1.無い袖は振らない。

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 お母さんは座るとすぐに、剛が渡したお茶を煽るように飲み干して、傍の扇風機を回した。カバンから取り出した扇子をパタパタと仰ぎはじめる。  夏らしい水饅頭と風鈴が描かれたもので、脇に『石富』と、屋号のようなものが添えられている。 「梨乃さんは仕事は今何してるん?」 「病院の受付をしてます」 「へぇー、内科? 皮膚科? 耳鼻科? 他に何がある? 個人のとこなん? 家からは近いん?」  早いペースで畳み掛けられて、頭がついていかない。 「えっとあの……」 「大学病院の総合受付だよ」 「え!」  つい、自分が先に反応してしまった。  ん? っと、不思議な顔をされて、慌てて返事をして大きく頷く。  大学病院で働いているって、梨乃さんすごい人なのかな。 「まぁ〜立派やね。うちのこんな子やけど大丈夫なん?」 「余計なこと言うなや。ちょっとトイレ!」  隣から茶々を入れる剛は、照れたようにそっぽを向いて、席を立つ。  毎日、電話で求愛を繰り返していたことを思い出して、少しかわいいなと思う。  席を外すと同時にお母さんは、窓を閉めてエアコンをつけた。静けさの中にファンの音だけが響く。二人きりの沈黙に緊張感が走る。お母さんは席に着くと、快活の中に、柔らかさを感じさせる口調で語りかけてきた。 「梨乃さん、おおきにね。結婚願望が全くなかったあの子が結婚なんて、よっぽど貴女のこと信用してるんやなぁ」 「結婚願望なかったんですか?」 「あら。余計なこと。ここだけの秘密ね。結婚を一度破断になってから、もうずっと、する気はないゆうてね」 「あの……実はお母さん、私…………その……剛さんはとても愛情深い人で。だから、必ず次は幸せにな……いやその……私たち、今、とても幸せです。ただ、私たちのペースでやっていきたいので、お時間をいただくかもしれません」   私は何を言っているんだ。  なぜここにいる私は梨乃さんじゃないのだろう。お母さんが真実を知ったら悲しむに決まっている。そう思ったらつい口から出てしまって、もう止められなかった。    これで、自分が梨乃さんではないと、弁解できなくなってしまった。でも梨乃さんは、出すべき招待状を彼に持ってきたんだから。それは、結婚のゴーサインなわけで。話せば、分かってくれるはず。  この一件で、お母さんに私の顔が知られても、1日会っただけで人の印象なんて定着しないもの。剛と梨乃さんで、なんとか取り繕って押し通せばいい。    
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