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 明野領法勝寺の桜は、今まさに見ごろを迎えようとしていた。  以前、この場所によく来ていた頃は、桜もあるにはあったがどちらかといえば紅葉や楓が主たる庭木だったように思う。長らく足が遠のいていた間に、庭木のほとんどが桜に取って変わり、この寺は明野領における桜の名所として知られるようになっていた。寺の建物は建て替えられていないようだが、満開の薄紅色の中で、何故かあの頃より新しく、白くなったように見える。  かつてこの土地で暮していた頃、三つ年上の兄貴分が寺の手習い所の師匠をしていたので、彼も何度か子ども達と一緒に庭の草を刈ったり、寺の掃除をしたりした。その後、兄貴分の部屋で団子を食べて、竹刀片手に稽古をつけてもらって――あれからもう随分と長い年月がたった。  これを花曇りとでもいうのだろうか。つい先ほどまで空全体が分厚い雲に覆われていたのだが、寺に到着するのと同時くらいに雲が割れ、そこから光の筋が射し込んできた。ひらり、またひらり、と桜の花びらが枝を離れて小砂利の上に舞い降りている。砂利を踏みしめる足音が聞こえたのだろう。箒を使っていた僧侶が振り返って、とても懐かしい名前で彼を読んだ。 「久しぶりだな、雅規。――いや、今は佐伯殿とお呼びすべきか」 「雅規でいいよ。本当にご無沙汰している……慈徳和尚、いや忠雅兄者」  法勝寺の慈徳和尚は、その俗名を清水忠雅という。  生野藩明野領の初代領主であり、現明野領主・清水忠清の実父でもある小柄な老人は、本来ならば明野領でもっとも身分の高い人間である。それが妻を亡くした後にあっさり出家し、法勝寺の和尚に収まった。以来、政の表舞台からはすっかり姿を消し、御仏に仕える傍ら、法勝寺の手習い所を切り盛りしている――という話は、今、明野領で療養所を営んでいる雅道からの文で知っていた。  雅道に見送られて君水藩を出た後、影衆の雅規は浪人の子の笠井勇之進に戻った。最初に向かった先は君水藩の隣藩・高濱藩であったが、君水藩と高濱藩は親戚同士なので、そう長くはいられない。高濱藩からさらに旅を続け、公方様のお膝元――江戸に辿り着いた時、勇之進はなることができないはずの二十歳になっていた。  その後はただひたすら、食うことに追われる日々を送った。手跡指南所を手伝ったり、文字を書けない人達の代書を引き受けたり、それだけでは足りずに夫婦で江戸浪人の内職の定番・傘張りに精を出したこともある。  そうこうしているうちに、働いていた手跡指南所の師匠が、江戸の西にある剣術道場・佐伯道場を紹介してくれた。武士の子だけでなく、商人や農民の倅や時には女子にも剣を教える評判のよい道場であったのだが、高齢の道場主に跡取りがなく、存亡の危機にさらされていた。佐伯家に夫婦養子として迎えられ、佐伯勇之進と名を改め――養父の死後に佐伯一之丞となってから、既に三十年以上の年月がたつ。 「雅勝だけでなく、まさかお前まで生きていてとはな。……雅道に聞いた時には本当に驚いたよ」  江戸にたどり着いた後も元同輩の雅道とだけは、数年に一度くらいの割合で文のやり取りを続けていた。死んだと思われていた三つ年上の兄貴分が生きていて、妻子の待つ家に帰ったという文を見た時には、見慣れた雅道の字を二度見してしまった。三度目に見た時、先ほどまで読めていたはずの文字がまったく目に入ってこなくて慌てていたら、心配した妻のお糸が傍らに寄り添って手を握ってくれた。彼女の瞳に映った自分の姿を見て、勇之進は自分が涙を流して泣いていることに気がついた。  境内の掃除を終えた慈徳和尚は、部屋の中に招き入れ、手ずから茶をたててくれた。何でも妻を亡くした後、その味が恋しくて忘れられず、何とか自分で再現できないかと試みているうちに、すっかり趣味になってしまったのだという。さほど広くない部屋の中で一之丞と膝を突き合わせ、法衣姿の元領主は自分でたてた茶を美味そうに飲んでいる。 「雅道から話は聞いた。佐伯勝之進――まさかあの若者が、お前の孫だったとはなぁ……」  所帯を持って五年以上、なかなか子どもを授からなかったので、お糸は自分が若い頃に身を汚した所為だと酷く思い悩んでいた。自分と別れて他の女と所帯を持ってくれと泣く妻に、絶対に離縁しないと言い続けていたら、三十路前になって思いがけず子を授かった。それも男ばかり、三人も。三人が食い盛りの頃は毎日の米の減り方に本気で頭が痛くなったものだが、一人も欠けることなく育ちあがって、気立てのよい嫁を迎えて孫までこさえてくれた。このまま江戸の片隅でひっそり一生を終えるのか――と思っていたら、とんでもないことが起こって、再び明野領にやってくることになった。  剣術修行の旅に出ていた十五歳の孫息子が、生野藩明野領に流れ着き、領主に気に入られて側近くに侍っていると知らせてきたのである。