます」 「いや…」  感謝されるのに慣れてなく、面映ゆい。照れ隠しに、腰に下げた煙草入れを取り上げた。 「何しろ、こんなモンまで貰っちまったからな」  なめした鹿の皮に、黒い漆で装飾を施した、印伝作りの煙草入れ。前金具と緒締めには獅子の装飾がほどこされ、帯に下げるための細かい鎖の束の先にある根付は、熟したザクロの実を模っている。  どう見ても、一から注文して作らせた物だ。中には上物の葉煙草が入っていた。 「少なくとも、これに見合う仕事はさせてもらうよ」 「お願いいたします」  与助は、再び深々と頭を下げた。 -3-  腕は鈍って無い、と思うんだが…、  石榴は空き地に立っていた。こまかい草がびっしりと地面をおおい、人の手が入ってないままの場所に見えるが、ここも善右ヱ門の本宅の敷地内だ。  実際、手付かずのままなのかもしれねぇな、と思いながら、石榴は手にしていた頭陀(ずだ)袋(ぶくろ)から、束ねた棒のようなものを取り出した。バラリとほどけてぶら下がるそれは、硬い木の棒三本を、それぞれ細い鎖で繋いであった。 これは三節棍(さんせつこん)と呼ばれる武器で、振り回せば刀より間合いが長いからと、軽い気持ちで入手したものだったが、なかなかどうして。扱いが難しい。それなりに使えるようにはなっているが、まだまだ達人の域には、ほど遠い。たとえば酔った勢いで振り回そうものなら、自分に当たって怪我をする。  与助の話を聞いてから、馴染みの飯屋に置きっぱなしになっていたのを、取りに行ってきたのだ。無いよりはマシだろう。  しかし、あれだよなぁ…と知らず呟く。  善右ヱ門が、実は逃げ出したお殿様で、店の者たちも全員では無いにせよ、元家臣の武士だったのだ。あの、商売上手で男前の旦那さえもそうだというから、驚きだった。  元殿様の好きな事を、生活(たつき)のために金に換えてみたら、思いがけず成功してしまいました。と、与助がため息まじりの声で言っていた。 「忸怩たる思い…ってやつなんだろうな」  薬種問屋として成功すればするほど、対外的な付き合いが必要になってくる。そのために「旦那」役を仕立てたのだ。 京橋で派手に商売をしているのは、何も物流のためだけではない。  第一の目的は、こちらに注目を集めないためだ。善右ヱ門の生薬は非常に評判がいい。当然、人が集まってくる。会わせろと言う者も出てくるだろう。それに対応し、防ぐのが、「薬種問屋文化堂の旦那」である清太郎の役目だ。  旦那の役に付いているだけで、善右ヱ門の息子というわけではないらしかった。 「京橋の、薬種問屋文化堂の大旦那は。商いも、問屋の寄合いも、全部旦那に任せて、薬草探しにばかり行っている変わり者。てのは有名な話だったからな」 俺も騙されたわ。と苦笑する。 「するってえと。血の繋がった身内は、一人もいねえって事になるのか」 女房や子供の話も出てこない。ましてや親の話など、まったくだ。俺と同じか。と石榴は呟いた。 気を取り直すように、真ん中の棒を両手で握り、振ってみる。両側の棒二本が揺れる感触を確認するように頷くと、今度は片手で持って、身体の横で縦に回し始めた。  ひゅんひゅんと風を切る音が、辺りに響くのもお構いなしに、右に左にと振り回してみる。  これを取りに行った時。ついでに、しばらく大旦那の所に居るからと告げると、おれんは、そうかい。と言っただけだった。 「ふうん…」  別れ際のおれんの顔を思い出しながら、しばらく深酒はできねぇな。と思う。前に刺された時は酔っていた。しかし今度は、そんなしくじりは許されないのだ。 「こんな所に居たんですか」  石榴さん。と呼ぶ声に振り向くと、手代の正吉が立っていた。見事に間合いの外だ。 「おう。なんだ」 「大旦那様がお呼びです」 「わかった」  石榴は、三節棍を、ひゅん!