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4.私にしかできないこと
トイレの個室に私がいるとも知らず、坂野と鈴木は大きな声で会話している。酔っているのもあるのかもしれない。
(坂野、あの女……)
私は血が出そうなぐらい強く唇を嚙んだ。そう、確かに彼女の言うとおり。今の私には夫も子供もいない。小さな会社で事務のパートをして何とかひとりで生活している。でもそんな現状を同窓会で晒すなんて真っ平だった。もちろん今更アイドルやってますなんて言っても通用しないのはわかっていたから平凡でも幸せな主婦を演じようした。それはとてもうまくいっていたと思う。なのに……。
(あの女、全部知ってた癖に適当に話を合わせて腹の中で嗤ってたんだ。しかも……あの写真)
あいつが彼氏だと言って見せていた写真。あれを見た瞬間、叫び声をあげそうになった。だってあれは……。
――私の彼氏だ。
夫と子供がいるっていうのだって丸っきりウソというわけじゃない。少し未来を先取りして話しただけだ。近い将来、私は彼と結婚して子供を産み幸せな生活を送ることになっている。そう決まってるんだ。目を閉じて彼との出会いをうっとりと思い出す。あれは半年程前の通勤電車での出来事。扉に鞄が挟まってしまい困っているところを彼に助けてもらった。車内で度々見かける彼のことを素敵だな、と思っていた私は勇気を出して「何かお礼を」と言ったのだが彼はにっこり笑って「いえいえ」と首を横に振った。ちょっと残念だったけれど女性に声をかけられてガツガツと食いつくような男よりはよほどいい。それ以来電車で一緒になると軽く会釈し合うような仲になった。彼が私に好意を持っているのは確実だ。きっと声をかけるタイミングを計っているに違いない。だって何とも思っていないような相手にあんな微笑みを返すはずがない。私は坂野と鈴木がトイレから出て行ったからもしばらく個室で考え続けた。さっきあの女は何て言ってた? 結婚したらこっちのもの、ですって? そうだ、やっぱり彼はあの女に騙されてるんだ。あんな性悪女のことを好きになるはずなんてない。彼は騙されてあの女のことを好きだと思い込まされてるんだ。
――助けなきゃ。
突然閃いたその考えに私はぎゅっと拳を握る。あの女の頭の中身を彼に知らせ彼の目を覚まさせるんだ。私は急いで個室から出て坂野の姿を捜した。
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