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……やっぱり眠れない。
目を閉じると、どうしても浮かんでくるあの赤い色。
そこから逃げるように、僕はまた目を開いた。
今日は一人じゃないから、大丈夫かなって思ったんだけど……。
すっかり暗闇にも慣れた目で、
同じベッドで眠るガドさんの背中を見つめる。
広いこのベッドの上では、僕とガドさんの体が触れる事はなかった。
もうちょっとだけ、近くに行ってもいいかな……。
そしたら、もうちょっとだけ、ガドさんの体温とか匂いとかを感じられるかも知れない。
そしたら、僕はきっと……きっと、昨日みたいに安心して眠れる……。
きっと、怖い夢も見ない。
なぜだか、凄くそんな風に思えて、僕はガドさんを起こさないように気をつけながら、そうっとそちらへ近づこうとした。
そのとき、掠れた声がした。
「――っアリア……」
え……?
なんだろう、今の、人の名前……かな?
寝言……だよね?
動きかけた体勢のまま固まっている僕の耳に、苦しそうな呻き声が途切れ途切れに聞こえてくる。
ガドさん、うなされてる……。
反射的に、自分が日々苛まれている耐え難い悪夢が脳裏を掠める。
僕は、ガドさんが心配でたまらなくなった。
何かに必死で耐えるような、荒い呼吸。
どんなに悲しい夢を、見てるというんだろう……。
急に、あのときのガドさんの小さな呟きを思い出す。
今まで……ガドさんと一緒にご飯を食べてた人の夢なのかな……。
「逝かな……っ」
ガドさんの微かな声に我に返る。
とにかく、ガドさんを起こさなきゃ。
ほんの一瞬躊躇った後、その背中に手を伸ばす。
僕の手が触れる寸前、ガドさんがこちらへ寝返りを打った。
ガドさんの太い腕が、僕の背中に振ってくる。
一瞬、息の詰まるような衝撃。
下のベッドがふかふかなおかげで、あまり痛くはなかったけれど、僕は完全にガドさんの腕の下敷きになってしまった。
(……あ、あれ……?)
身をよじろうとしても、ビクともしない、ずっしりした大きな腕。
……ここからどうやって抜け出そう。
昨日、ガドさんに言われた
「俺は寝相があまりいい方じゃないからな、下手に近づかない方がいいぞ、多分」
という言葉を頭の隅っこに思い出しながら、まずは、胸を潰されている事で浅くしか呼吸できない息を整えようと、慎重に息を吸い込んだとき、僕を押さえつけていた腕が大きく動いて、僕はガドさんに背中から抱きすくめられる様な形になった。
ガドさんの苦しげな息が耳元にかかる。
途端に背筋がぞわっとして、僕は反射的に声を上げた。
「ガドさ――」
そこに、まるで泣いているかのような、切なげに掠れたガドさんの声が重なる。
「俺を……置いていかないでくれ、頼む……」
本当に小さな小さな、懇願の声が、僕の耳元で囁かれた。
途端、弾けるように、あの日の激しい感情が胸によみがえる。
『お父さんっお母さんっっ! やだっっ死んじゃやだよっっ!!』
あの日……みるみる冷たくなる両親に縋って、僕は泣き叫んでいた。
僕を置いて行かないでと、願い祈る事しかしなかった……。
無力な自分を心の底から呪う。
本当はあの時、僕がただ泣いていただけでなく、すぐにお医者様を呼んでいたら、母は助かっていたのではないかと、後日、お医者様がおばさん達にこっそり話していた。
もちろん、僕に聞かれているとは知らずにだろう。
それ以降、僕は泣かないと決めた。
どんなときも、自分にできる最良のことをしようと誓った。
実際、それから僕は一度も涙をこぼしていなかったし、僕の涙は、もうあの日に枯れ果てたんだと思っていた。
思っていた……のに……。
「……っ」
自分の上げた小さな嗚咽と、耳元でシーツに落ちる水滴の音が、静かな部屋に、やけに大きく聞こえる。
しばらく、ただ溢れ出して止まらない涙と、色んな感情がごちゃごちゃになって整理できない心に翻弄されて、何が悲しいのかもよくわからないまま、泣き続ける。
不意に、僕を抱きしめていた温かい腕が動いた。
そこでやっと、自分がガドさんに抱きしめられていた事を思い出す。
急に、自分を支えてくれていたこの手を離されるのが怖くなって、緩められた腕の中、僕は向きを変えてガドさんの胸にしがみついた。
こんな不安な気持ちのまま、手放されたくない。
いつの間に悪夢から抜け出したのか、ガドさんの整った呼吸が頭上を掠める。
そうっと、その顔を覗こうとした時、僕の両肩をガドさんの手が掴んだ。
ひょいと、布団の中から、僕はガドさんと同じ目線まで引き上げられる。
「……泣いてるのか?」
まだろくに開かない目をしぱしぱさせながら、ガドさんが問いかける。
その声が酷く優しくて、僕は息が詰まった。
「……っ」
返事が出来ないかわりに、せめて何か答えたくて、僕はガドさんの頬にそうっと触れる。
ガドさんは、僕の指に撫でられると、くすぐったそうにちょっと微笑んでから、僕を引き寄せた。
そのまま、ガドさんの唇が僕の瞼に触れる。
(え?)
一瞬なんだか分からなくて、固まってしまう。
けれど、僕が硬直している間に、ガドさんは、僕の頬を伝っていた涙も、瞼に残った涙も、優しくその唇で拭ってくれた。
まるで、そうするのが当然だとでも言うように。
ガドさんに躊躇う様子はなくて
「もう、大丈夫だからな」
まだ少し眠そうな、普段よりゆっくり話す温かい声に、思わず頷く。
なんでだろう。この人にそう言われると、本当に大丈夫な気がしてしまう。
ガドさんの胸元に優しく抱き寄せられて、僕の全身から力が抜ける。
どうしてこんなに安心できるんだろう……。
僕はそのまま、急激な眠気と疲労感に襲われて、ガドさんの温かい腕の中で、とても安らいだ気持ちで眠りに落ちた。
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