と音を立てて振り上げ、折りたたまれた三本を、片手でまとめて持つ。そんな様子を、正吉は興味深げに見ていた。 「石榴さんは、刀は持たないのですか?」  母屋へと歩きながら、そんな事を訊いてくる。 「性に合わなくてな。重いし」  そう応えると、正吉は、確かに。と頷いた。 「あんたは?ヤットウはできるのかい」 「いや、どうでしょう。もう長い事、刀は握っておりませんよ」  そう答える正吉の声に気負いは無かったが、その物腰には、相変わらず隙は無かった。  母屋に戻ると、善右ヱ門は茶室で待っていた。 石榴が大柄な体を折り曲げて、躙(にじ)り口から潜り込むようにして入ると、他には誰も居ない。しゅんしゅんとお湯の沸く音がしていた。 「美味しいお菓子を頂きましてね。ちょうど良いお茶もあるので、今日はこちらにしようかと」  ここへ来てからは、こんな事ばかりだ。用心棒というよりも、茶飲み友達に雇われたような気すらする。  石榴は、へいへい。と頷いて、胡坐をかいて座った。 「どうぞ」  善右ヱ門自ら茶をたてて、石榴の前へ茶碗を置く。それを手に取り、飲み干す様子を、笑みを浮かべて眺めていた。 「如何です?」 「ああ。結構なお手前だな」 「ありがとうございます」 「何だ?」  菓子の乗った皿を勧めながら、こちらを見ている善右ヱ門の顔が、もの問いたげなのに気付いた。 「何か気になる事でも、あるのか」 「いえ。お茶の作法がしっかりしてるな、と思いまして」  胡坐はともかく。と続ける。 「お稽古に通われていたのですか?」  まさか!と石榴は笑い飛ばした。 「俺は、尼寺で拾われたガキでな。そこで仕込まれたんだよ」  読み書き算盤と、ついでに料理までやらされたんだ。と顔をしかめる。 「これがもう、こわいバアさんばかりでな。すげえ叱られたもんだ」  そうなんですか。と善右ヱ門は頷いた。 「では、石榴という名前も?」 「ああ。なんでも石榴(ざくろ)の樹の下にいたとかでさ。でも、そのままザクロじゃあんまりだからって。セキリュウにな」 「良い名です。あなたに、とても似合ってますよ」 さぁどうかな。と石榴はうつむく。 「まぁ、こんな見てくれだ。おまえの親は鬼子母神だとか言われた事もあるからな。似合いといえば、そうかもな」 「鬼子母神?」 「人を喰ってた鬼だろう?釈迦に、人を喰いたくなったら、代わりにザクロを喰えと言われた」 「違いますよ」 善右ヱ門が、珍しく強い語気でさえぎった。 「鬼子母神の持つザクロの実は、魔障を祓う力のある、縁起の良い実なんです。人の肉の代わりなんかじゃありません」  それにねぇ、石榴さん。と声を和らげる。 「ザクロはね。いろんなものに良く効く薬になるんですよ。血を浄化する作用もあって、肌もきれいになりますし。皮を乾燥させて砕いた物は、虫下しや下痢止めになるんです」 「そうなのか…」 そうですよ。と頷く。 「とても人の役にたつ、実なのですよ」  善右ヱ門は、優しく微笑んだ。 「そんなこと、初めて言われたな」 「きっと、あなたを育ててくださった尼様たちも、そう思って名付けてくれたんですよ」  石榴は黙ったままだったが、肩から力が抜けたように見えた。  「あんたが、人に好かれるのがわかるよ。大旦那」 「なんです?急に」  善右ヱ門は、面食らったような顔をして石榴を見たが、すぐに手にした茶碗に目を落とした。 「私ほど、身勝手な人間はいませんよ」 「ああ、まぁたしかに。そんなところは、あるかな」  これまで連れ回された場所の数々を思いだして、石榴は苦笑まじりに言った。 「でしょう?」   応えた善右ヱ門の口元に浮かんでいたのは、自嘲だった。 「だがな。あんたの事を、悪く言う奴はいないぞ」  変わり者の太平楽だとは言われているが。 