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前日譚:魔王は目を逸らす
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温かい、花の香りがする。
「魔王様」
よく知った声に意識が浮上し、目を開ける。
煙が見えた。あの煮えたぎるような炎のものとは少し違う。あの鬼は、彼らは、どこにいったのだろう。
「起きてください」
そう声をかけられ、何度か瞬きを繰り返す。やっと意識がはっきりしてきた。
テーブルの上に紅茶が置かれ、湯気が陽炎のように揺れる。煙だと思っていたのは、この湯気だったのか。
そこでふと視線を横に動かすと、トレイを脇に抱えたしかめっ面の小人と目が合った。
「紫、か?」
呼びかけると、紫はさらに眉間に皺を寄せた。
「寝ぼけていらっしゃるのですか? 座って居眠りをするぐらいなら、ちゃんと日頃から横になって睡眠をとるようにとあれほど言っているでしょう。そんな寝方だと疲れも取れませんし、身体にもよくありません」
紫は呆れたようにため息をついた。主に対して容赦ない小言を言ってくる紫に、魔王は苦笑いを浮かべた。確かに体を動かすたびに固まった筋肉が悲鳴を上げ、少し痛い。どうやら自室の椅子に座った状態で眠っていたらしい。
まだ不満そうな紫に笑いながら、悪かったと声をかけ、ティーカップに手を伸ばす。
手を伸ばしたその腕が、夢で彼らに伸ばした腕と重なり、思わず動きを止めた。温かさを示す湯気がだんだんとあの日の炎と重なり、彼らの顔を映し出す。
(大丈夫だ。忘れるもんか)
最近気を緩み過ぎたのかもしれない。
狼がきてから、この城は少しにぎやかになった。からかいやすい奴で、見ていて面白いから、戦争なんかしていることを一瞬忘れてしまう。
この前も気配を消して後ろから脅かしたら、面白い奇声を浴びていた。その時の狼の膨れっ面がまた面白くて――……
そこまで思い出して頭を振る。
魔王はティーカップを手に取って、紫に目を向けた。
「それで紫。用があったんだろ。わざわざ部屋にまできて。通信使えばよかっただろうに」
魔王はこめかみをトントンと叩く。
魔王が仲間に食べさせた『きびだんご』は、魔王と意思疎通する力があり、遠くにいる前線部隊とも簡単に連絡をとることができる。紫にも最初に出会った時に食べてもらったはずだ。
内心首を傾げていると、紫は顔をしかめ首を横に振った。
「ワシはあれがあまり好かんのです。頭の中であなたの声が響くのがなんとも不快です」
「腰が抜けるほどの美声だからか?」
「失礼。ワシの伝え方が悪かったですね。虫の羽音を耳元で聞いている気分になるので、嫌いなのです」
「俺の声は羽虫と同等かよ」
紫の容赦ない本音に魔王は思わず笑みを浮かべた。
相変わらず主に対する言葉とは思えないが、紫のこの気兼ねないやり取りは好きだ。
他の仲間たちは魔王を尊敬し、期待しているが、紫だけが魔王を子どものように扱う。
食事はしっかりとれ、ソファで寝るな、洗濯物は部屋にため込むな、など親のように魔王を叱るのだ。
けれど、だからこそ紫につい甘えてしまう。
紫は魔王にとって、気を張らなくていい唯一の相手なのだ。
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