sideA わたしと彼女の未来のない関係

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sideA わたしと彼女の未来のない関係

「最川(さいかわ)さん? もしかして気持ち悪い?」  隣の席に座っている会社の先輩・満永(みつなが)和葉(かずは)がわたしの肩に手を置いて心配そうに顔を覗き込んだ。 「あ、大丈夫です」  わたしはスマホを鞄の中に押し込んで笑顔を浮かべる。  今日は年に一度の社員旅行だ。  多くの社員が積極的に参加するが強制参加ではない。  わたしはこうした集まりがあまり得意ではないので、昨年は参加しなかった。  それなのに今年は参加しているのには二つの理由があった。  ひとつ目の理由は、隣に座っている満永先輩が幹事を務めていたからだ。  先輩はわたしが入社したときからずっと面倒を見てくれている。その先輩から笑顔で「行くよね?」と聞かれたら「はい」以外の答えなどあるはずがない。  先輩はわたしにイチから仕事を教えて、ミスをフォローしてもらい、何かと気に掛けてもらってきた。  入社して三年になるが、未だにそれらの恩を返せているとは思えない。こうして社員旅行に参加することでいくばくかの恩返しになるのならば安いものだ。  ふたつ目の理由は、恋人―飯塚(いいづか)亜希奈(あきな)と少し離れて息を付きたかったということだ。  さっき見ていたスマホには、アキからのメッセージが大量に入っていた。今日から一泊で社員旅行に行くことは伝えてある。それでも、こうしてしつこいほどに連絡を入れる。  それなのに自分が忙しいときには、わたしからの連絡を完全に無視する。  こうしたアキの態度に振り回されることに、すこしうんざりしていた。  貸し切りバスに社員を詰め込んで、いくつか観光地をまわり、間もなく宿泊する温泉旅館に到着する。  旅館に着いたら取り敢えずアキに電話を入れた方がいいだろう。無視し続けてもアキを苛立たせるだけだ。 「お水でも飲む? 冷えたやつがあるよ?」  先輩は足元に置かれたクーラーボックスからミネラルウォーターを取り出しす。  わたしはそれをありがたく受け取ってひと口飲んだ。 「おーい、ビールもうないの?」  後部席から、すでにかなり出来上がった男性社員の声がする。 「はーい、回すねー」  先輩はクーラーボックスから缶ビールを取り出し、後ろの席に回す。 「幹事って大変ですね」 「もうすぐ最川さんも幹事になるからねー。覚悟しておきなよ」  先輩は悪代官のような笑みを浮かべて言う。  そしてバスの中を見渡して表情を緩めた。 「でも、みんなが楽しんでくれているみたいでよかった。最川さんも楽しんでね?」 「もう充分に楽しんでますよ」  わたしも笑顔で先輩の言葉に答える。 「あ、お水、ひと口もらっていい?」  わたしがひと口飲んだまま手に持っていたペットボトルを見て先輩が言う。 「あ、はいどうぞ」  ペットボトルを差し出すと、先輩は躊躇なくわたしの飲み掛けのペットボトルに口を付けて水を流し込む。  間接キスだ、なんてキャッキャいうような年ではないけれど、少しだけ気恥ずかしい気持ちになってしまう。  そしてペットボトルに触れるやわらかそうな唇や水を飲み込むたびに動く白い喉を思わず凝視してしまう。 「あ、ごめん、私、飲み過ぎた?」  かなり喉が渇いていたのか、水はかなりの量が減っている。 「あ、いえいえ。全部飲んじゃってもいいですよ」  そう答えながらも、わたしは先輩の唇から目が離せない。 「どうかした?」  先輩の声にハッと我に返った。 「あ、いえ。そんなに喉が渇いてたなら、新しいのを開ければよかったのに」 「そうだよね。自分でもこんなに喉が渇いてたって気付かなかったからびっくりしてる」  先輩はクスクス笑いながら、また水を飲んだ。  旅館に着くと、部屋の割り振りが発表された。