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身内だけの場では、打ち解けた
やや粗い言葉遣いをする伯父だが、
昨日は、ほんの少し声音が固かった。
何度も何度も練習した台詞を
噛み砕いて言う未熟な俳優のように。
『今、この場にいる3人
奏佑の家族としての、
俺たち3人だけの話で
内密にしておいてほしい話だが』
伯父は、母と眼差しを送り合う。
『本人の望む道を進ませてやりたい。
アイツが音楽の道で
身を立てていく気があるなら、
このままウィーンで暮らせばいいし。
どこかの楽団に引き取ってもらえるなら
ヨーロッパだろうが、アメリカだろうが
好きにしたらいい』
『海外のオケで常任指揮者になったら
幣原ホールで凱旋コンサートを
させたいって、気の早いこと
言ってたわよね、兄さん』
『…“幣原” ブランドの宣伝には
もってこいだろ』
『親馬鹿なだけよ、兄さんは』
拗ねたような伯父の言葉に
うららかに揶揄う母の声。
美咲は、今すぐにでも
スマホを操作して
伯父の言葉を
奏佑に伝えたくなった。
今の今まで、図りかねていた伯父の本心。
奏佑に、後継者としての役割を
果たせと言ってくるのか、否か
ウィーンへの留学も
指揮者になりたいという彼の夢を
現実的に応援しているのか
いずれは瀟酒な鳥籠に
閉じ込められてしまうのだから
わずかの間でも好きなことをさせて
おいてやろうという尊大な慈悲なのか
わからなかった。
今わかった。何もなかった。
不安も恐れも、何もいらなかった。
希望と互いを信じる心さえ
確かにあれば
それで十分だったのだ。
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