深夜に、遠い記憶を追って。

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深夜に、遠い記憶を追って。

 僕の姉は、夢想家という言葉が似合うひとで、幼い頃から非日常的なものを愛していた。その反動からか、あるいはまったく別の理由なのかは、僕自身、よく分かっていないけれど、僕はあまり幻想的なもの、非日常的なものが好きではなかった。幽霊や化け物の類はまったく信じていなかったし、怖い、と思うこともほとんどなかった。  とは言っても、自分の意見を強く発信するようなタイプでもなかったので、現実的ではないものを信じているひとを見掛けたとしても、頭ごなしに否定するわけでもない。  姉は、オカルト番組が好きだった。そのくせ怖がりなので、夜中、お風呂やトイレに行けなくなっていた記憶がある。本当にちいさい時の話なので、姉としても蒸し返されるのは、きっと嫌だろう。  家に帰ると、両親と姉が迎えてくれた。だいぶ会わずにいた時期が長いので、もしかしたら怒られたり、嫌な顔をされたり、みたいなことがあるかもしれない、とそんな不安もあったけれど、実際の心の中までは分からないが、すくなくとも表情としては喜びを浮かべてくれた。  二階にある、かつて使っていた自分の部屋に踏み入れる時、数年ぶりだからか、すこしだけ緊張感があった。もう誰かのための場所ではなくなり、物が動かされることもなく、そこに残ったままだ。本棚に並ぶ本の位置さえも。他は大雑把でも、僕は本棚に関しては、几帳面なところがあったから、配置もしっかりと覚えている。僕は学習机の椅子の上に、荷物を置いた。 「どうしたの、(しゅん)? 私の顔をじっと見て? 久し振りに見た、私の美貌にやられた?」  いまはリビングの中央にあるテーブルを挟んで、姉と向かい合っている。  そこまで意識して、姉を見つめていたわけではないけれど、確かに僕は姉の顔をずっと見ていた。姉は綺麗だ。決して自意識過剰な言葉ではない。ただもちろん見惚れていたわけではなかった。  長く一緒に暮らしていれば、血の繋がりのある相手に恋愛感情を抱くひともいるかもしれないが、すくなくともその中に僕は含まれない。  大人になった自分たちに、かつて子どもだった自分たちに、想いを馳せながら、僕は不思議な気持ちになっていた。  ここではないどこかへの憧れ。  すべてのひとがそうだと一般論にする気はないけれど、多くのひとは十代のうちにすくなくとも一度は、いまの自分のいる場所に対して違和感を覚え、未知なる世界に憧れを持つんじゃないだろうか。  姉ほどではなかったけれど、僕も例外ではなく、多少はそういう感情を抱いていた。その一方で、僕はこの場所で一生を終えるのではないか、と漠然と考えていた。僕は新しいことに、一歩踏み出せないまま、ためらってばかりの性格だったからだ。  僕と違って、姉は好奇心が強く、行動的な人間だった。  だから変な感じがする。幼い頃に描いていた姉弟ふたりの未来が、まるで逆転してしまっている、この状況に。 「何、言ってるんだよ。実の弟に」 「何年も会ってない家族は、他人みたいなもんよ」 「十年くらい空いているなら分かるけど、たった二、三年で、大袈裟な。彼氏にこんなの聞かれたら、怒られるよ」 「そんなことで何も言わないよ。たぶん、ただ笑うだけ」 「なんか想像できるかも……」  やがて結婚するだろう姉の彼氏とは、高校を卒業する前に、何度か会ったことがある。確かにあのひとなら、そんな反応をしそうだ。 「……でも、もう戻ってこないんじゃないか、ってちょっと思ってたんだけど、ね。前に電話した時、そんなこと言ってなかった? 私、これでも勘は鋭いんだから。戻りたくないのは、こっちで何かあったからでしょ」  後半の言葉は、両親に間違っても聞かれないように、声を潜めていた。 「うん……、まぁ」 「別にお父さんやお母さんと喧嘩したわけじゃないんでしょ」 「もちろん。違うよ。全然、別件」  大学に合格して、岐阜を離れることが決まった時、僕はほっとしていた。はやくこの場所から逃げ出したい、と願っていたからだ。その想いに家族は関係ないけれど、だからと言って、気軽に相談できるような話でもなかった。 「そっか、じゃあ。いいよ。深く理由は聞かない」 「いいの?」 「誰にだって、言いたくないこと、ひとつやふたつ、あるよ。私にだって」姉が冗談めかしたように笑う。「もちろん言わないけどね」 「ありがとう……」  直接言うのは照れくさくて、僕は目をそらして、そう答えた。その先にはテレビの画面がある。偶然流れていたのは、バラエティ番組の特番で、心霊特集が行われていた。