第一話

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第一話

  「エデニアさんって、すごいですよね」  庭掃除の最中、後輩の使用人が唐突に言った。  エデニアは慣れた手つきで箒を動かしながら、後輩の方を見る。 「って、何が?」 「エデニアさんが旦那様のご子息の専属使用人に選ばれてるってことですよ! 相当優秀じゃないと専属に選ばれないって聞きましたよ!」 「…………」  どう返したらいいのか分からなくて、エデニアは押し黙ってしまう。  目を輝かせて見つめてくる彼女は、今年の春入ってきたばかりの新人だ。そこに悪意はないのは明白で、むしろ尊敬の色をほのかに感じる。それが余計に、エデニアの心の仄暗いところを引っ掻いてくる。  この子はまだ何も知らないのだ。いずれ嫌でも知ることになるだろう。使用人五年目で大した経験もないエデニアが、どうして専属使用人なぞに抜擢されているかを。  エデニアは後輩の言葉に敢えて反応せず、別の方に注意を向けることにした。 「……ほら、まだ掃除は終わってないわよ。口じゃなく手をもっと動かして」 「あっ、はい! すみません! ……それにしても、ここのお屋敷って立派だけど広すぎるんですよね……」  後輩の小さなぼやきの通り、エデニア達が勤めている屋敷はやたら広い。さすが帝国内でも飛び抜けて有名な資産家の屋敷とでもいうべきか。歴史は浅いが、それを凌ぐほどの金と権威を持っている。  そう例えば、一人の使用人の人生さえ簡単に捻じ曲げてしまえるほどの。 「…………」  エデニアは密かに箒を握る手を強めた。爪が皮膚に食い込む鈍い痛みが、冷静になるためには必要だった。  ……今はただ目の前の仕事に集中するべきだ。エデニアは心の中で自分に言い聞かせる。今は己の主人が屋敷にいない、一日の中では貴重な時間なのだ。近くにいない時まで、あの男に苛まれるのはごめん被りたかった。 「エデニアさーん! ちょっといいですかー!」 「ええ! いま行く!」  いつの間にか随分遠くに移動していた後輩の呼び声に、エデニアはかけ足で向かった。  ◇  それから庭掃除も終わって、数時間後のことである。  送迎の車から降りてくる主人を、エデニアは無表情で迎えた。笑顔で迎えた時もあったが、「作り笑いはやめろ」と本気で不愉快そうに言われたので止めた。  どうせ無表情で迎えても「愛想のかけらもないな」と嫌味を言われるのだが、そっちの方がマシだとエデニアは個人的に思っている。 「おかえりなさいませ」 「……相変わらず愛想のかけらもない顔だな」 「…………」 「何だよ」 「いえ」  あまりに予想通りすぎて、思わず凝視してしまった。相変わらず面白みのない男である。だからといって、いきなり踊り出すなどされても困るが。 「今日はいつもよりお早いのですね」 「つまらない授業だったから抜けてきた。聞く価値が無かった」 「そうですか」 「おい、そんなことよりこれを持て」  エデニアの返事を聞くより先に、男はグイッと学生鞄を彼女に押し付ける。それは見た目よりも随分と重くて、少しだけエデニアはよろけてしまった。慌てて落とさないように両手で抱えなおす。こんなものをこの男は片手で持っていたのか。 「何が入っているのですか?」 「本だ。とびきり分厚いのを三冊な。着替えるから部屋に行く。そのままついて来い」 「かしこまりました」  男の言葉に頷くと、エデニアはその後ろについた。階段を上がる際には、その高低差から自然と主人の左腕が目に入る。  高等学校の黒い制服の袖に覆われた左腕は特に力を入れるでなく、だらりと垂れていた。袖口から顔を出している左手は、彼女のものより筋張っていて、幾分か大きく見える。を果たしてもいないのに、成長だけはちゃんとするらしい。皮肉なものである。  振り子の如く小さく揺れる男の左腕から逃れるように、エデニアはそっと目を伏せた。  部屋に到着すると、エデニアは彼の鞄を机の脇に置いた。置く時にドスンと響いた鈍い音には流石に驚いた。  本当に三冊しか入っていないのだろうか。エデニアの体感としては十冊くらい入っていてもおかしくない。  男の方に向き直ると、彼は入り口近くの壁にもたれて、こちらを眺めていた。どうやらエデニアが鞄を置いて戻ってくるのを大人しく待っていたらしい。  普段は偉そうなくせに、こういうところは変に律儀な男である。 「よし、着替える。手伝え」 「かしこまりました」  エデニアは男の側に近づいて、その制服の上着のボタンを外してやった。それからシャツのボタンも同じように外してやる。これが、ちまちましていつも地味に難しい。 「……後で、お前に話がある」  エデニアがシャツのボタンに苦戦している最中、ふと、上から男がそう言った。 「何でしょうか?」 「馬鹿か。僕はと言っている! 大事な話だ」 「はあ」  今聞くのはどうもいけないらしい。大事な話なら早く言った方が良いと思うのだが。いまいち要領を得ないまま、エデニアは黙々と作業を続ける。  己の主人の着替えを手伝うとき、エデニアはいつも鳩尾のあたりがキュッとして、なんだか居心地の悪い思いがする。 「……背、伸びましたね」 「……何だよ急に」 「いえ。……昔は同じくらいの身長だったので」 「……四年も経てば伸びるだろう。僕はもう十八だ」 「そうですね。四年も、経ったのですね」  そう言ったエデニアの視線が、男の左手の方に引き寄せられる。その表情は決して過去を懐かしむようなものでなく、後悔と罪の意識に塗れていた。  瞬間、男が勢いよく彼女の顎を鷲掴む。強制的に上を向かされたエデニアと、こちらを見下ろす男の視線がかち合った。その瞳は不愉快そうに細められていているが、どこか悲しげでもあった。 「僕は、僕の左手を見るお前のその顔が嫌いだ」 「…………」 「……だが、お前にそんな顔をさせる自分自身が一番嫌いだ」 「……私も、嫌いです。私自身も、貴方のことも」 「っ、」 「離してください」  エデニアが身を(ねじ)ると、驚くほど簡単に男の右手は離れた。  心臓が刺すように痛いはずなのに、エデニアの頭はどこか冷静で、怖いくらいに落ち着いていた。だから、目の前の彼が傷つくような言葉を彼女が選んだのも、わざとだった。 「着替えはもういい。下がれ」 「……かしこまりました。失礼します、ラルス様」  主人の硬い声に言われるがまま、エデニアは彼の部屋を出た。そのまま背筋をピンと張って真っ直ぐ歩いていたかと思うと、突然、ひとつふたつと涙が頬を伝いはじめる。  いつもそうだ。彼の——ラルスの左手のことになると、エデニアは心と頭がちぐはぐになって、最後には勝手に涙が出てくる。  だがその涙も、昔は止めるのに苦労したのに、最近は四粒ほど流れた後には何事もなかったようにピタリと止まる。  きっといつかは完全に枯れて、彼を傷つけた後でも泣きもしない日が来るのだろうとエデニアは思う。  そうなればきっと、己の中の罪の意識が薄れるような気がした。
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