「それは。深い付き合いでは、無いからでしょう」 「じゃあ、ここの者(もん)は?」  この屋敷に居る者たちは、皆、この大旦那の事を大事に思っている。それは京橋の店の方でも同じだろう。  しかし善右ヱ門は、どうでしょう?と首を振った。 「私になぞ付いて来て、本当に良かったのか。そう思っているかもしれませんよ」 何しろ私は。と息を継ぐ。 「自分勝手で、我儘で。好きな事だけしていたくて」  逃げ出したんです。  そう言って、善右ヱ門は大きく息をついた。 「聞きましたでしょう。私の事」 「ああ。家臣が分れて争うのが嫌で、隠居したんだろ」 「そんな良い話では、ありません」 「藩主の座を、腹違いの弟に譲った事が、か?」 「そうです。それも確かにありましたけど。でも本当は…」 「本当は?」 「本草学がやりたかったのです。山野を駆け巡り、新しい薬草を見つけたかった。藩政よりも、ずっと、ずっと」  やりたかったのです。  こちらを睨むようにして言い切った善右ヱ門への、石榴の返事は、ふうん。という気の抜けたものだった。 「でも、それで藩の中は丸く収まったんだろ?なら、いいじゃねぇか」 「それは結果論です。投げ出した事には、変わりがない。そして、脱藩者まで出してしまったのですよ」  気に病んでいるのはそこか、と気付く。 「んー。その本草学とやらは、隠居のまま、やる事はできなかったのかい?」 「病気療養中の身ですからね。外になど」 「それも、そうか」 「私は、ひとりで出奔するつもりでいました。でも、協力してくれる者が出てきて」   隠居のための別邸で、独りで計画を練っていたのだろう。しかし、それを知る者が現れて、共に行く事を選んだに違いない。  そう確信できるほどには、ここの皆は、善右ヱ門を慕っているのだ。 「皆、楽しそうだがな」 「え?」 「正吉にしろ、大番頭の与助にしろ。まぁ他の者も。皆、楽しそうに、お店者をやってるように、俺には見えるが」  どうだ?と問いかける。 「仕方なくやっているようには、見えないぜ」 「それは…」 「嫌なら、出て行くとかするんじゃないのかい」  武家ではないのだ。離れるのは自由だ。 「皆はさ。やりたい事をやって、楽しそうにしてるあんたが好きなんじゃないのかねぇ。お殿様だとか関係無くてさ」  俺はそう思うな。 未だ表情の晴れない善右ヱ門に、そう石榴は頷くと、皿の上の菓子を取って食べた。 「ああ。美味いな。この菓子」 「そうですか。お口に合って良かった」  ほっとしたように、かすかに笑みが浮かぶ。 「うん。そうだ」 「はい?」 「あんたは笑っていた方がいい。皆が心配する」 「はい」 「文化堂の大旦那は、いつもにこにこしている、薬草好きの太平楽でいてくれよ。でないと、俺がここに居る理由が無い」 「理由?」 「俺が頼まれたのは、薬種問屋の大旦那の用心棒だ。お殿様の護衛じゃない。第一そんなモン、できやしねえよ」  そうだろう?と問うと、ようやく善右ヱ門は笑った。 -4- その日。 京橋の店に詰めているはずの清太郎がやってきた。 呼ばれた石榴が座敷に行くと、善右ヱ門と、何やら深刻な顔をして話し込んでいた。 「実はねぇ、石榴さん」  善右ヱ門が、困ったようにこちらを見る。 「店で何かあったのか?」 「いえね。うちのお得意先の若君から、顔を見せに来いとの使いが来ましてね。それが、あなたも連れてくるようにとの事で」 「何故、俺の事を知っているんだ?」 「ほら。以前、街道で会いましたでしょう。乗物の若君と」 「あ…」  あの時の、と思い出す。石榴の事を、獣みたいだと言った若者か。 「俺みたいなモンを、なんで呼ぶ」 「それは私が、自慢したからじゃないかと思うんです」 「自慢?」 「ええ。