男女に別れて約六名ずつだったが、人数の都合上、私と先輩だけ二人部屋をあてられた。 「幹事の私の後輩なのが運の尽きだね」  先輩はそう言って笑ったが、私はむしろ歓迎した。先輩と話すのは楽しい。だけど、そんなことは口にしない。 「わたし、どこかの部屋に混ぜてもらってもいいですよ。先輩は[[r織部(おりべ)さんと一緒がいいんじゃないですか?」 「旅行に来てまで一緒とか嫌だよー」  先輩はカラカラと笑った。  織部仁志(ひとし)は同じ会社に勤める先輩の恋人だ。二人が付き合っていることは、社内のほとんどが知っている。間もなく結婚するのではないかという噂もある。 「でも、わたしが織部さんに恨まれるんじゃないですか?」 「男衆は、男衆で馬鹿な話で盛り上がるんだろうから放っておいていいのよ」  先輩はそう言うと荷物を持って部屋に移動を始めたので、私もその後に続いた。 「ちょっと電話してきますね」  部屋に荷物を置き、お茶を飲んでくつろいでいる先輩に私は声を掛ける。 「別にここでしてもいいよ?」 「あ、いや、ちょっと……」  アキとの電話を先輩には聞かれたくない。 「もしかして、彼氏?」 「まあ、そんなところです」 「じゃあ、待ってるから、電話が終わったら一緒にお風呂に行きましょう」 「あー、はい」  先輩とのお風呂はちょっと緊張しそうだけど、じっくり見なければ大丈夫か。そんなことを考えながらわたしは中庭に向かった。  電話を掛けると、ワンコールでアキの声が聞こえてきた。  第一声が「遅い」だったことに、少々苛立ちを覚える。  そこから一方的に私を責める言葉が続いた。メッセージの一本も返せないのかからはじまり、日々の不満へと話題が変わっていく。  その話は、旅行中の今聞かなければいけないことなのだろうか。  わたしたちの関係はもう破綻しかけている。そろそろ潮時なのかもしれない。  アキは大学の同級生で仲の良い友人だった。わたしはアキに惹かれていったが、友人関係を壊すのが嫌で、ずっと想いを打ち明けずにいた。  大学四年、もうすぐ卒業という時期に、わたしはアキに想いを打ち明けた。  大学を出てお互い就職する。もし想いが実らなくても、顔を合わせずに済むからだ。わたしはアキが受け入れてくれるとは思っていなかった。  ところが、予想に反してアキはわたしの気持ちに応えてくれた。  卒業するまでのわずかな時間をできるだけ一緒に過ごし、就職してからも無理にでも時間を作って会うようにしていた。  だが、それがいけなかったのだ。  就職して、慣れない環境の中でアキもわたしも無理をしていた。無理は次第に綻びを作っていくようになったのだ。  アキの勤めた会社が、あまり人間関係が良くなかったせいもあるかもしれない。わたしが仕事で楽しかったことを話すと、あからさまに不機嫌になることもあった。 わたしが仕事に慣れ、気持ちに余裕ができたころ、アキは会社を辞めて転職した。  新しい会社は、前ほど環境は悪くないようだったが、新しい仕事に早く慣れようとしていたせいか、いつも苛立っていた。  わたしから連絡をしても忙しいと言われ、連絡をしないと放っておくなと怒られる。  アキは、わたしがアキに告白をしたのだから、わたしが責任を負わなければいけないと考えている節がある。だから、自分がどれだけわがままを言っても許されると思っているのだ。  さすがにもう疲れてしまった。  なんとかアキをなだめて電話を切ったときには、三十分以上が経っていた。  先輩はまだ待っているだろうか。  部屋に戻ると先輩は浴衣に着替えていた。もしかして、もうお風呂に行ったのだろうか。 「遅くなってすみません」 「いいよ。私もこの後の段取りとかでバタバタしてて、ようやく戻ってきたところだから」  先輩の笑顔に、アキとの電話でささくれ立った気持ちがほぐれていく。 「んじゃ、お風呂にいきましょうか。