二週目 サンドウィッチとラングドシャ

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2  怠惰で憂鬱な仕事を終え、牧瀬先輩と約束の店であるピエトロ・カストロにやってきた。ここは何度も来てるが、結局イタリアンなのかフレンチなのか、はたまたスペイン料理なのか未だによくわからない店である。でも、そのあたりの料理を出したいレストランなのだということはわかっている。  しかしそれにしても、先ほどは焦った。  ここに来る道中、先輩が「洗顔買いたいんだけど」と言って、正木くんのいるドラックストアに行こうと言い出したのだ。もちろん断れないので、ついていくしかなかった。  また正木くんがいたらどうしよう。先週の土曜日に来て、二日後の今日も来るなんて、どんだけ俺に会いたいんだよ、と思われてしまうだろう。しかも、私には前回コンドームを単騎で買った前科がある。彼氏がいるくせに、同級生の男子の職場を見つけたら中一日で様子をうかがう尻軽ストーキング系女子だと思われてしまうのではないか。そんなの嫌だ。  私は、先輩が洗顔をクリームかオイルで悩んでるときも、ずっと心ここにあらずで周りを見渡していた。もし、私が先に正木くんを見つけたら、こっそり店外に逃げてしまって、先輩にはトイレにでも行ってたと嘘をつけばいい。  先輩は首を傾げながら「これ高いのよね」とつぶやき、小さな壺のようなクリーム洗顔の容器を手にすると、レジに行ってくれるのかと思いきや、次はお菓子コーナーに行く始末。  やっぱり普通ドラックストアに来ちゃうと色々買っちゃうよね。ご飯行く前でも、先輩色々物色してるんだもの。そんなところで、コンドーム単騎買いの私って……   結局先輩は、洗顔とチョコとグミと食器洗剤とハンドクリームを買っていた。ハンドクリームなんて前も買ってた気がするけど。金持ちは手が乾燥しやすいのか。心が潤ってる分、手が乾燥するのだろうか。  結局、正木くんはいなかった。 「で、何があったの?」  先輩がハンドクリームを塗りながら訊いてくる。食事前にも塗るなんて、やはり相当乾燥してるのか。そこが気になりつつも、私は昨日あったことのあらましを詳細に話した。話が全て終わるまでに、注文した料理が到着し、私たちの間に置かれたエスカルゴが全てなくなった。ワインの入ったデキャンタも空になった。  先輩は相槌をはさみながら、ずっと落ち着いて聞いてくれていたが、やはり私が包丁を取り出したところと、隠し撮りされていた私の全裸画像を見せられたところは、珍しく大声を出して驚いていた。 「でも、ちょっとどうするのよミカちゃん。私に言ってくるってことは、あなた警察に言うつもりもないんでしょ?」  図星だった。 「はい、彼に仕返しされるの怖いですし。それに、言ったとしてもどうせ彼が逮捕されるわけじゃないですよね。そしたら結局、自由の身だからやりたい放題じゃないですか。私への恨みが募ってもっと色々とやってきそうな気もしますし」  そもそも、警察にあの画像を見られることも嫌だった。 「でも、ほっておいたらミカちゃん、これからも毎週彼が合鍵で勝手に部屋に入ってきて、したくもないセックスしなくちゃいけないんでしょ?」 「はい。だからつらいんです。先輩も知ってると思いますけど、そもそもこの一、二年ずっとしたくもなかったんです。でもまだ耐えれたというか。ただ、一昨日のことがあってからはもう彼のことを考えるだけで虫酸が走るんです」 「地獄ね。そんなやつとやるのは」  牧瀬先輩は伏し目がちに小声で言った。 「はい、だからどうしたらいいかわからなくて。たぶん、彼に黙って引っ越しとかしたら『画像ばら撒くぞ』って脅されるだろうし」 「そうねぇ……」  そう言って、先輩は少し考える仕草をした。その間に私は『ピエトロ特製マリネ〜海の欠片〜』と名付けられた海鮮サラダを食べた。そもそもマリネとカルパッチョは何が違うのだろうか。呑気に思う。 「パッと思いついた対抗策は三つ」  突然、先輩が指で数字の三を表した。 「三つも? 何ですか?」  私は心強い気持ちだった。 「まず一つは、彼のスマホから画像を消して引っ越しする。二つ目は彼の恥ずかしい写真を撮り、脅して、ミカちゃんの写真と相殺する。だけど彼も警戒してるだろうから、どちらも現実的に厳しいだろうね。