五週目 エスカルゴとナイフ

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2   本当に、人の助言は聞いておくものだ。  私はスマホの画面を見つめながら、それを切に感じた。 『おっ、いいね。遊ぼうか。じゃあ、次の日曜の仕事終わりとかどう? 俺もその日は朝番だから、六時に終わるからさ』  先日、この世の幸福を全て詰め込んだようなメッセージが、正木くんから返ってきたのだ。牧瀬先輩に言われるがままにお誘いのメッセージを送った僅か数分後に。やはり恋愛はテンポなのだろうか。酒のあてのように、じっくり旨味を味わうつもりだった私は間違いだったようだ。  最初はかなり抵抗があった。実はラインでメッセージを送る前、牧瀬先輩に一度抵抗した。 「えー、だって四人で遊んだばかりなのに、急に二人で遊ぼうって言ってくる女子、嫌じゃないですか? がっつきすぎというか。肉食系というか」 「あのね。今の多様化、多様化とか言われてる時代で、女子の誰しもが慎ましく男の誘いを待ってるなんて、言ってられる場合じゃなくなってきたのよ。男子だって女子化してる人がいるんだからね。両方待ち合って、挨拶だけしてたら元も子もないわよ。あと、若い男子で草食系とか言われる子もいるけど、そもそもイケメンで草食系の子なんかは、人生で一度も自分で誘ったことないって子だっているんだよ。その正木くんもその可能性あると思わない?」  私はその牧瀬先輩の言葉で、焦りを感じた。  確かに、正木くんはモテそうだけど、女遊びしてるイメージはなかった。よもや、自分から誘わないタイプであれば、私のように偶然現れた肉食女子にさらわれてしまうかもしれない。  結局私は言われるがままに、デートの誘いを送った。  待ってる間は不安で不安で、無免許で車を運転している気分だった。挨拶のやり取りしかしていないのに、突然二人きりで遊びに誘ったのである。ゆっくりと田舎道を走っていたところから、急カーブで高速に入ったようなものだ。  だがその結果、私は今晩ここにいる。  ここというのは、もちろんピエトロ・カストロだ。今週二回目の来店。職場が近いというのは良いものだ。簡単に約束が取り付けられる。  自分の圧倒的なホームグラウンドで私は愛しの正木くんを待っているのだ。まさか自分が休みの日に、職場の近くまで来るとは思わなかったが。  ここには約束の六時前には着いていたが、彼はもう少し退勤までかかるらしい。さっき、ちょっとだけ残業すると連絡があった。  いいの、いくらでも待つわ。だって、ここまでトントン拍子で彼と二人っきりで会えるなんて思ってなかったもの。  なにせ、最初の出会いは私がコンドームを彼のレジに持っていったところだった。そんな最悪のスタートからここまでたどり着けるなんて、考えてもみなかった。彼はあのときのことを覚えているのだろうか。いや、忘れるわけないだろう。  しかし、よくそんなコンドーム女と二人で会おうと思ってくれたものだ。もしかして、私軽い女だと思われてるのだろうか? いや、正木くんなら全然軽くも重くもなるんだけどね、実際。  私はとめどない妄想をしながら、落ち着けとばかりに水を口にする。  すると、視界の奥から真っ白なシャツを着た細長いシルエットが近づいてきてるのが見えた。よく見ればズボンも白かった。下は制服じゃない気はするのだが、あえて全身真っ白にしているのだろうか。それは白鳥のようだった。バレエのあの有名な音楽が、脳内で流れる。 「ごめん、待たせて」  人の姿をした白鳥のような彼が、私の近くに来て声をかけてくる。ようやくそこで顔を見る。よかった、正木くんだ。 「ううん、全然待ってないよ」  こんなヒロインど真ん中のような台詞を私が言うときがくるなんて。しかも、時間を見たら約束の時間より二分しか遅刻してない。五分遅れても謝りもしなくなったサチに聞かせてやりたいほどの精神である。 「この店いつも通るけど、中々一人や男だけだと入りづらかったけど、やっぱりこんなにお洒落だったんだね。今藤と来なくてよかったよ」  そういえば、そんな名前の男もいた。いつの間にか記憶から消えてしまっていた。  正木くんは慣れない店に来たからなのか、キョロキョロ店内を見回している。相変わらず、私の母性の本能をくすぐってくる。 「でも私もたまにしか来ないよ。いつも先輩と仕事終わりに来るだけ」 「そうなんだ、ここって何料理?」  正木くんがメニューを見ながら言っている。 「なんか、イタリアンなのかフレンチなのか、スペインなのかわからない感じ。ほら、エスカルゴからパスタからパエリアまであるの」 「へー、エスカルゴ……」  エスカルゴに嫌な思い出でもあるのか、正木くんはくぐもった声を出した。いや、もしかして、緊張してくれてるのかな。  前は居酒屋だったけど、今日はちょっとお洒落なレストランだから? それとも、もしかして私と二人きりだから? 「エスカルゴ……」  私も小声でつぶやいていた。 「ん? 何か言った?」 「ううん、何でもないよ」  まるで付き合ってるかのような雰囲気に感じるのは思い上がりだろうか。  よく注文をとりに来てくれる、いつもの店員も「あれ、今晩はいつもの女性とじゃないんですね」という微笑みの表情に見えた。  二人とも、軽めのカクテルを頼み、顔を合わせてエスカルゴも注文する。  エスカルゴ……なぜだか、今夜はそれが卑猥な響きに聞こえてしまう。 「星野さんって、不思議な雰囲気だね」 「え、そう? というか星野さんって他人行儀じゃない? ミカとかでいいよ」  今夜の私は攻めている。一気に距離を縮めようという心意気がある。 「え、本当? わかった。じゃあ、ミカ。俺のことは何て呼んでくれるの?」  え? そんなこと訊いてくれるの?   正木くんはいつも正木くんとしか思っていたけど、たしか下の名前はマサヒロ。マサが2回続く名前ってなんだか珍しい。親御さんはどういう気持ちで命名したのか訊いてみたいんだけど、そんな日はいつか来るのかしら。 「じゃあマサくんはどう?」 「それって、どっちのマサ?」 「ん、どっちでしょう?」  私は、首を傾げる。 「あれ? 俺もしかしてイジられてる?」  マサくんは笑っている。 「まさか」 「またマサじゃん」 「あ……」  二人で顔を見合わせて笑った。至福の時間。恍惚の表情の自分が窓ガラス越しに見える。  そのとき、彩り満載のカクテルと二人分のパスタ、そしてエスカルゴが運ばれてきた。  私は急いで料理に目を移し、店員の顔を見た。店員も微笑んでいた。  やっぱり、ゆっくり進むのも悪くない。エスカルゴを見つめて思った。    だがその思いは、この日帰宅してすぐに弾け飛ぶことになる。  
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