もうすぐ食事の時間だし、急ぎましょう」 「はい」  私と先輩は連れ立ってお風呂に向かった。  広いお風呂は気持ちいい。ゆったりとお風呂に浸かると心がほぐれていく。  そういえば、就職してから、アキとはこうしてゆっくり旅行をしたこともなかった。こうして温泉に浸かって、ちゃんと話をすれば、また昔のように仲良くなれるだろうか。 「お、表情が柔らかくなったね」  わたしの隣で湯舟に浸かる先輩が言った。  わたしは先輩の方を見ないようにして膝を抱えた。 「さっき、すごく暗い顔してたから。彼氏と喧嘩でもしたの?」 「ああ、まあ、ちょっと」  わたしは曖昧に答える。彼氏ではなく彼女だ、と答えたら、先輩はこうして私と一緒に湯舟に浸かってくれるのだろうか。 「先輩は円満そうでいいですね」  わたしのことをあまり追求されないように先輩に話を振る。 「まあ、ボチボチかな」 「先輩たちはいつから付き合ってるんですか?」 「えーっと、最川さんが入社する少し前くらいかな」 「じゃあ、もう三年目ですか。円満の秘訣を教えてくださいよ」  わたしが言うと、突然先輩が「あっ」と言って立ち上がった。  いきなり過ぎて、目をそらすこともできない。  想像していたよりも豊かなバストラインに思わず目が釘付けになってしまう。 「そろそろ行かないと食事の時間だよ」  そうして先輩はわたしの手を取った。  お風呂は入っているときよりも、服を脱ぐときと、着るときの方が恥ずかしい。 「先輩、浴衣を着なきゃだめですかね?」 「別に浴衣でなくてもいいけど」  すでにしっかりと浴衣を着終えている先輩の横で、私は下着姿のままだった。どうも浴衣をうまく着ることができない。  先輩はクスッとわらうと、「ちょっといい?」と私に着付けをしてくれた。  先輩の手がわたしの体に触れ、息がかかるほど近くに先輩の顔がある。これはまずい。わたしは上を向いて目を閉じる。 「はい、できたよ」 「ありがとうございます」 「これくらいはお安い御用ですよ」  先輩はニッコリ笑った。  宴会場には、すでにほとんどの社員が集まっていた。  先輩は前に立ち乾杯の音頭をとる。  それから料理に舌鼓を打ったり、お酒を飲んだり、歓談したり、カラオケをしたりと賑やかな夕食が始まった。  わたしも食事をしながら近くの席の人たちと歓談を楽しんでいた。  横目で先輩の姿を探すと、織部さんの隣に座って何やら話し込んでいる。  こうして見ると、本当に似合いの二人だ。  ふと、アキのことを思い出す。  戻ったらアキを旅行に誘ってみよう。それでもダメなら、けじめをつけた方がいい。  二時間ほどが経過して締めのあいさつがあった。そこからは、各部屋で呑む人や、外に散策に行く人など各自が自由に行動する。わたしは、誰かに誘われる前にそっと部屋に戻った。  おそらく先輩は織部さんと二人で呑みにでも行くだろう。しばらくは一人でゆっくりできるはずだ。  わたしはスマホを部屋に置きっぱなしだったことを思い出して画面を見る。  アキからの着信履歴やメッセージが並んでいた。何がそんなにアキを不安にさせるのだろうか。  わたしは、アキにメッセージを送る。「宴会で連絡できなくてゴメン」「今度、二人で温泉旅行に行かない?」だが、どれだけ待っても既読にもならない。  わたしはスマホを机の上に置き深いため息をつく。 「あ、ここにいたんだ」  酔っているのか、顔を赤くした先輩が部屋に戻ってきた。 「探してもいないからどこに行ったのかと思ったよー」 「織部さんはいいですか?」 「ああ、男どもで外に呑みに行ったよ。いけない遊びでもするんじゃないかなー」  先輩はニコニコ笑って言う。  いけない遊びって、それは先輩的にはいいのだろうか。  先輩の足は少しふらついている。かなり飲んだのだろう。 「すぐ布団を敷くのでちょっと待っててください」  わたしは立ち上がり、押し入れから布団を取り出す。  