一つ目はミカちゃんの画像をパソコンとかに転送されてたら終わりだし、二つ目は同じ裸なら男性のほうがダメージ少ないから、相殺にならないかもしれない」  確かにそうだ。あの日、彼はあんな夜中なのに帰った。私に刺される以外のことにもきっと警戒してたんだ。自分の身に降りかかるかもしれないことに関しては慎重な男なのだ。 「じゃあ、三つ目は?」  私は焦るあまり、ついタメ口で聞いてしまった。 「三つ目が一番簡単よ。ミカちゃんも気付いてるでしょ。そう、彼を“殺す”ことよ」  ……やっぱり。  私が黙っていると、先輩が吹き出した。 「ちょっと、本気にした? 駄目よ! でも人殺しなんて、ミカちゃんにはできないでしょ? 包丁を出したのも脅しで、本当に刺すつもりはなかったんでしょ?」  どうなんだろう。私は、あのときどういう気持ちで包丁を構えたんだろう。 「あっ、もう一つあるわ。対抗策」 「四つ目ですね、なんですか?」 「別の彼氏を作って、撃退してもらう」  え…… 「なんか、最近いい感じの人とか好きな人いないの? だって、その彼氏のことはだいぶ前から好きじゃなくなってたんでしょ? ミカちゃんまだ二十五だよね、身体は健康だろうし、性欲もあるだろうし、心もまだ若いから全然青春みたいな恋愛できるでしょ」  性欲というフレーズが引っかかった。先輩は、もうあまりないのだろうか。 「青春ですか? もう無理ですよ」  いい感じの人なんているわけないし、好きな人……いない、長らくいない。でも気になる人は…… 「ははぁん、ちょっと気になる人はいるんだ。いいね、若いって」 「え、先輩どうしてわかるんですか?」 「年の功、舐めないでよ。さては、さっき寄ったドラックストアの店員とかかな」 「えーーー! 先輩なぜ?」 「あら。カマかけたら当たっちゃった。だってミカちゃん、店内で私の横にいると、周りばっかり見てたじゃん。万引きOLみたいだったよ。あの様子見たら、たぶん店員に気になる人でもいるのかなぁ、って私でなくても思うよ」  バレバレだったのか。駄目だ、この数年まともに恋愛してなかったブランクが出てしまっている。ただでさえ、今まで二人しか付き合ったことないのに。 「でも、ミカちゃんが好きそうな男子いなかったけどなぁ。店員、年齢層高めの男の人か、女子ばっかりだったし。もしかしてタイプ変わった?」 「私、女子は好きじゃないですよ! そりゃ可愛いとかは思いますけど」 「いやいや。おっさんのほう言ったんだけど」 「あ、おっさんですか。無理ですね。なんか、自分のこと誇示したい人多いじゃないですか。聞いてもないのに車の車種言ってきたり、時計の値段教えてきたり」  言ってから気付く。それのほうが、いくらかかマシだ。後々脅すために彼女の裸写真を撮って保存してるやつよりは。 「まぁ、それが好きな女子もいるんだろうけどね。で、どんな男なの? そのドラックストアの店員は? さっきはいなかったってことでしょ? 社員? 店長?」 「さぁ〜、どうなんでしょ。店長ではないと思うんですけど。だって普通、店長ってレジ入らないですよね?」 「あ、レジしてもらった人なんだ?」 「はい、同級生だったんです。中学の」  いつの間にか、話を進めてしたっている。 「へぇ。で、背も伸びて男らしい顔つきになって惚れちゃったんだ? あのときは、あんなにほっぺたの赤い子供だったのに、ってギャップで」 「はい……でも男らしく、って感じでもなくて、爽やかさそのままに大きくなったって感じなんですよ。なんかまだウブな感じというか、女慣れしてなさそうというか。当たり前ですけど、女子は身長があまり伸びないから、当時の男子とは目線が大きく変わるんですよね。彼は特に大きくなってました。もちろん、横には大きくなってなかったですけど」 「あー、結局一番モテるやつじゃないの、それ。しかもあそこ女子のアルバイト多かったよね。綺麗で大人な雰囲気の美容部員もいたし、私生活でも合コンとかアプリとかやる年代だろうし、かといって高校の同級生とずっと付き合っててもおかしくないタイプだろうし。かなり競争率高いんじゃない?」 「ですよね。でも、どっちにしてももう終わりました」 「なんでよ、これからじゃないのよ。あっちもミカちゃんのこと覚えてたんでしょ。これから通って仲良くなって、最初は共通の知人とかいうクッション材連れて一緒に遊ぶとか、同窓会とかいう隠れ蓑使って一緒に幹事やるとかしたらいいじゃない」 「それが……」  私は、恥ずかしながらもコンドームを買った件を話した。