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2、ジンクホワイトの卓-5
大学のクラス分けは基本ほとんど意味ないが、英語の講義だけはクラス別だ。
英語は第一外国語として多くの学生が選択するため、受講人数を管理しやすいよう、クラス単位に設定されている。多くの学生はこのクラス英語で、半ば自動的に顔を合わせる。
クラス英語以外には、会話習得や映画鑑賞などオプション的な講義もあった。
四コマ目、郁也はもはやいつものメンバーとなってしまった松山、橋本、田端とともに、クラス英語の講義室にいた。
二コマあるクラス英語のうちこの日のものは、理学部生向けに、そっち系の論文を読ませるものだった。
専門用語に慣れさせてやろうという、サービス精神旺盛……というか何というか。専門用語など辞書を引けば分かるし、捻りの利いたレトリックや難しい時制もない論文だ。
郁也は内心、大した勉強にはなりそうもないな、とうんざりした。
時間割によるともう一コマの方は、何だか文学作品を読むらしい。面倒でも、そっちの方が退屈せずに済みそうだ。
ガイダンスの日にクラスの役員を引き受けた学生が、何やら紙を配って歩いた。
名前やら出身校、住所、趣味や特技などを書き込むようになっている。名簿の作成にご協力ください、ということらしい。
どこにでも、こういったリーダーシップを取るのが得意なヤツがいるものだ。
お蔭で郁也などはラク出来る。有り難いことだ。こんな用紙に記入することなど何程のことでもない。
以前の郁也なら、煩わしいと面倒がっただろう。
以前ほどには他人を警戒しなくて済むようになった。今の郁也にはこんなこと、大したことではない。それに真面目に書く必要もなさそうだ。
郁也が用紙を前にシャーペンを握ったとき、教員が入って来た。
「ああ、疲れたな」
講義終了後、松山がぐったりした声でそうぼやいた。
「松山君、今日はずっと出突っ張りかい?」と郁也は訊いた。
「いや、一コマ目は取らなかった」
それでも二、三,四と連続して初めての講義にエントリーし続ければやはりきつい。学院時代の四十五分授業と違って、大学の講義は九十分ぶっ通しだ。
郁也がそう言うと、「いや、違うんだよ」と松山が首を振った。
「俺、サークル入ったんだけど」
「へえ、どこに入ったの?」
「演劇部」
「あはは、結局そうなったんだ」
「いや、それがさあ」
松山が言うには、学食前で繰り広げられる新入生勧誘のためのパフォーマンスが何ともひどいものだったらしい。
パフォーマンスの専門集団とも言うべき演劇部なのに、芝居もさることながら、ヴィジュアル面での拙さはもうどうしようもなかったと。
パフォーマンスの休憩時間に、見かねた松山はついついひとりの女のコの眉毛を手直ししてしまい、新入生おひとりご案内、と相成ったということだ。
「入った当日に、部員にメイクのレッスンだよ。ホント、もう疲れたわ」
「何だかんだ言っても、松山君は面倒見いいからね」
と郁也は笑った。この松山がいてくれたお蔭で、郁也はこうして学院を無事に卒業できたようなものだ。
松山と、それからあと数人の気のいい仲間たち。皆元気にやっているだろうか。
プレイボーイの矢口は、当初の予定通りノースタディーでA大の建築学科に入学した。郁也たちと同じ街の大学なので、近いうちに会う機会もあるだろう。
美術部の中野は今春芸大に落ちて、この春から東京で予備校生活だ。
合格間違いなしと思われていたので周囲は驚いたが、本人は意外とケロッとしたものだった。まあ、心の中でどう思っているかは分からないが、ヤツのことだ。大して気にはしていないだろう。
松山があんまりぐったりしているので、学食で茶でも飲んで休もうということになった。橋本も田端も付いて来た。今日は誰も五講目を取らないらしい。
郁也たちはテーブルの一角に陣取った。疲れ切った松山のために、橋本が飲みものを持って来てやると言い、ついでに郁也と田端にも「何飲む?」と訊いた。
「俺、コーヒーがいいな」
「ボクも」
「オッケー」
そう言って笑顔で立ち上がる橋本に、「ひとりで四つ持つの大変だって」と松山が付いて行った。何のための気遣いか分からない。田端が笑った。
郁也はさっき配られた用紙を取り出した。面倒なものはとっとと片付けるに限る。
「あ、俺もやっちゃおう」と田端も郁也に倣った。
田端が拡げた用紙が目に入った。既に数項目書き込んである。
「あ……!」
見たことのある、角張った文字。縦の線と横の線がいつもほぼ九十度の角度で交差する特徴的な字で、一度見ると忘れられない書き方だった。
思わず郁也は小さく叫んでいた。
「田端君って、もしかして」
郁也は用紙に目を遣ったまま固まった。
田端はしばらく無言だった。しばらくして田端は「やっぱりな」と呟いた。
「無記名じゃ、なかった筈だけど」
「だって。だって……」
東栄学院に通っていた頃。毎年学院祭のメインイベントの仮装行列で、学院一のお姫さまとして賞を獲る郁也は、確かに目立つ存在だった。
引っ込み思案で内気な性格の郁也をこっそり慕うものは少なくなく、クラスの外にもファンは多かった。
寮には郁也の写真が飾られ、郁也の教室の机には、月に数通恋文のような手紙が入っていたものだ。
そして田端のこの筆跡に、郁也は確かに見覚えがあった。
「ああいうの、読まないもん。読んじゃったら、悪いでしょ」
男子校は一種の病気の巣窟である。片方の性のみに偏ると、集団ヒステリーじみて来る。
郁也のような可愛いコに熱を上げるのも、青春期特有の熱病のようなものだ。
そこでは郁也の存在はウイルスのようなもので、感染しても時間が経てば皆ケロリと治ってしまう。
ウイルスは他にも色々あって、バイクだったり、ロックだったり、アイドルだったり、様々だ。
遠くから郁也に熱を上げる振りをするだけで、本当に郁也の側にいて、郁也を抱き締めてくれようとするものはいない。そんな連中に好かれようが、嫌われようが、郁也は一向に構わなかった。
「ボクは、もう他の誰の気持ちにも応えられないんだから……」
郁也はそれらを読むことなく処分した。
佑輔の目に入らないようそっと鞄に仕舞い、自宅に帰ってシュレッダーに掛けた。内容を読んでしまわないように注意しながら。
どうでもいいと思いつつも、破断しているとき郁也の胸は痛んだ。
郁也はひとを好きになる切なさ、そのひとのを想うときの心の疼きを、既に知っていたからだ。
「……でも、字は覚えていてくれたんだ」
田端は低い声で囁くように言った。
「一番、綺麗な字だったから」
郁也は更に小さくそう答えた。
やいのやいのと言いながら、松山と橋本が飲みものを持って戻って来る。
「謄写版の鉄筆の字体だって、よく祖父に言われたよ」
「トウシャバン?」
「あはは、分からないよな」
松山がタンとカップを置いた。
「お待たせ。何だ。何か可笑しいのか」
田端は首を振った。
「いや、別に」
「はい、コーヒー。どうぞ」
と橋本が郁也と田端の前にカップを差し出した。「ありがとう」と田端は嬉しそうにそれを受け取る。
橋本は可愛い。可愛い女のコが普通に周りに存在する日常。田端はそうした日常に帰って行くだろう。
いっときの熱病は、田端の身体から駆逐されようとしている。
そうして郁也の側には、結局ひとりしか残らない。そのひとりを大切に、かけがえのないものとして、郁也は生きていく。その幸せに、身を震わせて。
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