ただいま、ヴァルプルギス

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五月一日、深夜三時。家々は静まり返り、微かな車の排気音と街灯のほのかな光だけが窓から微かに盛れる中、私は自宅の地下室に向かう階段を降りていた。こつり、こつり、と革靴と石畳が打ち付け合う音だけが木霊する中、小さな蛍光灯だけを頼りに、ゆっくりと進む。少しして目の前に出てきた金属の扉と重厚な錠前に一つ息を吐いた。 ズボンのベルトフープに通したチェーンを辿り、ポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む。ゆっくりと右側に回せば、僅かな音と共に手のひらへ確かな解錠の感触が届いた。今年は手入れをさぼってしまっていたが、問題なく開いたようで何よりだ。 鍵をポケットに仕舞い、重い扉を慎重に押し上げる。蝶番が軋んだ音を立てるが、予想よりも緩やかに開いた扉に、安堵の息が盛れた。 扉の先に広がるのは、四畳ほどの小さな空間と、四隅に付けられた排気口、そして部屋の中央に刻まれた魔法陣に松明置き。毎度のことながら、非常に怪しい光景だと思う。二十一世紀に入って、自宅にこのような部屋を設置する奴は殆どいないのではないだろうか。そう独りごちながら、部屋の片隅に転がしてある丸太と着火剤、オイル式ライターを手に取った。丸太を順に松明置きに差し込み、着火剤を塗りつける。着火剤を元の場所に戻して、何とはなしに丸太の残数を数えた。残りは五本。少々心許ないから、後で補充しておこう。 丸太のことを頭の片端に刻みながら、陣の中央に立つ。オイル式ライターを胸元に掲げ、内蔵された火打石を押した。紅い炎が瞬時に燃え上がる。 「サハト、サハト、我らが集い、我らが宴、始まりと終わり」 目の前の丸太に火を近付ける。ライターの小さな炎はすぐに着火剤へ燃え移り、赤々と部屋を照らし出す。 「サハト、サハト、血脈、流れ、くべるもの」 二本目の丸太に点火する。次の炎は、少しオレンジがかっているように見えた。 「サハト、サハト、魂の地、かつての故郷、いつかの東屋」 三本目の丸太に着火した炎は、どこか白い。それぞれの炎が空間を照らしだし、私を囲む。闇はなく、隙間はない。萌え続ける焔を確認し、ライターの蓋を閉じた。ポケットにライターを入れ、代わりに小さな折りたたみナイフを取り出す。ナイフの刃先で指を刺し、血を少量纏わせれば仕上げは完了。 「サハト、サハト、古の聖地へ我を導け」 ナイフを陣の中央に勢いよく突き立てる。刹那、三本の丸太に灯った焔が大きく膨れ上がり、部屋と陣を舐め上げ、私を取り囲んだ。迫る熱さに瞼を閉じたのは一瞬だけ。奇妙な浮遊感が全身を襲ったのも束の間。火の熱さは消え、春の夜特有の冷たい空気が頬を撫でた。 ナイフを引き抜き、ゆったりと立ち上がる。コートの裾を弄ぶ緩やかな風を感じながら目を開ければ、遠くに見えるのは大きな篝火。 「おかえりなさい、そしてようこそ、ヴァルプルギスへ! 久しぶりだね、お嬢ちゃん」 明るく渋い声で挨拶され、その音が聞こえた方に目をやれば、一年ぶりに見る穏やかな笑みが視界に広がって、自然と口元が緩み出す。 「ただいま、お邪魔します。それから久しぶり、おじさん」 転移用魔法陣の門番をしているオークのおじさんは、纏った鎧を揺らしながら、こちらが潰れるのではと思うほどの抱擁をくれた。 「翻訳は問題ないようで何より。いやー、大きくなったなぁ!」 「そんな歳じゃないよ。あと鎧が痛い!」 「おっと、すまんすまん」 反省しているのかしていないのか、豪快に笑いながら解放してくれたため、ひっそり息をつく。悪い御仁ではないのだが、力加減が絶妙に下手なのだ。 「宴の様子はどう?」 「本番はこれから、ってところだな。今は二十時だから、これからもっと盛り上がるんじゃないか?」 「よかった。時差も大丈夫そう。今年のドレスコードは?」 「今回は‘仮面’だそうだ。お嬢ちゃんのはこれな」 大きな手で差し出されたのは、目元だけを隠す小ぶりな仮面だった。黒地のそれには、右目の下だけ銀のラインが入っており、落ち着いた雰囲気を醸し出している。私はそれを受け取ると手早く身に付け、フードを被った。 「どうかな?」 「バッチリだ! 」 おじさんが半身をずらしてくれたため、お礼を言いながら横を通る。良い夜を、との決まり文句を掛け合って、皆が集う輪の中へ加わるべく、歩を進めた。 一等大きな篝火を囲うように、あちらこちらで歌い、踊り、酒を呑んで肴に舌鼓を打つ。たまに喧嘩や罵りあいも起こるけれど、瞬きの間に仲直り。そうしてまた宴の中へ。それがサハトだ。