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始まりの事件
冷たい空気が天地を満たす。
そこかしこに立ち並ぶ木々でさえも寝静まったであろう深い夜の中、闇に揺蕩う静けさを破るように聴こえる激しい息遣いと草擦れの音が連続して響く。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ――!」
皓々と月明かりが灯る夜空を背に、辺りに生い茂る蒲の穂を掻き分けながら、その男は死物狂いで走っていた。
樽のように肥えた腹を窮屈そうにシャツに押し込んだ、身なりの良い中年男性である。
仕立ての良い外套は所々が薄汚れ、同じく高級品であろうズボンや靴にも下の湿地帯から巻き上がる泥が大量に付着していた。
だが、男にそれを気にする余裕は無い。手提げ用のトランクをひとつ、大事そうに胸に抱えながら、なりふり構わずに前だけを見据えて駆け続ける。
まるで、何かから必死に逃げているかのように――。
「あっ――!?」
とうとう悪路に足を取られ、男は勢いよく前につんのめる。丸々と太った腹から泥濘の中に突っ込み、鈍くくぐもった声を上げる。
「うぶっ……! ううっ……! っ!? 何処だ、何処にいった!?」
必死に四肢をバタつかせながら、男は何とか顔を上げる。すぐに何かに気付いたように目を見開くと、顔面を覆う泥を払うことも忘れて急いで左右を見渡した。
男が血走った目で懸命に探し求めているのは、今しがた手に持っていたあのトランクだ。
「折角仕入れたのに……! せめてあれだけはどうしても……っ!」
何かに取り憑かれたかのようにトランクを探す男。余程大切なものなのだろう。さっきまで逃げるように走り続けていたことも忘れて、男はひたすら周囲の蒲穂を掻き分ける。
それが、自らの生命を縮める行為だと、頭の片隅で理解していながら――。
「――っ!?」
頭上に影が落ちる。近付いてくる物音も、気配すらも感じさせなかったのに、いきなりだ。トランクを探すのに夢中になっていた男は、そこでようやく現実に引き戻される。
「ぁ……! あ……ぁ!」
怖怖と、目線を持ち上げる。何よりも真っ先に釘付けになるのは、頭の上にある大きな三角帽子。血のように真っ赤に染まった、絶望の象徴――。
そして、見せつけるように高々と掲げられた、巨大な斧――。
雲が流れ、月が隠れる。
暗くなった視界の中で斧の刃が鈍く光り、頭部を飾る赤帽にも負けないくらいに赤い光沢を放つ目が男を捉えた。
そして――
「……ぃ、ぎゃあああああああああッッ!!!」
湿原に、男の絶叫が迸った。
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