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2、ジンクホワイトの卓-3
「熱心に聴いてたね」
講義が終わって田端が言った。
「え」
「興味の持てる内容だった?」
「ああ。……うん、まあ」
郁也は曖昧に返事をした。郁也が熱心だったのは自分の想いを追い掛けることにで、講義にではなかった。
「単位は取らなくちゃいけないし、この時間はこれにするよ」
郁也は礼儀として「君は?」と訊いた。講義へのエントリーは二週目まで許されている。一回目の講義に出て興味が湧かなければ、来週違うコマへ顔を出すことも可能だ。
「そうだな。俺もこれにしとく」
田端はふっと笑って続けた。
「高嶺の花だった君ともこうして喋れたしね」
(学院生め……!)
郁也は思わず苦笑いした。
講義室を出て、長い廊下を歩く。足音が響くほど静かだ。小講義室が割り当てられるだけあって、人気の薄いテーマだったらしい。
「これからどうするの?」
二コマ目が終われば、三コマ目までは間が空く。午後の講義を取るものはここが食事の時間になる。田端は郁也に曖昧にそう訊いた。
「松山君たちと学食で待ち合わせてる」
松山は田端とは顔馴染みだ。体育の授業は三年間一緒だった仲だそうだ(郁也は覚えてないが)。
松山の驚き様から言って、佑輔も彼とは馴染みだろう。周りに知った顔が少なくなるというのは、淋しいものに違いない。
「田端君も、一緒にどう?」
郁也は田端に笑い掛けた。田端はお洒落な黒縁メガネの奥で、数回瞬きした。
「あ、谷口くーん」
松山の隣で橋本が手を振る。一コマ目が終わったとき、手回し良く松山が声を掛けて置いたものと思われる。
郁也がちらっと松山の顔を見ると、松山は得意気に頷いた。
松山が郁也の後ろの田端を見つけて声を掛けた。
「おお、田端。お前も来たのか」
「ああ。同じ講義取ってて」
と田端が答える。郁也は松山の向かいに腰掛けた。祐輔の隣だ。田端は松山の向こうに鞄を下ろす。
「何取ってたの?」
と橋本が郁也に笑顔を向けた。
今日の橋本はデニムのスカートに若草色のチェックのブラウス。ベージュのパーカーが可愛らしいというか子供っぽいというか。綺麗な顔立ちをしてるのに、ファッションセンスで台無しだ、と郁也は思う。
「西洋史C」
「へえ、それ、どんなことやるの」
「何か、キリスト教思想がヨーロッパ人の発想に及ぼす影響、みたいな」
だったよね、と郁也は田端に水を向けた。
「ああ、そんな感じ。ジョークの解説とかやるらしい」
「わあ、何だか面白そう」
橋本は無邪気な顔をして笑った。
「ふたりは? 同じ講義だったの?」
と橋本が松山と佑輔を手で指した。
「ああ。何だっけあれ」
と佑輔が興味なさそうに松山に振る。
「日本文学A。『源氏物語を読む』ってヤツ」
松山は元気よくそう答えた。
「橋本さんは?」
「あ、あたし、『教育原論』」
「へえ、橋本さん、教職取るの」
「まあ、一応、取ろうかなって」
「先生になりたいの?」
松山は矢継ぎ早に質問する。松山なりに、橋本が早く彼らに馴染めるよう、気を遣っているのだ。
まあ、それ以上の意図もあるかもしれない。
「なりたいって訳じゃないけど、女性が長く勤められる職業って、まだ多くないでしょ。教員なら女性比率高いし、ほかの職種よりは管理職の女性登用が進んでいるから、女性のあたしでも勤めやすいかなって」
「女性が勤めやすいってことはないみたいだけどね」
郁也はきっぱりと言い切った。
「谷口くん……」
「小中高でそれぞれ大変さは違うだろうけど、生徒の年齢が低ければ体力が要るし、高ければ部活だ何だで時間外の労働が増える。土日も休めなかったりして、所謂家庭を持っても勤めやすいってことなら、そんなにいい職業じゃないかもよ」
それより研究職の方が、女性にとって勤めやすいかも。そう郁也は付け足した。
「まあまあ、お前、ひとの将来の展望に水を差すようなこと言うなよ」
松山が取りなすような口調で言う。そんな松山に構わず橋本が郁也を見た。
「確かに、高校であたしバドミントンやってたんだけど、顧問の先生は土日もあたしたちと同じように学校に来て、一緒に練習してくれてた。そのとき、先生にお休みはなかったものね」
橋本は、
「まあ、いいんだ、卒業するまでに成る丈選択の幅を増やして置こうってだけだから」
と軽い調子で笑った。
田端が、
「そうか、『教育原論』かあ。だからほかの講義は客の入りが少なかったんだな」
と呟いた。それを聞いた橋本が、
「おもしろーい、『客の入り』だなんて」
と楽しそうに笑った。
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