今回の旅行では、格安にしてもらう代わりに、布団を敷くなどは自分たちで行うことになっていた。  布団を敷き終えると、先輩は待ってましたと言わんばかりに布団にダイブする。  わたしは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、ふたを開けて先輩に渡す。 「先輩、お水ですよ」  こうしてわたしが先輩の世話を焼くというのは、なんだか不思議な感じがする。いつもは先輩がわたしの世話を焼いてくれている。なんだか新鮮で楽しい。 「ありがとー」  先輩はペットボトルを受け取ってグビグビと飲むが、半分ほどが口からこぼれていた。  わたしは慌ててタオルを取りに行き、濡れてしまった先輩の胸元を拭いた。  すると、先輩がわたしの腕をガシっと掴む。  胸元を拭くのはさすがにまずかったか。そう思って先輩の顔を見る。 「教えてあげようか?」  先輩が言う。わたしは首を傾げた。 「聞いたでしょう? 円満の秘訣」  その言葉を聞いて、お風呂で先輩と織部さんの円満の秘訣を尋ねたことを思い出した。 「ああ、はい。教えてください」  わたしが答えると、先輩はわたしを突き飛ばして布団に押し倒した。そして、わたしの唇に自分の唇を押しあてた。 「ちょ、先輩?」  わたしは抵抗しようとしたが、思った以上に先輩は力強く私を押さえつけていた。とはいえ、同じ女性だ。全力で抵抗すれば押しのけることはできるだろう。だが、先輩に怪我をさせたくない。  先輩は執拗に私にキスをする。何度も唇を吸い、舌を這わせる。  わたしはいつの間にか抵抗する気がなくなっていた。  わたしの力が抜けたのを察したのか、先輩は体を離して自分の浴衣をほどいて下着まで外してしまう。  白い肌と豊かな胸が露になった。その姿に目を奪われながらも、微かに残った理性で先輩に問いかける。 「先輩、どうしたんですか。こんなこと」  先輩は、会社では見たことのない妖艶な笑みを浮かべた。 「だって、円満の秘訣を知りたいって言ったじゃない」 「これが答えですか?」 「大事なことでしょう? それに、女同士のセックスに興味があったんだよね。最川さんは、女同士でしたことある?」  もちろんあるが、わたしは答えない。  先輩はわたしの帯に手を掛けてほどいていく。 「織部さんがいるのに、いいんですか?」 「女同士はノーカンよ。誰にも分らないわ」  そう言いながら、先輩はさらけ出されたわたしの胸に顔うずめた。  先輩の言葉が胸に刺さった。  こうして肌を重ねたことも、明日になればなかったことになる。  月曜になれば、またいつものように先輩と後輩として仕事をする。  こんな悲しいことがあるだろうか。  それなのに、先輩の肌のぬくもりに、汗に、吐息に、声に、香りに、わたしは興奮していた。  わたしはずっと、先輩とこうなることを望んでいたのかもしれない。  全身を走る快感と興奮を、もう抑えることはできなかった。  わたしの上に馬乗りになって、わたしの体に、手を、舌をすべらせる先輩の動きに、戸惑いがあるように感じる。心のどこかに抵抗感があるのかもしれない。  わたしは体を半回転させて先輩を組み敷く。  夜が明けて、このひとときが無かったことにされるのならば、せめて今だけは、先輩のすべてを支配したい。  立場が変わり、先輩は少しだけ驚いたように目を大きくしたが、すぐに妖艶な笑みを取り戻して私の首に腕を回す。  先輩のやわらかな唇、鎖骨のかたさ、なめらかな腕、弾力のある乳房。指先から感じる先輩のすべてがわたしの脳をしびれさせる。  一瞬、アキの姿が脳裏に浮かんだ。  アキは、わたしが考えないようにしてきた想いに気付いていたのかもしれない。  だけどアキが不安に思うことなんてない。  だって……、わたしと先輩の関係には、未来なんてないのだから……。
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