はじまり

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はじまり

 イギリス某所。扉を開けると暗くきしむ音のする古い酒場があった。そこには60代くらいのおじいさんが日が沈む頃に立ち寄る。彼はジェームズという小説家。各地を周り小説を書き、大ヒットを記録した人物。今は余生をゆっくりと過ごしている。  彼は時折、酒場のマスターや常連客に小説のアイディアのようなものを語るのであった。その話はあまりに信じられない内容ではあるのだが、どこか説得力があり真実のようにも聞こえ、わくわくする小説のようにも聞こえるのだ。  その話の一つに、最近発見されたある「ノート」に関わる話があった。それは全世界に衝撃と安堵を与えたニュースから数日後の出来事のことである。    夕日が小さな街並みを照らし、人々が帰路につく頃、金髪を短く切ったおじいさんが、地元の酒場に入っていく。いつもの足音ときしむ扉の音にマスターは、ジェームズが来たことを知るとともに今日は何も話さず帰るのか、また楽しい話を聞けるのか少しワクワクするのであった。  チャールズは酒場に入ると必ず、ビールとフィッシュアンドチップスを頼む。それをゆっくりとつまみながらテレビを見るのである。 「なぁ、マスター」 始まったぞ。マスターは久しぶりに語られるそのエピソードに耳を嬉々として傾けるのであった。 「何でしょう」 「最近のニュースを見たかい?あのノートのやつ」 グラスを磨きながらマスターは聞いた 「ノートのですか?」 「あぁ、20年ぶりに誰かから返されたダーウィンのノートだよ。あれを見て、また面白い話を思いついてね」 そこから長い話が始まったのだ。しかし、時間の流れは対して感じることもなく、いつのまにか日は沈み夜が更けていったのを覚えている。  ダーウィンのノート。  2001年1月。特別所蔵品の写真撮影のため重要書庫から取り出されて以降、行方不明になっていると報告されていた。しかし、2022年4月。2冊はピンク色のギフトバッグに入った状態で、キリスト教の復活祭にちなみ「ハッピーイースター」とタイプされた司書宛てのメッセージと共に、図書館の公共エリアの床の上に置かれているのが見つかった。このニュースは全世界に報じられた。そして、ジェームズは続けて話をした。  あのノートには実は秘密が隠されていて、ノート自体は何百万ドルの価値があるらしい。しかし、それが20年経って返されるのには理由があると思う。 よほど善意のある人間であればすぐに返すであろうし、何の傷もなく返すということはその価値についても十分知っている。とするとだ。   ノート以上の価値のあるものを20年かけて手に入れたから返されたと考えるのが妥当だと思わんか?    マスターには他のお客さんの喧騒の中で語られたその一言にはかなり重みがあり、はっきり聞こえた。自分にも、口の中に何かが溢れ、飲み込む音が鮮明に脳に響いた。しかし、身を乗り出したい気持ちを抑えながら、いつものように 「それは面白い話になりそうですね。」 落ち着いて相槌を打った。 ジェームズは、手元にあるビールで喉を潤し、いつも通り話し始めた。マスターには、ジェームズが気をよくしたのがいつもの付き合いからわかったように思えていた。    2001年2月、イギリスを代表する出版社。200年以上の歴史ある。5階建ての赤い色をした壁に白い柱の入り口からジェームズは中に入っていった。階段を登り、編集者の人に応接室に招かれた。壁は暗い茶色に、黒のソファーがあり、向かい合わせになっている。テーブルがやけに明るい木の色で妙な違和感がある。 小説の原稿を見せると編集者は 「ジェームズさん、これはちょっと厳しいと思いますよ」 以前のヒット作から題材選び、取材をしてもなかなかうまくいかない日々が続いていた。編集者があれやこれやと話しかけている。懸命に聞こうとするが、自分の中ではどこか上の空なのだ。 「今の話でよろしくお願いします」 そう言い終えると応接室から帰るように促された。頭を抱えて思い悩みながらも、トイレに寄って個室に入った。