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五週目 エスカルゴとナイフ
1
昼休憩を告げる二本の針がぴったりと重なり、私は軽やかに肩を動かそうとしたときである。
「なんかいいことあったでしょ?」
心理学者やカウンセラーのような洞察力で、牧瀬先輩が話しかけてきた。
いや、もしくは洞察力なんてものはなくとも、私の顔は上機嫌を告げていたのかもしれない。午前の自分の様子を慮り、恥ずかしくなる。
「実はですね……」
私は、むしろ待ってましたとばかりに本題を言おうとしたが、先輩は「ちょっと待って」と遮り、また帰りにピエトロ・カストロで話すことを提案してくれた。
たしかに、ここでは特に真中先輩の存在が気になって、この多幸感を伝えづらいので助かった。別に真中先輩が卑屈だということではなく、なんだか私だけが抜け駆けするみたいで、申し訳ない気持ちになるのである。
もちろん、真中先輩と私は不幸せの共同戦線を張ってるわけでもないので、別に気を使う必要はない。だが最近、先輩と佐川さんとの関係が、明らかに以前よりギクシャクしているように見えるので、自分に責任の一端を感じないわけでもなかった。
今日も佐川さんは荷物を届けにやってきたが、真中先輩は立ち上がりもしなかった。
以前までは自ら荷物を受け取りに行くことが多いのに、最近は佐川さんが来ても素知らぬ顔をしていることが多く、真中先輩の向かいの席の岡本さんが対応していることが多くなった。今日もそうだった。
思い切った行動は好転を呼び込むことも多いが、もちろん逆の目が出ることもある。今回の件はまさしくその例だった。真中先輩は、私にもどこかよそよそしい感じもするが、怒っているのだろうか。
余計なアドバイスしてすいません、と謝ったほうがいいだろうか。いや、もう今さら遅いだろう。結局は本人の問題だと割り切ることにする。降り掛かっている災難は自然災害や事故などは別にして、大概本人に責任があることのほうが多いはずだ。そうだ、そうに違いない。
だが、仕事中もどこか元気のないように見える真中先輩。逆隣の牧瀬先輩は真面目な顔をしてるかと思えば、私のほうを見てニヤニヤしてるときもある。私は一体、どのように皆から見えているのだろうか。
昼休憩、私は真中先輩を誘って食堂でご飯を食べる。特に例の件の弁解をするつもりはなかったが、せめて機嫌をとっておこうという気くらいはあったのだ。
「なんか、ミカちゃん今日機嫌良さそうね。顔に書いてある」
まるで、自分は虫の居所が悪いとでもいうような言い草である。
「それがですね、ちょっといい感じの人と何人かで飲みに行ったんですよ」
私は、つい気を許して答えてしまった。真中先輩は特に羨ましがるでも、喜んでくれるでもなく淡々と話を聞いてくれた。私は真中先輩と喋りながらも、スマホを見てにやけていないか心配になっていた。
就業の時間が終わりを告げると、牧瀬先輩が私の肩に手を置いた。また、にやけ顔。
そして私達は、いそいそと真中先輩から隠れるように店に向かった。私も薄々気付いていたことだが、やはり牧瀬先輩と真中先輩は仲が悪いらしい。が、二人とも、理由は特に教えてくれない。
店内は、平日の夜だというのに賑わっていた。私たちのような仕事終わりの女子二人で来ている客が多い。男性客はほぼ見当たらなかった。
注文を済ませると、牧瀬先輩のニヤニヤはピークを迎えた。お酒が飲めるという喜びではなく、また退屈な私の日常に後輩が彩りを与えてくれる、という期待の表れだろうか。
だが残念ながら、牧瀬先輩の期待に応えられるほどのニュースはない。まだ成功も失敗もしていない、例えるなら今はまだ幸せという花びらの前の蕾の段階なのだ。
私は改めてその蕾話を牧瀬先輩に伝えた。昨日、正木くんを含む四人で居酒屋で会ったこと、そしてその前日の土曜日に、タカヒロが来なかったことも伝えた。
開放と収穫が同時に来たような気分だった。いや、まだ収穫というほどには実はなっていない。なにせ蕾だ。しかしある種一番楽しいといえる時期ではないだろうか。
「えー、最高じゃん。今、一番楽しいときじゃない? 相手が自分のことが好きかどうかわからなくて、でももしかしたら気があるんじゃないか、という淡い期待を抱いてるときでしょ?」