どうしてよりにもよって明野領になど行かせのかと、今では立派な道場主である息子の頭を張り倒したくなったものだが、息子も孫も一之丞が若い頃、明野領で暮していたことを知らないのだから無理もない。しかも悪い事に六人いる孫の中で、彼は最も若い頃の勇之進に似ていて、剣才まで受け継いでいた。勝之進の姿を見て、明野領の誰かがかつての影衆の最年長を思い出し、その罪を孫に押し付けて腹を切らせる――なんてことは、ものすごくありそうに思われた。 「責任はすべて俺が取る。忠雅兄者、あいつは……勝之進は俺が明野領の影衆であったことを知らないんだ。頼む、俺は今ここで死んでも構わない。あいつだけは無事に親元に帰してやって欲しい。――この通りだ」  妻とは江戸を出る前に、既に水盃で別れを告げてきた。  逃散は影衆にとって絶対に許されない行為であり、地の果てまでも追われて粛清される。今はもう明野領に影衆という隠密組織は存在しないが、かつて、金で買われた影衆の最年長でありながら、無断でこの地を逃げ出したことは紛れもない事実だ。それが罪だと言われるなら、この身をもって償うしかない。  ――若者が先を生きられない国に未来などない。  一介の道場主が亡国論を語るのもおこがましいだろうが、曲がりにも人に「先生」と呼ばれて仰がれる立場になってから、一之丞はずっとそう考えて生きてきた。  実際に、飲んだくれの父親に折檻を受けていた少年を引き取ったことも、跡取り息子の勉学代の為に吉原遊郭に売られそうになった娘を匿ったこともある。ましてや今、人生の危機に立たされているのは一之丈にとって、血を分けた可愛い孫である。孫の命と将来を守る為であれば、俺の腹くらいいくらでも切ってやる。何なら今この場で己が首を切り落としたって、構いはしない。 「……もうよせ、雅規」  畳に頭を擦り付けた一之丞の肩に、暖かな手が触れた。思わず顔を上げると、艶やかな額を光らせて、慈徳和尚は穏やかに微笑んでいた。  彼は一之丞より三歳年長である。とっくに還暦を過ぎ、既に七十に近いはずなのに、その笑顔には少年の面影があった。  次席家老の家柄に生まれながら、影衆に追いやられた忠雅は家督を継いだ後、それまで家畜同然だった影衆達の待遇を人並みまで改善した。雅勝が本領で亡くなり、雅規が予定より早く最年長になった後、とても気にかけてくれていたことも知っている。雅勝とは別の意味で尊敬していたし恩義も感じていたのに、何一つ告げないまま、勝手に去って行ってしまった。 「今の俺はただの和尚だ。お前と俺との間に身分の差なんて存在しない。それに影衆なんてものは、もうこの世には存在しないんだ。――俺はお前が生きていてくれて嬉しいんだよ、雅規」 「……忠雅兄者」  願望が見せる幻だろうか。墨染の衣に身を包んだ僧侶の姿に、若き日の光景が重なった。今ならわかる。忠雅と雅勝は海賊や葉隠衆との戦いには積極的に雅規達を連れて行ったが、罪のない女子供を手にかけるような汚れ仕事は絶対に命じなかった。たった三歳しか違わないのに、ずっと彼らに守ってもらっていた。命ではなく、心を。情けないことにそう気づいたのは、彼らの庇護を離れて大分だった後のことだった。 「息子には俺から話を通しておいた。お前の孫が罪に問われることは決してないから心配するな。忠清の奴は、本気で娘の婿にと考えているみたいだったぞ。……むしろ、返してもらえないことの方を心配するんだな」  武者修行の旅で明野領に訪れた佐伯勝之進なる若者は、明野領主の十七歳になる娘と、今、ちょっと良い雰囲気になっているのだという。これが藩主の娘ならば身分違いの悲恋物語だろうが、太平の世で領主の娘が政略結婚に使われることはない。本人同士が望むなら、あと二、三年後、勝之進が十八になるのを待って話をまとめてやってもいいと、かつての兄貴分は請け負った。  ――おいおい、何なんだ、その話は。江戸の両親と祖父母の胆を散々冷やしておきながら、お前はここで何をやっていたんだ。というか、年上好きは俺の血筋か。しかし俺が十五の頃は、そこまで手は早くなかったぞ。  気が抜け過ぎて呆気に取られて、やがておかしくなって笑い出してしまった一之丈と一緒に慈徳和尚も楽しそうに笑っている。わざわざ年長者が守ってやらなくとも、若者は若者なりにしっかりと自分の人生を築き始めているらしい。  何はともあれ、まずは江戸にいる妻と、息子を思って夜も寝られずにいる息子の嫁に、早飛脚で、何の心配もないと送ってやろう。  不意に庭の方角から、風が吹いて来た。晩春の突風は明野領名物だが、今はまだそこまで強くはない。内に花の甘やかな香りを含んでいる。せっかく明野領までやってきたのだから雅道に会いたいし、淡路屋から暖簾分けを許され雅弘が明野領に開いた店にもぜひとも顔を出してみたい。  雅規があの日、雷桜の下を旅立ってから四十五年目の春のことだった。
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