薬草採りのときも頼りになるし、獣よりも強いですよと、つい」  それで、おそらく。と善右ヱ門はため息をついた。 「また、大袈裟な事を」 「本当の事を言ったまでです」  善右ヱ門は、心外だと言わんばかりに語気を強めたものの、困りましたねぇ…と、再度ため息をつく。 「お寂しいのも、わかるんですけどねぇ」 「寂しい?若君なら、周りに人はたくさん居るだろう」  人数だけなら。と呟く善右ヱ門の声には、妙に実感があった。  あの若君は、さる大名の嫡男で跡取りなのだが、身体が弱く、病がちだった。それ故、何かと忙しない上屋敷より、人の出入りの少ない中屋敷で生活していた。 「病がち?とてもそんなふうには、見えなかったが」  乗物の中から、こちらを見ていた姿を思い出す。たしかに蒲柳のたちではありそうだったが。 「最近はお元気になられましてね。私共であつらえた薬湯が、体質に合ったようでして」  近々、上屋敷の方に戻るという。 「良かったじゃないか」 「そうなんですよ。母君や幼い弟君らとも一緒に暮らせます。でもそうなると、もう今までのように、自由に行き来はできなくなる。その前に、という事なんでしょう」 「武家は、面倒だな」 「ええ。まったく」  善右ヱ門の声には、やはり実感がこもっていた。 「それで?どうする」 「どうするも、こうするもありませんよ。お断りします」  見世物じゃありませんから。そう聞こえた。 「店のお得意様なんだろう」 「それはまぁ」 「だったら、断るのは拙いだろう」 「そうですよ。私が参ります。いつもお相手しているのも、私ですし」  そうしましょう。と提案する清太郎の表情は真剣だ。 「こういう時のために、私がいるのですから。お任せください」  清太郎は、善右ヱ門に面会を求める者たちを阻むのが役目だ。 「いえ。もう決めました」 「しかし」  言い合う二人の間に、石榴は、まぁまぁ。と割って入った。 「殿様なんてのはさ。自分お抱えの相撲取りや、刀や何やを見せびらかしたりしてるんだろう?それと同じだと思えばいいじゃないか」 「私は、そんなつもりじゃ」 「知ってるよ。あんたは殿様じゃねえ。商家の大旦那だ。商人なら、お得意様の機嫌を損ねるのは、良くないよな」 「いいのですか?あなたは、それで」 「ああ。あんたの行くところには、どこにだって付いてゆくぜ」  それが用心棒の仕事だ。 「仕事、だからですか?」  表情のくもる善右ヱ門に、まぁ今のところはな。と石榴は笑いかけた。 いろいろと理由をつけ、五日の猶予をもらった、今日。  並んで歩く二人の後を、清太郎と手代の正吉を含む四人の供がついてきていた。背にはそれぞれ長い袋を背負っている。中には乾燥させた薬草が入っているという事だった。  若君のお屋敷は、赤坂にあるという。  この辺りには武家屋敷が多く、長い塀ばかりが続いている。内には、参勤交代の藩主と共に国元から来た、家臣たちの住む長屋もあるのだ。 「こん中に、詰め込まれて過ごすのかよ」 「門限もあるんですよ」 「窮屈だな」  呆れたように石榴が言うと、本当に。と善右ヱ門も応えた。  本日は武家屋敷に行くという事で、善右ヱ門は羽織袴の正装だった。隣を歩く石榴は相変わらずの暗色の着流し姿だが、その着物は真新しい。  いつの間に仕立てたのか。今朝がた、上から下まで、ひと揃いを渡された。ご丁寧に足袋まである。たしかに、若君様の前に出るのに、着古した着物では失礼になるのか、と思ったが。そのわりに下に着る襦袢は縮緬で、鮮やかな萌黄色をしていた。 「この色は、あんたの趣味かい」 「綺麗でしょう。草の萌える色で、私のいちばん好きな色なんです。良く、お似合いですよ」 「そうかい」  なんだか妙な具合だ。うしろで正吉が、笑いをこらえているのがわかった。  約束の時間に合わせ、先を急ぐ。