一週目 ナイフとコンドーム

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4  私は台所の流し台から果物ナイフを取り、軽く水で洗った。そして水気を、湿った布巾でとる。よく、ドラマでナイフや包丁を持った主婦が刃の部分をじっと眺めるように自分も眺めたあと、それをパジャマのポケットに入れた。  このパジャマは、珍しくポケットがついていて、今日までメリットはトイレに行くときにスマホを入れて行けることくらいしか思い付いていなかったが、やっと真のメリットがわかった。今夜、彼にバレずにナイフを持って近付くためなのだ。  カバみたいな鼾と見た目をして、今日叶えられる欲求を全て叶えたような表情の彼を真下に見る。  どうしてあのとき、こんな奴を好きになってしまったのだろう。そう。あのときの彼は偽りのマントを着ていたのだ。アンパンマンはマントをつけて人を助ける。今、バイキンマンのように私への妨害活動を定期的に行うように成り果てた彼は、当時マントをつけて人を騙していたのだ。今じゃ愛と勇気ではなく、睡眠とセックスだけが友達の彼は。  いや、厳密には私を騙していたわけではないのだろう。実際、あのときの私は心の隙間を埋めてくれるという点で、彼に助けられていたのかもしれない。彼のそれは、偽りだったのだが偽善ではなかった。  偽りのマントは三年という歳月を経て崩れ去り、元の愚かで無垢な彼が姿を現した。もしくは、偽りのマントなんてものは初めからなくて、元の彼が今の愚かで無垢な彼に変貌してしまっただけなのかもしれない。だが、どっちにしても結果は同じことだ。   私はパジャマの右ポケットにナイフを忍ばせている。重みを感じる。  トントン、と彼の頬を優しく撫でるように叩いた。彼は目を覚まさない。今度は指の腹に力を入れて叩いた。  カバのような物体は不機嫌そうに目をこすりながら目覚めた。 「なんだよ?」と彼がつぶやいた。まだ足りないのか? というニュアンスが含まれてる気がしたのが不快だった。 「あのね、私と別れてほしいの」  私は彼を見下ろしながら目を見て言った。 「はぁ?」  彼は、聞き捨てならないとばかりに起き上がった。 「あのね、私と別れてほしいの」  先程と全く同じテンポとトーンで言った。 「なに言ってるんだよ、お前。そんなの許されるわけねぇだろ」  許される? いったい誰に許されないというのだろうか。世間か? 国か? いや、そんなわけがない。世間も国も私たちのことなど何も知らない。ただ彼が、自分が許せないという個人の意見を大きく見せたいだけだ。 「許されるとか、許されないとかじゃないの。もう、タカヒロとは付き合えない。好きじゃないから。あなたもでしょ? 私のこと好きじゃないでしょ。もう別れよう、だから部屋の合鍵返して」 「……無理だ」  そう言って、彼はまたベッドに寝転がった。ここまでは想定どおりだ。  私は迅速にポケットからナイフを取り出し、彼に向かって突き出した。それは、正木くんの前にコンドームを突き出すよりは簡単なことに思えた。 「あなたが別れてくれないんだったら、私この場で刺すよ」 「は? バカ、何持ってんだよ、しまえよ。そんな危ないものっ……」  彼は動揺してベッドの上で後退りした。慌てて、枕元のスマホを取り出していた。 「ちょっと、警察に連絡しようとしてるんじゃないでしょうね」  私は彼に初めて圧をかけた。彼は否定しながら、操作を続けている。 「いいわよ、別に連絡されても。今、私は何もしてないから。むしろ警察沙汰になったほうが、別れることになるでしょうしね」  そのとき、彼の指の動きが止まり、ニヤリとした表情を浮かべた。  嫌な予感がした。そしてそれは的中した。 「お前、そんなことしたら、この画像今すぐネットに流すぞ」  彼が印籠のように、こちらへスマホの画面を見せてきた。中には見覚えのあるような女性の裸体があった。そしてその女性の正体に、私はすぐに気付いた。  これ、私だ。 「こんなこともあろうかと、こっそり撮っておいたんだよ。俺から逃げれると思うなよ。逃げたら不特定多数にこの画像を、被写体の名前を注釈に入れて流すぜ」  私は完全に気付いてはいなかったのだ。  もちろん、夜中にこっそり裸を撮られていたことではない。  こいつが、真のクズだということだ。  いや、少し前に気付いてはいた。だから、今夜行動に起こしたのだ。だが、それが幾日か遅かった。その遅れの間に彼はクズに成りきっていた。やはり彼は元来クズだったわけではない。クズになってしまったのだ。  いや、もしかしたら、私がしてしまったのかもしれない。    私の感情に呼応するように、ボトッという音と共にナイフが床に落ちた。  彼は迅速にそれを拾い、流し台へ移動させた。そして帰り支度を始めた。 「さすがに、今夜ここで泊まるのは俺も身の危険があるからやめておくわ。寝てるときにぶっ刺されたらたまらんからな。まぁ、また来週来るから」   そう言って彼は家から出ていった。こんな時間に、電車は走ってるのだろうか。いや、人の心配をしてる場合ではない。今、彼は来週も来ると言っていた。  どういう気持ちで来るのだろうか? ただ単にセフレとしてだろうか? 先に別れを切り出されたことへの復讐心だろうか? 普段は小心者のくせに、なぜナイフを突き付けられた相手のところに、来週も来ると言えるのだろうか?  おそらく、私が本当に刺すと思ってないのだろう。私が彼をバカにしている以上に、彼は私のことを下に見ている。だから、私に刺せるわけないと思っているのだ。  本当はどうなんだろう? さっき彼が、私の隠し撮り画像を持っていなくて、且つ私との別れを拒んだら、私はそのとき彼を刺すことができたのだろうか。  いや、違う。根本的なことを勘違いしていた。そうか。別れてくれ、と切り出したこと自体がおこがましいことだったのだ。  既に、とっくの昔に私と彼は別れていたのだ。  彼がさっきまで寝ていた場所の布団の膨らみを見つめる。そこに三年という歳月を感じた。
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