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「今日、金曜日ですよね」
ペンダントライトの並ぶ、客もまばらな薄闇のバー。そのカウンターの端で隣に座った彼女の第一声に俺は小さく笑った。
「もしかしてタイムトラベルでもしたんですか?」
揶揄うように尋ねると、彼女は悪戯っぽく微笑む。お酒で赤らんだ笑みは少女のように可愛らしく、そして大人の艶やかさも滲んでいた。
「ええ。実は日曜日の夜から来ました。月曜日がイヤで」
「月曜日イヤですよね。わかります」
「ね、一生来なきゃいいのに」
「それに比べて金曜日は気楽です」
「明日のこととかなんにも気にしなくていいですしね。金曜日なら何回来ても大歓迎です」
他愛のない茶番じみた会話に、ふふっ、と彼女は口元に手を添えて笑った。
それから左手でカクテルグラスを持ち上げて口へと運ぶ。光を帯びる液体が彼女の唇を潤した。その薬指に指輪はない。
俺は口の端に溢れそうになった笑みを抑えながら、舐める程度にロックグラスを口につける。からり、と氷が鳴った。
今夜、絶対に彼女を帰さない。ここで酔っ払ってしまったら台無しだ。
「それで、二度目の週末は何を?」
「これが暇なんです。二度目なので」
「あ、俺もです」
「どっちの話?」
柔らかな明かりに照らされた彼女は楽しそうに笑った。
初対面だと感じさせない朗らかさに感心してしまう。誰に対してもこうなのだろうか。「どっちでしょうね」とはぐらかして俺はグラスをもう一度持ち上げる。
彼女もカクテルを一口飲んだ。
「そういえばまだお名前を訊いてませんでしたね」
「週末の予定を先に知るなんて思いもしませんでした」
「ふふ、本当ですね。何とお呼びしましょう?」
「時数、といいます」
「へえ」
そこで初めて彼女は笑顔以外の顔を見せた。ぽってりとした唇を少しだけ開けて、とろんと少し目尻の下がった目を丸くしている。
驚いているんだろう。無理もない。そうそう人と被らない名前だ。
しかしその表情もすぐに先程までの微笑みに戻り「素敵なお名前ですね」と何事もなかったかのように言った。
「ありがとうございます。センスの良い親に感謝ですね」
「ご両親が聞いたら喜びますよ」
「……じゃあ伝えます。この週末に」
「良い予定ができましたね」
彼女は優しく微笑んだ。それがどんな気持ちなのか俺にはわからない。ロックグラスを持ち上げて半透明の液体を少し多めに飲み込むと、喉が熱くなって咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
彼女は案ずるようにこちらを覗き込む。そして彼女はその手で俺の背中をさすった。思っていたよりも小さな手の平から彼女の体温が俺の背中に伝わる。
その知らないはずの温度はじわりと沁み込むように胸の奥にまで届いて、深奥を強く揺らした。
「――え、泣いてるんですか」
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