余裕をみて出てきてはいるのだが、長々と続く塀はどこまでいっても終わりが無いようで、土地勘が無い者を戸惑わせる。誰かに尋ねようにも、まったく人通りは無い。白々(しらじら)と陽が射すばかりだ。  行く手に、こんもりと樹が茂っているのが見えた。鎮守の森のようだ。社があるのだろう。若君の屋敷は、それを過ぎた所だった。  やれやれと息をついた石榴は、目の端に何かをとらえた。  うなじの毛が逆立つ。あの、嫌な気配がした。  樹の作る影の中に、黒い塗笠をかぶった、黒づくめの男が立っていた。裾のすぼまった裁付(たっつけ)袴(ばかま)に袖なしの羽織という軽装だ。 「奴だ」 「え?」  善右ヱ門の盾になるように立ち止まった石榴に、後ろの四人も身構えた。 「京橋の店の前で、見た奴だ」 「あれが…」 「知り合いか?」  いいえ。と答える善右ヱ門を囲むようにして、じりじりと移動してゆく。 「奴が動いたら、俺が相手をする。あんたたちは大旦那を連れて、早く若君の屋敷に入ってくれ」  小声でそう言って、丸めて持っていた頭陀袋から三節棍を引き抜いた。 「わかりました」  固い声で、清太郎が答えた。  砂利を踏む音がして、塗笠の男が一気に動いた。抜き放った刀が冷たい光を弾き、振り下ろされる。それを石榴は、三節棍で真正面から受け止めた。 「行け!」  石榴の声に、供の四人は善右ヱ門を連れて走り出す。  すると。森の中から、刀を手にした男たちが現れて行く手を阻んだ。皆、浪人のようだ。 「くそっ!」  駈けつけようにも、塗笠の男のふるう刃を防ぐのが、やっとの状況だった。強い相手だ。一瞬たりとも気が抜けない。  善右ヱ門に斬りかかる浪人を、正吉が背負っていた袋で殴り、素早く中身を取り出した。乾燥した薬草ではなく、使い込まれた拵えの刀だ。同じく、清太郎も刀を手にしていた。  キン!という金属のぶつかり合う硬質の音が、いくつも塀の間にこだまする。この騒ぎを聞きつけて、早く誰か出てきてくれないかと思う。  正吉たち、店の者はなかなかの遣い手だった。善右ヱ門を護りながら、次々と襲撃者を倒してゆく。旦那の清太郎もなかなかの腕だ。その辺の用心棒などより、よほど役に立つ。  皆、元武士だったのだと、石榴は今更ながら納得した。  森のむこうに続く塀の中ほどに門が見えた。襲撃が長引いている事に焦り出したのか、塗笠の男の動きが激しくなった。しかし間合いは刀よりも、三節棍の方が長い。睨み合っていると、ふいに踵を返して、善右ヱ門たちを追い、走りだした。 「待ちやがれっ!」  化鳥のよう迫る塗笠の男に追いつかれ、後ろを護っていた正吉が斬られそうになる。石榴はとっさに三節棍を投げつけた。  それは見事に足に絡みつき、男の動きがそがれた隙に、善右ヱ門たちは門の所まで辿り着いて、助けを求める。塀の中でも騒ぎに気付いていたらしく、すぐに門は開かれた。  あとを追う石榴を、塗笠の男は道の真ん中に立ちはだかって待っていた。この両側が塀に囲まれた道の幅では、避けようはずもない。三節棍は投げてしまい、今の石榴は丸腰だ。  そんな事にはお構いなしに、突っ込んでいった。  袈裟(けさ)懸(が)けに振り下ろされた刀を潜(くぐ)って避ける。右肩に痛みが走ったが、かまわず地面に転がった。落ちていた三節棍を拾い、すぐさま突いてきた切っ先を受けると、そのまま刀に絡ませた。  肩から血が滴るのにもおかまいなしに、力を込める。  刹那。高い音とともに、刀が折れた。  返す拳で、驚いたような男の横っ面を張り飛ばすと、塀に当たってずるずるとへたり込む。そのまま動かなくなった。  石榴は、獅子の如く雄叫びをあげた。  「石榴さん!」  善右ヱ門が転がるように、こちらに走ってくるのが見える。あとを追う正吉たちの後に、何人かの侍の姿も見えた。 