32人が本棚に入れています
本棚に追加
一昼夜森を馬で走り続けて、雨がやみ、日が落ちてきた。もともと逃亡の準備はしてあったのだろう。馬には色々なものが準備されていた。手際よく火を起こすと、金髪は馬にくくりつけられてきた瓢箪を渡してきた。中には水が入っている。
「それで傷洗っとけ。たくさんは使うなよ」
そう言われて、俺は燭台で頬を切られて、耳からも出血していたことを思い出した。渡された布を濡らして、傷口を恐る恐る拭う。布に触れて、痛みを感じる。でも、痛い方を選んだのは俺だった。
彼はさらに馬にくくりつけられていた袋から干し肉を出すと、それも俺に渡してきた。
俺はそれを舐めた。硬くてすぐには噛み切れない。それでも、肉の味は美味かった。一日以上なにも食べていなかったし、肉なんて、最後に食べてからどれくらい経っていただろう。
夜の森は闇が訪れて火の周囲以外は真っ暗になったが、追っ手がいる身としてはそれが俺を守ってくれる気がして安心もする。
ひととおり俺が干し肉をしゃぶり終えるのを待って、とっくに食事を終えていた男が聞いてきた。
「小僧。名前は」
「かいれん」
「カイレン? 灰簾石の灰簾か?」
「?」
「いい名だな。おまえの瞳と同じ色の石の名前だ」
ふと、俺の瞳に呪いの言葉を吐き出した人のことを思い出した。
『なぜおまえはそんな、あの男と同じ目の色をしているんだ?』
誰。俺の、父親か? なんだっけ、そう。呪いの色だ。
「あなたは?」
「琥珀」
「こはく……あなたの髪の色だ」
「そうだな」
琥珀、と名乗った男は薄く笑った。
「大丈夫か?」
琥珀の手が伸ばされて、俺の頭に触れた。俺は玉髄の手を思い出して、思わず体を引く。他人に触れられるのは、嫌悪感が先に立った。
「ああ、悪い」
俺が身を引いた理由がわかったのだろう、微妙な顔をして彼は手を戻した。
「すみません」
「いや、俺が考えなしだった」
「……あの、大丈夫、です。あなたは、俺の恩人なので」
俺は着ていた上衣を脱ぎ落とした。こいつの服は俺には大きすぎて、そもそも肩は半分くらい落ちていたのですぐに脱げた。
俺はぼんやりと火に照らされた目の前の男を見た。
俺のどこにそんなに役に立つところがあるのかはわからないが、この男が玉髄と同じことを求めているのなら、助け出してもらったことに対して俺が支払えるものはこの体くらいしかない。
「傷だらけですが、よかったら」
「いや、そういう意味じゃない。俺には子供を抱く趣味はないよ」
落ちた上衣を拾って、琥珀は俺の肩に羽織らせた。
「頭を撫でてやりたかったんだ」
変なことを言う。俺は首をかしげた。
「どうしてですか?」
「ん、弟みたいな感じがしたからかな」
「弟がいるんですか?」
「……もう死んでると思うけど。<光の一族>のやつらに連れていかれた。よくて奴隷か、たぶんおまえみたいな目に遭って。『死んでいい子』なんて、この世界のどこにもいないのに」
彼は悲しそうな顔をした。
俺は彼の言葉の意味がわからなかったが、彼を慰めたい気持ちになって、彼の唇にそっと、自分の唇を押しあてた。
元気になってほしい人にそうすると、おいてきたあの少年が言っていたから。
琥珀は一瞬身を固くして、静かに俺を引き剥がす。
「そういうのはいらないよ」
よくないことをしてしまったらしい。彼の表情がつらそうに見えて、俺は彼に謝った。
「ごめんなさい」
彼はやさしく微笑んだ。
「おまえが謝ることじゃない。おまえは俺のことを思ってくれたんだろう。俺はいらないだけなんだ」
俺はその笑顔にほっとして、でもそれならさらに不思議な気がして彼に尋ねる。
「なんで、俺を助けたんですか」
「助けてなんかいない。おまえが自分で決めて、自分で逃げ出したんだよ」
「だけど、あなたのナイフがなかったら」
「そうだな。俺もなにもいらないわけじゃない。俺は、自分で決められるやつを探してた。おまえは初めて会ったときから迷いのない目をしてた。俺たちに声をかけたとき、絶対あそこを出てやるって思ってただろ?」
「はい」
それは俺にはなんの疑問もないことで、俺はうなずく。
「それで、おまえを試したんだよ」
「どうして?」
わからない。俺はなぜ彼に試されたのか。
「俺は仲間がほしかった。運命に身を任せるようなか弱いやつじゃなくて、自分で考えて行動できるやつ。俺にはやらなくちゃいけないことがあって、力を貸してほしいんだ。灰簾、俺の仲間にならないか?」
俺は彼の澄んだ翠の瞳を見た。
俺の目的はとりあえず、<王国>を出ることだった。<王国>を出た後の世界がどんなものかまったく想像もつかない。それでも、俺にはやりたいことがあった。
「琥珀……俺、できたら親を探したいんです。自分が、何者か知りたいので。でも、どこにいるかわからないし、見つかるまではご一緒します。あなたに恩は返したいですし。もう死んでるかもしれないし、会えても一緒に暮らせるのかもわからないですが」
「ああ、それでいい」
琥珀は嬉しそうな笑顔を見せた。俺も、さすがに知らない世界でひとりになるのは不安だったし、これからしばらくは腕が立つ大人と一緒にいられると思うと安心はした。琥珀は俺が人を殺せるか試してみたり、抵抗もできない老婆を殺したりしてちょっとおかしいけど、少なくとも俺に危害を与えるつもりはないみたいだし。
「さあ、飯食ったらもう寝ちまえよ。おまえは怪我もしてるし休息が一番だ。そっちの袋に毛布入ってるから」
俺は言われたとおりに毛布を袋から取り出して、その場に横になる。琥珀もその中に入ってきた。一枚しかないからだ。
「明日は港に着くからな。そうしたら、船に乗ろう……」
港……、船、どんなところだろう。そうしてその先にはなにがあるのだろう。
逃亡生活のはずなのに、俺はなぜかわくわくしてきた。色々あったけど、<王国>を出るチャンスをただただ窺っていた生活よりもずっといい。昨日人を殺したところなのに。
俺も琥珀と同じで、どこかおかしい人間なんだろう。
まあそれはそれでいい。そうでなければ、俺は今ここで生きていないのだから。そうだ、俺は初めてちゃんと生きている気がした。
「灰簾、頭を撫でてもいいか?」
俺が怯えないようにだろう。目を閉じた俺に、琥珀が聞いてくる。
「……いいですよ」
俺は小さく笑って、琥珀に身を委ねた。こんなふうに誰かに身を委ねるなんて、いつぶりだろうと思いつつ。
やさしい指は、俺に懐かしい気持ちを起こさせた。誰かの記憶。母親だろうか?
その晩俺は夢を見た。海辺で火山を見ている少年。俺にでも抱きあげられそうな、小さな琥珀の夢だった。
その意味がわかったのは、ずっと先のことだった。
第1話/終
最初のコメントを投稿しよう!