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いつも、父さんが僕にしてくれたように、男の大きな体と太い腕が、僕を包んでいる。
汗のにおいと……転んだ時のだろうか、土と、草のにおいもする。
着替えたばかりのシャツからは、ふんわりとお日様の匂い。
それは、広い大地に寝転んだ時のように、僕の気持ちを落ち着かせてくれた。
「……あったかい……」
さっきまで、あれほど閉じる事をためらっていた瞼が自然と落ちてくる。
「お前の方が、ずっとぽかぽかしてるよ」
少しだけ間をおいて、帰ってきたおじさんの声は
僕が思っていたよりずっと優しい囁き声だった。
僕よりゆっくりリズムを刻む心臓の音が、とても心地良い……。
ほんの少し前まで、手を伸ばせばいつでも手に入ったはずのぬくもり。
もう、手の届かない遠いところへ行ってしまったはずの温かさが、今、ここに戻ってきたみたいだ……。
ううん、もしかしたら、本当は、僕が悪い夢を見ていただけかもしれない。
この瞼を開けたら、目の前に居るのはお父さんで、その横に居るのはお母さんで、僕は家に居て……。
そんなことを考えながら、僕はおじさんに抱き付いたまま眠ってしまったのだろうか。
次に僕が目を開いたら、夜はとっくに明けていて、ベッドには僕1人だった。
まだ閉じられたままのカーテンからは、明るい光が差し込んでいる。
……僕のために、閉じてあったのかな、このカーテン……。
そうっとそれを開けると、眩しい光に目がくらむ。
太陽に焼かれた目をぎゅっと凝らして、室内を見渡すと、そこは僕の家でもなくて、けど老夫婦の家でもなかった。
昨夜、初めて訪れた、男の部屋だったことを思い出す。
ええと……。そうだ。僕、お仕事に行かないといけないんだ。
いつもよりずっとぐっすり休んだらしい僕の頭は
いつもよりずっとのんびり動いているみたいだ。
こんなことじゃ遅刻しちゃう。
今まで、学校にも遅刻した事無かったのに。
ええと、今何時なんだろう……。
枕元に畳んでおいた着替えに袖を通していると、ふわりと鼻先を甘い匂いが掠める。
なんだろう?
なんだか懐かしい匂いだ……。
小さなボタンを止める手を休めないように気をつけつつ、回らない頭で記憶を辿ると、黄色くてふわふわした物が思い浮かんだ。
ああ、そうだ。お母さんがお弁当によく入れていた、甘い玉子焼きの匂いだ……。
匂いにつられるように階段をおりると、昨夜夕食を食べたダイニングキッチンから、男がひょいと顔を出した。
「おお、起きたか、ちょうどいいな」
ちょうど今、起こしに行こうかと思ったんだ。と笑いながら男が言う。
黙っているとなんだか怖そうにも見えるこの男は
笑うと途端に人懐こい雰囲気になる。
ずっと笑っててくれたらいいのにな……。
そんなことを考えながら男の脇を通ると、石鹸の香りがした。
……朝からシャワーでも浴びたのかな。
そういえば、昨日はとっても汗をかいてたみたいだったよね。
石鹸の香りはいい匂いだったけれど、なんだか現実的過ぎて、昨日のあの匂いや、あの温かさが、急に全部夢だったような、そんな気にさせられて……。
酷くがっかりした気分で、おじさんの示してくれた椅子に黙って座る。
もう一度だけ、ぎゅってして欲しかったな……。
うっかりそんな事を思ってしまって、慌てて首を振る。
「どうした?」
そんな僕を不審に思ったのか、僕の前にお皿を並べながら、おじさんが不思議そうに声をかけてきた。
もし僕が今、抱きしめてって、お願いしたら、このおじさんは僕をもう一度抱きしめてくれるのかな……。
黒い髪とお揃いの黒い瞳が、なんだか心配そうに僕を見ている。
反射的に込み上げてきた、甘えたくてたまらない衝動を必死で抑えながら「なんでもないです」とだけ答えると、慌てて視線を逸らした。
小さい頃から可愛がってくれた、近所の老夫婦にも言えなかったことを、昨日初めて会ったばかりのおじさんに言うなんておかしい。
なのに、ぽろっと、そんな事を言いそうになる自分が、情けないやら恥ずかしいやら悲しいやら、よくわからない気持ちで胸が一杯になって、なぜか顔が耳まで熱くなった。
僕は、なんだか……。
僕は、なんだか、昨日からおかしい。
色々あって、疲れてるのかな……。
「嫌いな物とかあったら、遠慮なく言えよ」
僕の返事に、おじさんはちょっと困った顔で笑いながら、僕の頭をぐりぐりと撫でてくれた。
それがたまらなく嬉しくて、泣きそうになる。
おじさんが朝ごはんに作ってくれたスクランブルエッグは、形こそお母さんの玉子焼きとは全然違ったけれど、お母さんのと同じくらい甘くて、優しい味がした。
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