特にヴァルプルギスの夜は特別で、世界のあちこちから、魔女や魔法使いの家系がわんさとブロッケン山にわんさと集まってくる。この時代、魔法が使える人間は全盛期の四分の一ほどまで減っているそうだが、それでも、この夜だけはいつも変わらぬ騒々しさを保っていた。 右手からケンタウロスの飲み勝負、左手からはラミアの恋話が聞こえてくる。さて、まずはどこに行こうかと迷っていれば、目の前に大きな肉塊が差し出された。それはどうやら串焼きのようで、持ち手を辿っていけば、白地に赤い縁どりの仮面を付けた青年が笑ってこちらを見ていた。 「ヴルストはどうだい? エールもあるよ!」 「じゃあ、一本貰おうかな。ワインはある?」 「それならこっち! 今年のとっておきだよ!」 お次は四十代ぐらいのおばちゃんから声がかかる。ベージュに青と緑の縞模様の仮面が前衛的だ。私は青年からヴルストを受け取り、おばちゃんのところへ近づいた。すぐさま木製のコップが渡される。並々と注がれた濃い紫の液体からは、瑞々しい葡萄の香りが漂っていた。とっておきは伊達じゃない。 ヴルストを一齧りし、みっちり詰まった肉を楽しんでから、溢れた肉汁を流し込むようにワインを含む。芳醇な香りに違わぬ果汁の味とアルコールが喉を通っていくのは心地がいい。 「あー、幸せ。サハトといえばこれなのよねー」 「そんなに美味しいの?」 「いいな、いいな!」 「僕にもちょうだいよ!」 私の独り言に反応したのか、どこからかフェアリーたちがやってくる。垢、黄色、水色。様々な色で粧しこんだ彼らは眺めているだけで楽しいが、放っておくと楽しみを取られてしまいかねない。 「これは私の。君たちにはこっち」 「コンペイトウだ!」 「綺麗!」 「美味しそう!」 だから、サハトに参加する時には甘いものが必須なのだ。これさえあれば、フェアリーに美味しいものを取られる心配はない。ついでに日本製のお菓子だと尚良し。物珍しさに惹かれて、しばらくはこちらを見ないでくれる。 集まってきたフェアリーたちに金平糖を渡し、ヴルストとワインを堪能する。先程よりも参加者が増えたのか、より賑やかさを増しているようだ。遠くからドラゴンの咆哮が聞こえる。いや、ワイバーンか? 生憎と、竜種の区別はつかない。何せこちとら半人前だ。使える魔法は片手の数。薬草知識や動物との接し方、幻想種との触れ合いはそこそこできると自負しているものの、どうしたって優れた魔女とは言えない。 それでも、こうしてサハトに参加できるのは、ひとえに彼ら彼女らが身内に寛大だから。少しでも血が混じっていて、ちょっぴりでも魔法が使えて、ほんの少し薬草に詳しければ、それはもう魔女なのだ。 「腹ごしらえは済んだかい? そろそろ踊りに行こうじゃないか!」 グレーの下地に色とりどりのラメを散りばめた仮面を付けたおばあちゃんが私の腕を引く。ここの御年寄は若者より元気だ。私は近くにいたフクロウにコップを渡し、案内されるがまま篝火の近くへと向かった。 そこには使い魔と手を繋ぐ人、酒瓶を振り回す人、何かの骨で太鼓を叩く人、流線型の笛を吹く人。挙句の果てには飛び跳ねながら篝火を飛び越える人までいた。音楽はない。リズムもルールもない。ただ自分の好きなように踊っているだけなのに、何故だか不思議と一つの音楽になっている。 私の腕を引いてきたおばあちゃんは、知り合いと思われる半鳥人に声をかけると、二人でワルツのステップを踏み始めた。時に早く、時に遅く。それでも輪を乱さないのだから流石だ。私は二人の周りを回りながら、他の人の動きに合わせて手拍子をする。たまに地面を踏み鳴らし、その場で回って、誰かの尻尾を飛び越える。あれは確かライオンだったかな。 入っては抜けて、抜けては入って。目の前に来た誰かの手を高らかに上げて、後ろにいる誰かの肩を借りて飛び跳ねる。あぁ、でたらめだ。皆が笑って、皆がはしゃぐ。 一際大きな歓声が上がったと想えば、誰かが篝火の上で三回転半を決めたらしい。今年は大技を持ち込んできたようだ。やるなぁ。 踊り疲れたら輪から抜け、近くに居たドワーフのおじさんからウイスキーを一つ貰う。ここで人間用と言わないと、一口飲んだだけであの世に行ける度数のウイスキーが出てくるので要注意だ。ついでにナッツも少し頂いて、目に付いた切り株に腰を下ろした。 「やぁ、楽しんでる?」 「もちろん!」 通りすがりのサラマンダーが火を吹きながら尋ねてきたので、グラスを掲げて応える。そんな私たちの間を、誰かの影が通っていった。虹色を待とうそれは、持ち主よりも楽しそうで、こちらの頬も緩むというもの。 春はもうすぐ。サハトはまだまだ続きそうだ。
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