どうしたものかと悩んでいると、2人の男が入ってきた。 「聞きました?」 「何を?」 「例のノートの件ですよ」 「あぁ、ダーウィンのやつか。取材のために借りてなくなったやつだろ?」 どうやら上司と部下の間柄だろうか。双方の妙な親しみから仲の良さが伺われる。 「やっぱり全然見つからないらしいんですよ」 「いやー、かなりまずいだろ」 「もしかしたら盗みに入ったんですかね」 「あんなもの盗んでも価値は高いだろうが、オークションにかけてもすぐばれるだろ?」 「確かにそうですよね」 そういうと手を洗い終えてトイレの外に出ていった。ダーウィンのノート…。ダーウィンか、次の小説のネタにでもなるだろうか。自分が書いている小説から逃避するかのごとく、関係のないアイディアが生まれてくる。昔調べたこともあったっけ…。そんなことも考えながら、自分の悩みを遠ざけてトイレを後にした。    気づけばウエストミンスター寺院に来ていた。小説を書くため、何度も来た白くそびえる建物。建物は、何百年もの間ロンドンに存在し続けた。テムズ川の近くに、大きな橋、宮殿、ビックベンが立ち並ぶ。普段はあまり意識せず、小説を書くことに没頭するが一息つく時に見るロンドンの街並みには圧倒される。  ウエストミンスター寺院のダーウィンが埋葬されいる墓の前に来た。観光客が大勢いる。地面に少し凹みがあるところに、花が添えられている。その数メートル四方に一般客が入らないようにロープで区切られている。ぼーっと墓を見ているとそこから真剣な表情をしている女がいることに気がついた。髪は少し茶色く、白いシャツに黒のズボン。20代だろうか。一見観光客にも見えるが、あまりに表情が余暇を楽しむ顔とはかけ離れていた。よく見ると口元が少し動き、メモを取ってはまた、頭を抱えている。なぜか私は、その女性に少し興味が湧いた。 「あなたも取材か何かですか?」 「あ、あの、ええ、そうです」 少し戸惑ってその場を取り繕うかのように話していた。 「その、科学の雑誌についての仕事がありまして」 「そうですか。私も物書きの仕事をしているのでお互い大変ですね」 「ええ、本当にそうです」 「私も小説を書こうと思い、こちらに来てみたのですが、なかなか…よろしければお話を少し伺ってもいいですか?小説のヒントにできればと…」 女は渋そうな顔をした。しかし、少し間を置いて考えをまとめて一言 「ええ、いいですよ。少しくらいなら」 と言って承諾してくれた。なぜここまで、渋々返事をしていたのかはよくわからなかった。  ウエストミンスター寺院から東側に大きい通りから中道に入るとカフェがいくつか並んでいる。歩きながらお互いに自己紹介をした。女は、アリスというらしい。最近の科学雑誌について仕事をする様に言われたことを話していた。程なく、それなりの店を見つけた外観は濃い青色で、中は落ち着いた雰囲気、壁はこげ茶色だ。小さなシャンデリアが飾られ、椅子とテーブルは高級そうである。扉と窓の近くに座った。今日は少し寒いので、窓側に座る客はあまりいない。そして。女は入り口側に座った。 「すみません。急に呼び止めて同業者だったもので、ついつい…どちらの出版社ですか?」 「いえいえ、こちらこそわざわざありがとうございます。X出版社ですよ」 「ああ、あちらにはお世話になっているんですよ。ちょうど今日も伺っていて、あまりうまくいっていなくて…。以前書き上げようとした小説にダーウィンにかかわるものがあったので、かなり調べたものだったのでもう一度見てみようかと」 少し眉をひそめたように見えたが、少し間を置いて表情が途端に明るくなった。 「X出版社のジェームズさんって、もしかしてあの本を書かれた方ですか?」 「あ、読んでいただいているんですね。ありがとうございます。」 アリスは少し興奮しながら、小説の話をしてくれた。そして、一呼吸置いた後に周囲を見渡して小さな箱に入った二冊の書物を取り出したのだった。        
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