少年が青年と二人暮らしを始めるお話

4/11
前へ
/11ページ
次へ
---------- いつも、父さんが僕にしてくれたように、男の大きな体と太い腕が、僕を包んでいる。 汗のにおいと……転んだ時のだろうか、土と、草のにおいもする。 着替えたばかりのシャツからは、ふんわりとお日様の匂い。 それは、広い大地に寝転んだ時のように、僕の気持ちを落ち着かせてくれた。 「……あったかい……」 さっきまで、あれほど閉じる事をためらっていた瞼が自然と落ちてくる。 「お前の方が、ずっとぽかぽかしてるよ」 少しだけ間をおいて、帰ってきたおじさんの声は 僕が思っていたよりずっと優しい囁き声だった。 僕よりゆっくりリズムを刻む心臓の音が、とても心地良い……。 ほんの少し前まで、手を伸ばせばいつでも手に入ったはずのぬくもり。 もう、手の届かない遠いところへ行ってしまったはずの温かさが、今、ここに戻ってきたみたいだ……。 ううん、もしかしたら、本当は、僕が悪い夢を見ていただけかもしれない。 この瞼を開けたら、目の前に居るのはお父さんで、その横に居るのはお母さんで、僕は家に居て……。 そんなことを考えながら、僕はおじさんに抱き付いたまま眠ってしまったのだろうか。 次に僕が目を開いたら、夜はとっくに明けていて、ベッドには僕1人だった。 まだ閉じられたままのカーテンからは、明るい光が差し込んでいる。 ……僕のために、閉じてあったのかな、このカーテン……。 そうっとそれを開けると、眩しい光に目がくらむ。 太陽に焼かれた目をぎゅっと凝らして、室内を見渡すと、そこは僕の家でもなくて、けど老夫婦の家でもなかった。 昨夜、初めて訪れた、男の部屋だったことを思い出す。 ええと……。そうだ。僕、お仕事に行かないといけないんだ。 いつもよりずっとぐっすり休んだらしい僕の頭は いつもよりずっとのんびり動いているみたいだ。 こんなことじゃ遅刻しちゃう。 今まで、学校にも遅刻した事無かったのに。 ええと、今何時なんだろう……。 枕元に畳んでおいた着替えに袖を通していると、ふわりと鼻先を甘い匂いが掠める。 なんだろう? なんだか懐かしい匂いだ……。 小さなボタンを止める手を休めないように気をつけつつ、回らない頭で記憶を辿ると、黄色くてふわふわした物が思い浮かんだ。 ああ、そうだ。お母さんがお弁当によく入れていた、甘い玉子焼きの匂いだ……。 匂いにつられるように階段をおりると、昨夜夕食を食べたダイニングキッチンから、男がひょいと顔を出した。 「おお、起きたか、ちょうどいいな」 ちょうど今、起こしに行こうかと思ったんだ。と笑いながら男が言う。 黙っているとなんだか怖そうにも見えるこの男は 笑うと途端に人懐こい雰囲気になる。 ずっと笑っててくれたらいいのにな……。 そんなことを考えながら男の脇を通ると、石鹸の香りがした。 ……朝からシャワーでも浴びたのかな。 そういえば、昨日はとっても汗をかいてたみたいだったよね。 石鹸の香りはいい匂いだったけれど、なんだか現実的過ぎて、昨日のあの匂いや、あの温かさが、急に全部夢だったような、そんな気にさせられて……。 酷くがっかりした気分で、おじさんの示してくれた椅子に黙って座る。 もう一度だけ、ぎゅってして欲しかったな……。 うっかりそんな事を思ってしまって、慌てて首を振る。 「どうした?」 そんな僕を不審に思ったのか、僕の前にお皿を並べながら、おじさんが不思議そうに声をかけてきた。 もし僕が今、抱きしめてって、お願いしたら、このおじさんは僕をもう一度抱きしめてくれるのかな……。 黒い髪とお揃いの黒い瞳が、なんだか心配そうに僕を見ている。 反射的に込み上げてきた、甘えたくてたまらない衝動を必死で抑えながら「なんでもないです」とだけ答えると、慌てて視線を逸らした。 小さい頃から可愛がってくれた、近所の老夫婦にも言えなかったことを、昨日初めて会ったばかりのおじさんに言うなんておかしい。 なのに、ぽろっと、そんな事を言いそうになる自分が、情けないやら恥ずかしいやら悲しいやら、よくわからない気持ちで胸が一杯になって、なぜか顔が耳まで熱くなった。 僕は、なんだか……。 僕は、なんだか、昨日からおかしい。 色々あって、疲れてるのかな……。 「嫌いな物とかあったら、遠慮なく言えよ」 僕の返事に、おじさんはちょっと困った顔で笑いながら、僕の頭をぐりぐりと撫でてくれた。 それがたまらなく嬉しくて、泣きそうになる。 おじさんが朝ごはんに作ってくれたスクランブルエッグは、形こそお母さんの玉子焼きとは全然違ったけれど、お母さんのと同じくらい甘くて、優しい味がした。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加