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一等客車での一幕
北西方面行きの汽車は正午発だった。マルコムは急いで家に戻り、最低限の荷造りを終えると慌ただしく駅へと向かった。それでもダイヤにはギリギリであり、切符を買ってプラットホームに出た時には既に蒸気機関車が出発の汽笛を鳴らしていた。
「コラーッ! 駆け込み乗車はやめんかーっ!!」
「ワリィ、おっちゃん! 見逃してくれ!!」
顔を真赤に染めて怒鳴り散らす車掌に片手を上げて謝罪の意を示しながら、マルコムは転がるように車両に乗り込んだ。ほっと安堵の息をつくと同時に二度目の汽笛が鳴り、マルコムを乗せた汽車はゆっくりと王都の駅を発車した。
しばらく膝に手をついて息を整えた後、マルコムは気を取り直して旅行鞄を担ぎ直し、先程取った席を探した。
すぐに、目当ての場所は分かった。仕切り用の扉で隔てた先の一等客車。値は張るが客席は少なく、また綺麗に整えられており、清潔である。駅で切符を買う際、マルコムは躊躇うことなくこれを指定した。金など惜しくはない。
扉を開けて中に入る。先客が一名、手前の座席に腰掛けて新聞を広げていた。糊の利いたグレーのスーツに同色のトリルビーハットを被った初老の男だ。右手の人差し指には淡緑の光沢を発する指輪が嵌められており、何処と無く遣り手の実業家のような雰囲気を醸し出している、一等客車に良く似合う手合いだった。
スーツの男はドアの開く音に反応し、目線だけを動かして入ってきたマルコムを見る。
マルコムは無言で彼に会釈すると、そそくさとその前を通り過ぎて窓の近くの座席に腰を下ろした。
「はぁ……」
着替えやら何やらが詰まった旅行鞄を足元に置き、窓枠に頬杖を付いてボンヤリと流れ行く外の景色を眺めながら、げんなりと溜め息をつく。値が張る一等客車なだけあって眺めも良好だが、次々と後ろに流れてゆく赤煉瓦の街並みを見送ってもマルコムの心は晴れない。
俄に課せられた捜査協力命令に辟易しているからというのも勿論一因ではあるが、彼の心をより多く締めていたのは何よりも先日の事件の顛末だった。
(あのくそったれな麻薬取引、まさか警察も目を付けていたなんてなぁ……。ああ、失敗したぜ……。俺がヘマをしなけりゃ、売人共を一網打尽に出来たってのによ……!)
思い出すだに腹が立ってくる。非合法麻薬が社会に出回るのを防ぐ機会をみすみす棒に振った。その失敗をしたのが他でもない自分自身というのが許せない。
(駄目だ、むかっ腹が抑えきれなくなりそうだ……! 何か気分転換出来るようなものは無いか……!?)
心に平穏をもたらしてくれそうにない外の景観に見切りを付け、マルコムは忙しなく部屋の中へ視線を巡らせた。
すると、すぐに興味を惹かれるものが見つかった。同室の実業家めいた老紳士が手元に広げている新聞紙だ。
(見た感じ、うちで発行してるやつじゃなさそうだな。競合社のどれかだろう)
当然ながら、王都には『ハイタウン・タイムズ』以外にも新聞社はある。他所は他所、うちはうち、と考えるマルコムからすれば一々競争相手の名前を覚えるのも億劫なので、紙面から相手の企業を把握しようとは思わないが、ふと他社ではどんな記事を書くのだろうかと内容に関しては気になった。
(なになに……。“アンダーイーヴズに鉄道路線開通! 二年半にも渡る工事がいよいよ竣工に!”……だって?)
こちらに見える位置に置かれた新聞の一面にマルコムは注視する。
『長らく寂れた地方都市と見做されてきたアンダーイーヴズだが、此処数年の発展ぶりには目を瞠るものがある。
特に近年新たな鉱床が発見され、質も量も遥かに増したと言われるバース炭鉱の石炭と、我が国でも極めて珍しい地場産業化に成功した紅茶の輸出に拠る経済成長は見過ごせないだろう。
此の度の鉄道敷設に先駆け、筆者はアンダーイーヴズの市長であるレインフォール氏に突撃取材を敢行した。
“精力的に街を牽引する辣腕の若市長”という肩書に加え、“業界期待のホープ”と目される某ベストセラー作家との婚約も取り沙汰されて一躍時の人となった同氏だが、不躾な要望であったにも関わらず今回の取材には快く応じて頂き……』
(……ああ、あの街の記事か。そういやうちの連中も、何人かそっちに出向いていたっけな)
心中でひとりごちながら、マルコムは文面を目で追った。
世間の耳目を集めるだろうと思われる記事だが、マルコムにとっては余り関心が無い。やれ何処其処の産業が今一番熱いだの、それ誰彼がくっついて目出度いだの、そういう類の所謂慶事というものには昔から興味をそそられない。自分自身にそうした縁が無いからというのもあるが、他者の幸福や成功なんてわざわざ大々的に騒ぎ立てなくても良いだろう、という思いが根底にはある。
幸せな奴は、勝手に幸せになっていろ。将来孫に囲まれて、温かいベッドの上で安らかに朽ち果ててしまえば良い。
自分達が見つけ、暴いて世間に公表するのは、この世の“悪”であるべきだ。
(……そういう意味では、今回の件もそう悪い話じゃないな)
改めて振り返れば、マルコムが国家権力から命じられたのは“殺人事件の捜査協力”なのである。オフレコだから記事には出来ないとは言え、人殺しの凶悪犯を検挙する為に自分が一肌脱ぐというのはやぶさかではない。先日の失態の埋め合わせとして、マルコム自身にとっても納得の行く図式である。
(ま、今更逃げられないんだ。いっちょ気楽に構えて、現場に着いたらきっちり働きますかね)
どうやら、ようやく胸の内で燻る苛立ちにケリを付けて心機一転出来そうだった。
(ありがとうよ、見知らぬじっちゃん! あんたのお陰で気分転換出来たぜ……ん?)
