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 犬脇峠の麓には雷桜と呼ばれる桜がある。  この地がまだ君水藩となる前から存在した桜の大木であり、毎年、春の終わりに桜色の雨を降らせるほどに、たくさんの花を咲かせていたという。ところが戦国時代の終わりごろ、この木を雷が直撃し、木の形そのものは残ったが内側が焼けてしまった。以来、まったく花をつけなくなっていた雷桜の割れ目から若木が芽吹いて、再び薄紅色の花弁を綻ばせるようになったのは、今からほんの三、四年前の出来事である。  いちど死んで甦った奇跡の桜。雷桜は再生と復活の縁起物として、この土地で暮らす人々からとても大切にされている。そしてこの雷桜にはもう一つ、あまり大きな声では語られない過去があった。  第三代君水藩主・武智泰久が亡くなり、分家筋の明野領主・武智雅久が四代藩主となって本領入りする際に、本領の隠密である葉隠衆と明野領の影衆との間で、壮絶な戦いが繰り広げられたのがこの場所である。その時点で既に戦国の世は終わっており、そもそも戦国乱世の時代でさえ、明野領は一度も戦場になったことがない。君水藩明野領の歴史において唯一の戦闘が、この日の犬脇峠の戦いであった。 「――こっちはもうだいぶん、春になったなぁ。雅明、行ってくるよ」  この日、手甲脚絆の旅装束で犬脇峠の麓を訪れた雅規は、これまで何度もそうしてきたように、この場所で死んだ友に向かって語り掛けた。  犬脇峠の戦いで命を落とした雅明は、雅規と長く苦楽を共にした影衆の同輩である。敵味方が入り乱れ、多くの人命が失われた戦闘の最中に、何をそれほど驚いたのか。見開かれたまま濁り始めた十六歳の少年の瞼を閉ざしてやったのが雅規で、その髪の一筋を切って懐に収め、法勝寺の裏にある墓に納めたのがもう一人の同輩であり、今は本領で医師見習いをしている雅道だった。雅規も法勝寺には何度も足を運んで、雅明だけでなく他の影衆の墓にも手を合わせたり花を手向けたりしてきたのだが、何故か雅明の魂だけは法勝寺ではなく、この雷桜に宿っているような気がしてならない。  どこかで鶯の鳴く声がする。一般的に、明野領はこの辺りの他の地域に比べて春の訪れが遅い。見上げた枝の蕾はまだようやく芽吹いたばかりといった感じだが、頭上に広がる澄んだ空、吹き抜ける風の感触には、明らかに春の気配が感じられた。  雅規は君水藩本領の剣術道場で師範代を勤めていた父と、浪人の娘の母との間に生を受けた。九歳の年に父親の手で明野領に売られてきて、今年で丸十年となる。十九歳の今では最年長として、年下の影衆達を取り仕切る立場にあった。明野領で人として認められていない影衆は過酷な勤め故に二十歳まで生きられないと言われているが、雅規の前の最年長であった人も、十九歳の秋まで生きていた。影衆の最年長が二代続けて十九歳まで生き延びるのは史上初だそうで、影衆達のただひたすら灰色の人生にも、少しばかりの光が見えつつある。  ――雅勝兄。俺は今、少しくらいは、あなたに近づけただろうか。  九歳から十六歳まで行動を共にした同輩と、心から尊敬していた三つ年上の兄貴分。大切な人達との永久の別れから、三年目の春が訪れようとしていた。
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