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彼女は先程よりもはっきりと驚きの表情を見せた。こんなに表情豊かな女性だったのか、この人は。「いえ、ちょっと噎せただけです」と俺は涙を拭いながら、頭の中では別のことを思う。
あなたに明日はないんですよと言ったら、どんな顔をするだろう。
今晩帰り道で通り魔に刺されるんだと伝えたら信用してくれるだろうか。いや母親を救うために俺はここに来たんですといくら主張しても、まだタイムトラベルの完成していないこの時代じゃ信じられる訳がない。また揶揄ってるんですかと笑われるのが関の山だ。
「……大丈夫です」
俺は写真でしか見たことのなかった母を見つめる。
生まれたばかりの俺を父に任せて飲み歩き、男遊びもひどく、ろくに家にも帰ってこなかった母は家族や親族から嫌われていた。通り魔に殺害されたときも自業自得だと葬式すら挙げてもらえなかったらしい。
だから三十年後タイムトラベルの個人使用が認められて、母を助けに行くと言ったら周囲から猛反対された。父にも「やめとけ。後悔するぞ」と止められた。
それでも。
「俺はあなたに会えて良かった」
そう言うと、彼女は「酔っ払ってるんですか?」と苦笑する。俺は何も答えず微笑みを返した。
何も知らなくていい。ただ俺が守るだけだ。
俺は、母ともっと話がしたいから。
「……さて」
俺は仕切り直すようにグラスを煽った。彼女は少し訝しげだったが、それ以上の追及はしなかった。
それでいい。そのまま何事もなかったように土曜日を迎えて、いつも通りの日曜日を過ごして、否が応でも訪れる月曜日に絶望すればいい。
そうやって何週間だって生きて、生きて、生きて。
三十年後の週末に、俺にお礼を言われてほしい。
「涙で出た分、もう一杯付き合ってください」
「飲みすぎじゃないですか?」
「大丈夫です。このお店、朝までやってるそうなので」
「何が大丈夫なんでしょう」
俺は片手を挙げる。ボトルを磨いていたマスターが静かにこちらへと歩み寄る。そして俺は彼女のグラスを右手で示した。
「いいじゃないですか。金曜日ですし」
「……まあそうですね。金曜日ですし」
カクテルグラスが傾く。
三角形の辺を伝う最後の一滴が、彼女の唇を濡らした。
(了)
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