眉から険しさを抜いたマルコムが、感謝の念を込めて老紳士に目を向け直した時である。先程の記事の続きの文面がふらりと目に入ってきた。
『……と、このようにレインフォール家には深い歴史があり、中でも現市長の祖父にあたるチャールズ・レインフォール氏は、かつて東征貿易公社に籍を置いていたという我が国きっての――』
「――っ!?」
――《東征貿易公社》。
その一語が、平静を取り戻そうとしていたマルコムの心を再び激しく掻き乱す。先程までとは比較にならない激情が瞬間的に喉の奥から込み上げてきた。
「……けっ!」
「むっ?」
衝動に突き動かされるままに思わず口をついて出た悪態が耳に入ったのか、老紳士が新聞紙から目を上げてマルコムを見た。
「あ……いや、その……すんません。何でも無いっす」
非難とまではいかないものの、怪訝そうな色を浮かべる老紳士を見て、マルコムも途端に冷静さを取り戻す。まずい一言だったと反省し、バツが悪そうに頭を掻きつつも素直に謝罪した。
「ふむ……」
ところが老紳士はそれで済ませてはくれなかった。ジロジロと値踏みするような視線をマルコムに向けた後、おもむろに口を開いて語りかける。
「君、何か嫌な出来事でもあったのかね?」
穏やかではあるが、有無を言わせない重圧が声からは感じられた。面倒くさい手合いだ、とマルコムは直感する。
「いえ、そういうのじゃないんすけど……。今のが気に障ったってんなら誤ります。ほんとすいません」
若者に説教したがる老人は大勢居る。特にこのような、紳士然としているような連中は大抵そうだ。自分が富める者の立場、いわば成功者であることを自覚して、卑賤の身に甘んじている後進達を引き上げてやらねばならない……とか謎の義務感を抱いているからだ。本人は気遣っているつもりなのかも知れないが。
まともに相手なんてしないに限る。ここは下手に出ておくのが一番だ。
「わざわざ一等客車を取る程だから物心両面で余裕を持っているものと思ったが、存外そうでもないのかね?」
何処が気に食わないのか、老紳士は追及の手を緩めない。マルコムの平謝りに軽薄さでも感じ取ったのだろうか。
「…………」
――こりゃ駄目だ、何を言っても無駄だ。沈黙するべし。
職業柄他者と関わることの多いマルコムは、これまでの経験から最善の選択肢を導き出してそれに従う。老紳士の目から逃れるために、先程見限った窓の外の風景へ再び顔を向け直した。
「そんな風に逃げてばかりでは、折角の人生も十分に楽しめないのではないかね?」
追い縋るように老紳士が言葉を投げかけてくる。声に嫌味の響きは加わっていない。が、上から目線のその言葉は尚更マルコムの態度を硬化させるだけである。
「…………」
沈黙を守りつつ、更に身体を車窓側へ傾ける。半ば殆ど老紳士に対して背を向ける形になり、それが何よりのマルコムの意思表示になった。
はぁー、と長い溜息が老紳士の口から漏れる。
「何があったのかは知らんが、どれだけ目を逸らそうと過去からは逃れられん。今の君は、積み重ねられた過去の上に立っておるのだ。それは、忘れてはならんぞ」
「――っ!」
その一言に、マルコムは一瞬だけカッとなりかけた。
(そんなこと、言われるまでもなく分かってるっつーの!)
荒々しくそう言い返してやろうかとも思ったが、今度はギリギリのところでその衝動を押し留めた。この老紳士にぶちまけたところで、何の得にもなりはしない。
言うだけ言って気が済んだのか、老紳士はあっさりとマルコムから視線を外して再び新聞に目を落とす。それきり興味を失くしたように、彼はもうマルコムには目もくれなかった。淡緑の指輪だけが、室内の光を反射してチラチラと光るだけだ。
「…………」
マルコムもまた、窓の外へ向いた姿勢を維持したまま身動ぎしなかった。気まずさもあったが、それよりも新聞と、勝手に勘違いした老紳士のこれまた身勝手な説教の所為で、激しく波風が立っている自分の心を鎮めようと必死だったのだ。
(落ち着け……! あれはもう、とっくの昔に解散している……! 既に過去の話だ、終わったことだ。今更怒りをぶつけたところで、何にもなりゃしねーんだよ……!)
ボオオォー……!! という汽笛が鳴る。多くの車両を力強く牽いて走る蒸気機関車が発するその音は、今のマルコムの心中を代弁するかのように荒々しく、肚の底に響くほどの重圧感を伴っていた――。
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