心霊に詳しい、と紹介されているコメンテーターの中に見覚えのある顔があった。それは知り合い、という意味ではない。その男性は、心霊スポットに単身赴く内容が人気の動画配信者で、僕も何度かその動画を見たことがあった。  霊感があることを自称していたけれど、僕はあまり信用していない。 「幽霊ねぇ」  と姉が興味なさそうにつぶやく。 「姉ちゃん、このひと知ってる?」  テレビ画面に映る、件の動画配信者の顔を指差す。 「顔は知ってるよ」 「あんまり興味なさそうだね。むかしは幽霊とかこういうの、大好きだったのに」 「確かに、そうだね。いまも別に嫌いじゃないよ。でも前ほどは興味、持てないかな。だって視えないからね。子どもの時は、視えてなくても、いる、って信じられたけど、大人になるにつれて、視えないのは、いないのと同じなんだな、って考えるようになってきて。まぁ成長したんだな、って思えば、感慨深くも、寂しくもあるんだけど。俊だって、そうでしょ。むかし、似たようなこと、よく言ってたよね」 「そう……だね」  視えなければ、それはいないのと同じだ。  僕も、そう思う。  本当に。  深夜、ハンドライトを持って、僕は外に出た。両親や姉を足音で起こしてしまわないよう、特に階段をおりる時やドアの開け閉めの時には、気を遣いながら。夜の外出に、ちょっと申し訳なさを覚えてしまう。ひとり暮らしをはじめてから、そんな感情になることも、ほとんどなかったので、変な気分だ。  雨はもう降っていなくて、冷たい、というほどではないが、涼しい風が吹いている。ただ傘は持っていくことにした。  過去の想い出をたどっていくように、僕は歩を進める。  目的地は歩いて二十分くらいだろうか。そこまで遠いわけではないが、近すぎる距離でもない。すこし悩んだけれど、どうしても行きたくなってしまったのだ。  夜闇が包む懐かしい景色は、僕をすこしの間、少年にした……、とまでは言わないが、幼かった頃の色々な出来事が頭の中によみがえってくる。  楽しい想い出もあったし、つらい想い出もあった。もう一度体験したい過去もあれば、記憶の底から葬り去ってしまいたい過去もある。  たとえば彼女との過去を回想するとして、どこからはじめるのが、適切なのだろうか。  目指す場所までの道のりの中に、むかし僕の過ごした、学び舎がある。  その小学校の面積は子どもの頃と、何ひとつ変わっていないのに、何故だかあの時よりも、広く、大きく見える。それは学校そのものが変化したわけではなく、成長によって広がった僕の視野が、目に入る景色によって感じる心を変えたのかもしれない。いやもちろん、当時よりも外壁は色褪せて、時間の経過は感じるが、そういう話ではない。  真夜中の小学校はどこか幻想的だ。幼い頃にはあまり見ることができないから、だろうか。懐かしい建物にぼんやりと目を向けていると、言葉がよみがえってくる。  友達に、なってくれませんか?  かつて同い年だった彼女の言葉には、こちらにまで伝わってくるような緊張があった。はじめて会った時の印象までは、さすがに覚えていない。すこし仲良くなり、話すようになった頃の彼女の印象は、いまもしっかりと残っている。静かで、どこか大人びた雰囲気だ、と思った。  当時はそんな言葉も知らないが、聡明、なんて言葉が似合うような少女だった。たぶんそれは僕だけではない、クラスメートの多くがそう感じていたはずだ。その感情が距離をつくり、もしかしたら周囲からひとり孤立させてしまっていたのかもしれない。  友達。  それは小学生くらいの年齢であれば、気軽に飛び交う言葉なのかもしれないけれど、誰もが気軽に使える言葉ではないはずだ。友達に、なってくれませんか。彼女の言葉は、震えて僕の耳に届いた。  うん。やっぱり、ここからだろう。  小学校四年生の時だ。同じクラスになった僕と彼女が、話すようになり、そして友達と呼べる関係になったのは。客観的に振り返ってみたとしても、それほど劇的なものではなく、ありふれた、日常の一幕を切り取った程度のものかもしれないが、僕たちのそれ以降に起こった出来事について考える上で、この時期の僕たちを無視することはできない。  ゆっくりと歩きながら、僕は思い出していた。  遠い日の、彼女との記憶を。  春に生まれた彼女は、その季節にちなんで、葉瑠、と名付けられた。  あの頃の僕と彼女はまだ、友達、と呼ぶような間柄だった。じゃあそれから僕と彼女の関係が、別の何かに変わったか、というと、実のところ分からない。僕が答えを出せずにいるからだ。
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