先輩は笑いこそしなかったが、聞いたあとはじっとりニヤけてから追加のワインを頼んだ。いつもは「翌日の仕事に影響でるから」と言って二杯目はウーロン茶を飲むのに。ワインを飲むときもデキャンタを持つ手が震えていた。私が一人でコンドームを買っている姿を、想像しているのだろうか。  飲んでいる途中、傾けたデキャンタを一瞬とめ「ゴメン」と言って、私の顔を見てきた。口を押さえ、笑いを我慢していたように見えた。やっぱり、この人は私の不幸話をオカズにしてるのかもしれない。 「でも、私がここまで赤裸々に話したんだから先輩の旦那さんの写真も見せてくださいよ! そろそろ」  ついムキになって私は先輩に、突っかかった。 「ないない」  先輩は冷めた表情で断る。  そうなのだ、いつも先輩は自分の家族を見せてくれないのだ。旦那はおろか、子供の写真さえも。 「ないわけないじゃないですか! 付き合ってた頃の昔の画像とか残ってるでしょ」 「スマホ変えたときに全部消えたから」  全国共通の常套句で逃げる。なぜ見せてくれないのだろう。そんなにブサイクなのか、旦那さん。息臭そうな顔してるのか。乳牛みたいな体型してるのか。でも、子供の写真も見せないのは不思議だ。先輩くらいの歳の人なんて、頼んでもないのに子供の写真見せてくる人多いのに。 「そうだ、明日もう一回そのドラックストア行きなよ。で、ちょっと暗い顔して酎ハイとか買いにいったら? 『何かあったんですか?』って言ってくれるかもよ。そしたら『別れたんです』とか言って気持ち揺さぶったら? 憂いを帯びてる女って男好きでしょ」 「そんなの無理ですよ! 恥ずかしい。だって、今まで行ってなかったのに、急に正木くんにあってから行きだすっておかしいじゃないですか」 「おかしいのよ。おかしいものなのよ、恋をするってことは! 恋と変って感じも似てるでしょ。恋は愛よりも変に近いものなのよ」  顔が真っ赤だ。珍しく、先輩が酔っ払ってる。そうか、お酒弱いんだった、先輩。 「そうだ! もっとナチュラルな方法がある! ナチュラル志向なんでしょ? ミカちゃん」 私よりもナチュラルメイクで、普段自然派食品をよく食べている先輩が、真っ赤な顔で言う。 「ナチュラル志向? まあ、そうですね。仲良くなるなら自然にがいいですね」 「贅沢言うわね〜、仕方ない。授けてあげる」 「お願いします」  もう気持ち半分で聞いておこう。 「あの、ドラックストアの近くにカフェあるでしょ? なんだっけ、なんかドルチェアンドガッバーナみたいな名前の……」 「ドルチェリーナですか?」 「あ、それそれ。あのカフェで待ち伏せするのよ。というか、昼ご飯今週全部あそこで食べるのよ。そしたら、一回くらいその子が休憩で食べに来るのと、かち合うんじゃない?」 「いくら隣の店でも、男子がカフェ来ますかねぇ?」  当然の疑問だった。ただ、それを毛嫌いするタイプにも見えない。 「バカ、そんなこと言ってちゃ、何も始まらないでしょう? それにそこまで行く道中に、コンビニに向かう彼と鉢合わせするかもしれないんだから。いいね? 今週の昼ご飯はあと四日間、全部そこのカフェね。なんだったら、一回くらいならついていってあげてもいいから」  それはそれで嫌だ。ドキマギしてるわたしを先輩に見られたら、あとで何を言われるかわかったもんじゃない。まぁ、先輩は分別はしっかりしてるから、他の人に言いふらしたりはしないだろうけど。まぁ、でも、それくらいならやってみてもいいか。 「わかりましたよ、今週はドルチェリーナで一人ランチします」 「よし、じゃあ決意を祝してもう一杯飲みましょう」  そのあと、先輩は酔い潰れるまで飲んだが、私が「家まで送りましょうか?」と聞くと、「大丈夫、大丈夫」と言って自力で帰った。よっぽど、家のことで知られたくないことがあるのか、それともそういう人なだけなのか。  心配しながらも見送ったあと、一人になって夜空を眺めて思った。  そもそも、もし、本当に正木くんと付き合えたとして、あんなに優しそうで虫も殺せないような彼が、タカヒロに立ち向かってくれるのだろうか?  だが、正木くんのことを考えているときは、例のことで頭が重くなることを少し忘れていられた。  これは先輩の言うように、変なことなのだろうか。
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