牧瀬先輩は、まるで自分のことのように目を輝かせて話していた。今の旦那さんとの出会った頃のことでも思い出したのだろうか。私は先輩の意見に同意だった。
「そうなんですよ、昨日も帰ってから一応お礼のライン送ったんですけど。すぐに彼からも、『こちらこそ、ありがとう』的なメッセージが返ってきてですね。まだ返せそうな感じだったんですけど、私、興奮してそのメッセージの欄を見ながら寝てしまったんですよ。というよりも返してしまったら、相手からの返信を待つのが不安で不安で。だから、今朝出勤前に『おはよう〜』って送ったんですけど、そしたら昼休憩の時間に『おはよう』返しが来てたんですよ!」
私はこの昨日の喜びが、今日まで持続している何よりの幸福を伝えた。やはり幸福というものは持続して初めて幸福なのだと、気づいた。
「どんだけウキウキで喋るのよ。わかった、わかった。あなたが休憩のときニヤニヤしてたのも、仕事中、心ここにあらずだった理由もわかったから、離れなさい」
私は興奮して正木くんとのやりとりの画面を見せながら先輩に寄り添っていたが、その言葉で正気に戻りサッと離れた。
「それで、ルンルンの一番楽しいやりとりしてるところ悪いけどさ、現実も言っていいかな」
「え、何ですか?」
正直、水を刺さないでほしいと思った。だが冗談のノリとはいえ、私が恋愛マスターと呼ぶ牧瀬先輩の忠言なら聞いておかなければならない。
「あのさ、ミカちゃんが正木くんにしてもらってるのはね、挨拶の返答だけなのよ。ミカちゃん、近所のおじさんに『おはよう』って言われたらどうする?」
「うう、『おはよう』って言います」
「でしょ。それと一緒なの。まあ、確かに終われそうなラインを、丁寧に昼間返してきてるのは微かに脈アリかもしれないけど、同級生で職場も近かったら普通に返しておくのが無難よね」
「え、そんな。じゃあ私が今喜んでるのは……」
「ぬか喜びの可能性が大ね。ま、わかんないけど」
「えー! じゃあ私どうしたらいいんですか?」
「ミカちゃん、私を誰だと思ってるの?」
「恋愛マスター牧瀬です」
私は助けを乞う目で見つめた。
「よろしい。ではこのまま、ラインで距離を詰めれずに全てがぬか喜びに終わらないための方法を授けましょう」
「はい、お願いします」
私は占い師に助けを求める、不幸続きの客の気持ちだった。
「それはね、デートに誘うのです」
「へ?」
「二人きりのデートに誘うのです」
「いや、そんなの当たり前のことじゃないですか。そもそも二人でデートしないと付き合えませんし」
「甘い甘い甘い。では、ミカちゃん、あなた私が今これを言わなければ、いつデートに誘ってた?」
「いや、そんなの、わかりませんよ。むしろ、どちらかと言えば誘ってほしいタイプですし」
「でしょうね。そんなことを言ってるから、あなたは甘ちょろなのよ」
「甘ちょろ、ですか?」
「えぇ。いい? 飲みに行ったあとは勢いで誘うのよ。お酒の酔いは翌日にはもう冷めてるかもしれないけど、異性と会ったという酔いは翌日終日から翌々日午前くらいまでは残ってるものなの。だから、脈アリでなくとも、その期間にアプローチをすれば断らない可能性がぐんと上がるわけ。逆にちんたらラインしてたら、脈ナシの場合だと『面倒くさいな』というマイナスの感情になって完全に駄目になってしまう可能性が高いのよ」
「なるほど、私はそのちんたらラインして可能性を潰してしまうルートに入りかけているということですね」
「その通り」
「ということは、私がいますべきなのは……」
「挨拶無用。さっさと二人で遊ぼうと誘いなさい」
私はラインを開き、せっせとメッセージを考えた。こういうときは外にいるときに送るに限る。先輩が隣にいるということもあって、気も大きくなっているし。
「あの、で、どこに誘ったらいいんですか?」
「そんなの決まってるじゃない」
そう言って先輩は入口の看板を指差した。
そこにはピエトロカストロという筆記体で書かれた文字があった。
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