2、ジンクホワイトの卓-2

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2、ジンクホワイトの卓-2

 午前中の二コマ目、郁也は文系科目の講義に出て見ることにした。  教養科目は理系と文系に別れ、それぞれ所定の単位数を取らなければならない。郁也たちが理系が得意でも、理系の講義ばかり取っていては卒業出来ないということだ。  郁也は三階の端の小講義室へ向かった。学院の教室よりも狭苦しい小さな部屋だった。  郁也はエントリーカードに講座名と自分の名前を書き込んだ。西洋史C、谷口郁也。カードを教卓に置けば登録は完了だ。  席に戻る郁也は背後から声を掛けられた。振り返ると、さらさらストレートヘアを軽く横分けにした田端が立っていた。 「やあ。君もこれ取るの」 「多少興味持てそうかなと思って」  自然と田端は郁也の隣の机に座った。  何も喋らないのも不自然だ。郁也は話題を探した。田端が先に口を開いた。 「歴史なんて全然知らないけど、従いて行けるかな」  若干ぎくしゃくした物言いが、田端も同じ思いだったことを語っていた。 「中等部以来だもんね」  ボクたち高等部では歴史取ってないから。郁也は昨日の松山の言葉を思い出しながらそう言った。この田端は二組だったらしい。ということは、選択科目は郁也たちの一組と同じ、「物・化・地理」だ。  田端は郁也をちらっと見て、 「君はどうしてこの大学を選んだの」 と訊いて来た。 「どうしてって?」 「……君なら、もっと難しいとこ入れたんじゃない?」  郁也は、 (それはそっちの方じゃないの) と思った。    この男はB大の工学部にも合格したと聞いた。工学部と理学部の違いはあるが、どう考えてもB大の方が世間の評価は高い。  だがそれを持ち出せば、話が嫌らしくなってしまう。 「担任の寺沢さんにはここの医学部を勧められたけど、冗談だと思って断った」 「冗談?」 「うん。ボク勉強嫌いだし」 「嘘だろう」 「嘘じゃないよ。高得点をマークするためのトレーニングって、何か頭の回路破壊しそうじゃない? 自分でもの考えられなくなりそうで」  淳子の受け売りだ。郁也の母は郁也と佑輔に、「お勉強ばっかりしちゃ駄目よ」と何度も繰り返し言っていた。  非現実的な仮想問題ばかりやっていると、現実の問題解決能力を損なってしまうというのだ。  種苗メーカーの研究所を統率している彼女は、近年の受験戦争の申し子のような研究者を嫌と言う程見て来たのだろう。 「ふーん。君くらい優秀だと、考え方も違うんだね」  聞きようによっては嫌味な言葉だが、田端の口調は不思議とそういう疑念を掻き立てない素直なものだった。  定刻より十分遅れて講義が始まった。  田端の質問。「君はどうしてこの大学を選んだの」  答えは簡単だ。郁也は担任だった寺沢に相談したのだ。 (瀬川君とボクとが一緒に行ける大学はありますか)  郁也には何を勉強したいという確たる目的などなかった。佑輔が「同じ街の大学へ行って、そこでふたりで一緒に住もう」と、そう言ってくれたから、この大学という目標が出来ただけだ。  郁也は先のことなど考えたこともなかった。  どう考えても、怖い考えにしかならない気がしたからだ。  女のコの身体を手に入れるか、男のコのままで生きていくか。それにすら答えを出せないまま立ち往生していた郁也に、明るい将来のヴィジョンなど描ける筈がなかった。郁也は考えないように、考えないようにして生きてきた。  明るい、未来。  郁也は昨日父の前で聞いた言葉を思い返した。  佑輔は郁也の父にこう宣言した。 (僕は一生、郁也君がもう来るなと言うまで、彼に従いて行く積りです)  黒板がぼやけた。  佑輔は言った。郁也が大人になって、年老いて枯れていくのをずっと側で見ていたい。郁也の隣に誰かがいることを許されるなら、それは自分でありたい、と。  もうこれ以上望まない。  女とか男とか、もう、どうでもいい話のように郁也には思えた。  もし郁也が今から女のコになっても、そこで時間は止まらない。刻一刻と年老いて行く。いずれにせよ、キレイな時間は僅かしかないのだ。  佑輔が隣にいてくれる、未来。一緒にどこまでも歩いて行ける、時間。  昨日佑輔は父に詫びて、ふたりが十六だったときに起きたことを語った。 (僕は郁也君が好きでした)  佑輔は語りをそう始めた。  ふたりが初めて会話を交わし、「白雪姫」になった郁也をちっとも変じゃない、可愛いお姫さまだと言い、そしてその証明に佑輔は、女のコの姿の郁也を夏休みプラネタリウムへ連れて行った。帰りに寄った公園でつい郁也の唇にキスをして、慌てて走り去った佑輔。  郁也はてっきり、自分があんまり佑輔を好きになったから、自分の気持ちが佑輔に魔法を掛けたと思っていた。  自分のような人間が本来手を触れてはいけないものを、強い願いが摂理を曲げて、掠め取ってしまったようで後ろめかった。  だが、昨日の佑輔の言葉はどうだろう。  庭を通り掛かる騎士が、バルコニーの姫に出会うように。  理科室の窓から顔を出した郁也が、佑輔の声に視線を下ろして、初めてふたりが交わした言葉。初めて互いを見交わした視線。  あのとき。  あのとき既に佑輔は。 (……信じられない)  郁也のシャーペンを持つ手が震えた。 (信じられない。ボクは、ボクは)  佑輔が優しく郁也を抱き締める腕。抱き取られた郁也を温かく包む胸。 (あのとき、もう、佑輔クンに)  それを郁也が望むことを。  それを郁也が求めることを。  あのとき既に佑輔は、願っていたというのだろうか。 (初めから、佑輔クンは、ボクのこと……)  郁也は頬杖を突く振りをして目尻を隠した。
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