ああ、無事だったか。と思ったら、安堵の息が漏れた。 途端。汗が急にふきだしてきて、右肩やそこいら中に痛みがはしる。足の力が抜け、立っておれずに、その場に座りこんだ。 「大丈夫ですか!」  動けないでいる石榴の前に、善右ヱ門は膝をつく。 「ああ。血がこんなに。どこを斬られたんです」 「大丈夫だ。たいした傷じゃあねぇよ」 それに。と、心配そうに覗きこむ善右ヱ門の顔を見て、にやりと笑う。 「腕の一本や二本。斬り落されても、あんたが縫い付けてくれるんだろう?」  だから大丈夫だ。と嘯(うそぶ)いた。    結局。若君との面会は、この騒ぎで取りやめとなった。  近場の医者で血止めをしてもらい、早々に帰途についた。郊外の本宅まで、自分で歩いて帰ったまでは覚えているのだが、その後の記憶が、石榴には無い。  いつもの離れで目を覚ました時には、丸一日が経っていた。  その間、熱が高く、かなりうなされていたというが、まったく覚えが無い。創(きず)が思いのほか酷かったとはいえ、情けない話だ。あの若君も迷惑に思っているだろう。  しかし、当の若君は、至極ご満悦だったと聞かされた。  自分の屋敷の外で行われた乱闘に気付かないはずは無く、成り行きを窺(うかが)っていたらしい。  あの雄叫びも聞いたらしく、石榴の事を、「まこと、獣よりも強い男だ」と感嘆していたという。何故だか、善右ヱ門一行を襲った刺客を、ひとりで全員倒した事になっていた。 「倒したのは、正吉たちだろう。俺じゃない」 「いいじゃないですか、それで。武勇伝になりますよ」 目を覚ました時から、ずっと傍についている善右ヱ門は、そう言って笑った。 「何故?」 「私どもは商人(あきんど)ですからね。刀なんて、とてもとても」 「狡いな」 「処世術ですよ。石榴さん」  この大旦那には勝てねぇな…と思った。  しかしまぁ、皆、無事で良かった。 「若君の屋敷の奴等もさ。のんびり見物してねぇで、さっさと助けに来てくれりゃあいいのによう」 「武家とは、そういうものですよ」  下手に係わって、要らぬ遺恨を買う真似はしたくない。自分の御家(おいえ)が大事なのだ。 「一人の小事が、御家すべてに及ぶような大事になるやも知れず。そう簡単には」 「ふうん」  窮屈な事だ。  やれやれと身体の向きをかえようとして、顔をしかめる。右肩の創は、結構深手だった。他にも細々とした傷が、いくつかあった。 「つつっ」 「大丈夫ですか?ああ、動かさないで下さい。創が開きます」  真新しい夜着の襟からは、右肩に巻いた布が見える。 「すまんな。せっかく仕立ててもらった着物も、台無しだな」 「そんなもの。いつでも仕立てられますから」  そうかい。と呟いて、石榴は自分の右肩を撫でる。 「今度は縫わなかったんだな。創」 「ええ」 「いいのかい?せっかく長崎から取り寄せた道具が、錆びるんじゃないのか」  冗談めかして言うと、善右ヱ門は横を向いた。 「もう、嫌なんですよ。石榴さんの創を縫うのは」  だから怪我なんて、しないで下さいよ。   そう聞こえた。    馴染みの飯屋の二階の四畳半に、石榴は胡坐をかいて座っていた。さっきまで寝ていた布団が、丸めて後ろにつくねてある。  向かいには、文化堂の大番頭の与助が、背筋をすっと伸ばして座っていた。 「まさか、あんたまで。こんな所に来るとはね」  まいったよ。と石榴は首の後ろに手をやった。 「あなたが帰ってしまわれたので、大旦那様は大変、気落ちしておられます」  「大変」に力がこもっている。 「ああ。まぁ…用が済んだのに、いつまでも居るわけには、いかねぇだろう」  そんな事ありません。と与助は姿勢を正したまま、言った。 「だってなぁ。あの刺客雇ったのは、若君んちの御殿医とやらだったんだろ?」 