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お万
「お主、私の妻にならぬか?」
——突然戦国時代にタイムスリップし、
徳川家の女中として仕事を得た十和が
当主から初めて掛けられた言葉がそれだった。
遡ること三年前——
毎晩の残業で心身共に疲弊し切っていた十和は
始発で会社から自宅へ帰る道すがら、
普段は乗り換えのため使っている東京駅で電車を降りた。
駅を出て皇居の方面まで足を運ぶと、
まだ空が白み始めたばかりだというのに
何人ものランナーとすれ違った。
凄いなぁ。
こんなに朝早くから皇居ラン。
健康的で爽やかで、羨ましい。
朝も夜も関係なく働いて、昼夜逆転している私には縁遠い世界——
皇居を背にし、今歩いてきた方面を振り返ると
東京駅のシックな駅舎が視界に入って来た。
上京したての頃——社会人になったばかりの頃は
毎日が新鮮で楽しくて、働くことにやり甲斐を感じていたはずなのに……
どうしてこんな風になっちゃったんだろう。
私は本当はどう生きたかっ……、
寝不足が続き、ふと意識が遠のいた瞬間。
そのまま足がもつれた十和は
皇居を取り囲むお堀に転落し、冷たい水の中に沈んでいった。
そして目を覚ました時には、『ここ』にいた。
江戸城のお堀の中で溺れていたところを
通りがかった徳川家の武士達に助け出された、と
意識が戻った後に聞かされた十和は、
自分がいつの間にか同じ場所の異なる時代へ来てしまったことを悟ったのだった。
そして介抱してくれていた江戸城住み込みの女中達に頭を下げ、
どうか自分をここで雇って欲しいと頼み込んだ。
令和ではごくありふれていても、
ここ——戦国の時代には奇抜にも見える髪型や服装をしていた十和を
初めは避けるようにしていた周囲も
よく働く彼女を次第に受け入れるようになり、
やがて様々な役割を与えてもらえるようになっていた。
それから一年が経ち、髪型や着物もすっかり周囲に馴染めるようになった十和が
城の中庭を掃除していた時、偶然通りかかったのが当主の徳川家康だった。
それまでは直接当主を見ることも、会話したこともなく
大勢いる家臣や女中に紛れて徳川家に奉公していた十和だったが、
彼女が箒を穿いている後ろ姿を見かけた家康は
すたすたと近くまで歩いて行き、突然手を取ってこう告げたのである。
「お主、私の妻にならぬか?
安産型の良い尻をしている」
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