「そうです」 「それに。あんたが前に居た、さる藩とやらは。別邸をそのままにしとく事になったと、言ってたじゃないか」 「ええ」 「なら、もう狙われる事は無いだろうし。用心棒はお役御免だ」  違うか?と石榴は唇を尖らせた。  ですが。と言い募ろうとする与助から目を逸らして、石榴は湯呑から茶をすする。  先刻、物見高げに覗きにきた、おれんが置いていったものだ。粗茶の名に恥じない代物だが、この近辺ではまともな方だ。ただ、とっくに冷めていた。  あれから、ひと月あまりが過ぎていた。  右肩の創はまだ時折痛むが、問題があるほどではない。上げ膳据え膳の生活は、身に馴染まない。早々にお役御免を願い出て、帰ってきた。  相変わらず鋭い目付きで見ている与助に、話題をそらそうと、石榴は口を開いた。 「しかし。何だって、御殿医とやらが、大旦那殺(や)ろうなんて思ったのかねぇ。自分の薬より、効いたからか?」 「それもありますが。その事により、若君が藩主となられた折には、御殿医の座を奪われると考えたようです」 「あ、あ、あ。そんな噂があったわ」  石榴は、うん、うん。と頷く。 「まったく迷惑な話です。手前どもは薬種問屋です。医者になどなれませんよ」 「違うのかい?」 「違います。お医者様から出された処方箋どおりに、生薬をお出しすることはできますが、診療や治療は致しません」 「でも、あそこの若君様は、元気になったんだろう」  あんなもの。と与助は鼻で笑う。 「規則正しい生活と、適度な運動。きちんと食事をする。それだけです。もちろん、滋養に良い物とかは、お出ししましたが。あそこの方々は、若君を甘やかし過ぎるのです」  おー、怖(こわ)。  きっぱりと言い切る与助に、石榴は首をすくめた。  この大番頭。かなりの忠義者だ。主大事を隠そうともしない。隠遁する善右ヱ門のために、文化堂の仕組みを考えたのも、この男だろう。  もしも。すべての話を聞いたうえで、やはり無理だと用心棒を断っていたら。あの本宅から生きては出られなかったんだろうな。と気付いて、今更ながら身震いする。たぶん、あの庭で栽培されている、薬草の肥やしにでもなっていただろう。 「ねぇ。石榴さん」 「なんだ?」  急に声の調子が変わった与助に、身構える。 「大旦那様は、毎度、あなたの所在を探すのが大変だと仰ってます」 「最近は、ここを塒(ねぐら)にしてるよ」  そのようですね。と与助は、煤けたような四畳半の中を見回した。 「しかし。このような場所では、込み入った話などはできませんよ」 「まぁ、そうだな」 「長屋住まいがお嫌いだというのなら。仕舞屋(しもたや)を一軒、通いの良い処に借りてさしあげます。何なら、身の回りの世話をする小女も雇い入れますが。如何ですか?」  石榴は片目を眇めて、与助を見返す。 「あんた。自分が何、言ってるのか、わかってるのか?」 「もちろん」 「それじゃあまるで、妾を囲うみてぇだろうが」 「妙な女に引っかかるより、余程マシです」  そう言う顔は真面目なままだったが、目は笑っていた。  階下から、「石榴さ~ん」と太平楽な声がする。  大旦那が来たようだ。  善右ヱ門と入れ替わりに、与助は帰っていった。 「与助は、何の用があったんです?」  出ていった方を見送りながら、善右ヱ門は不思議そうに訊く。 「ああ?なんか俺にさ。用心棒じゃなくて、あんたの妾にならねぇか。みたいな話を、ね」  呆れたように言う石榴に、善右ヱ門は「それもいいですねぇ」と楽しそうに笑った。  まったく。  どこまで本気なんだか。  喰えねぇ男だよ。と石榴は思った。 ー了ー
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