3、サファイアブルーの水槽-1

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3、サファイアブルーの水槽-1

「まほちゃーん」  郁也は勢い良く手を振った。 「お待たせ、いくちゃん。待った?」 「ううん、ボクも今来たとこ」  土曜日、今日こそは淳子の指示の買い物を済ませようと、郁也は真志穂と繁華街で待ち合わせをした。  女のコの服を買うので、選んだり試着したりしやすいように、郁也は朝から大慌てで女のコの姿に自分を作った。 「いくちゃん、そのリップいい色だね」 「あ、これ? この間買ったの。佑輔クンとふたりで買いものに来て」  地方随一の都会の、最も賑わう界隈。その人出は並でない。  こんなところに、ひとりで待ち合わせの相手を待って立っていられる程、郁也はこの姿に慣れ、自信を持っていた。  これまで他人に見抜かれたことはない。  でへへ、と相好を崩す郁也を、真志穂はちょっと意地悪に突っついた。 「で? 新生活はどう?」  郁也の瞳が一気に潤んだ。 「もお、毎日幸せで幸せで、アタマおかしくなっちゃいそう!」  郁也の全身からまばゆい幸せオーラが放出され、真志穂はくらくらした。真志穂に構わず郁也は喋り続けた。 「初めて抱き締められたときも『生きててよかった』って思ったけど、何て言うの、これはそう、『お父さんお母さん、ありがとー!』って感じ。ボクをこの世に生んでくれてって。幸せってこれかあ、って。世の中に何でラブソングやラブストーリーがこんなに氾濫してるか、さっぱり分からなかったけど、今はその意味がよく分かる。人間の生きる価値や目的は、社会でどういうポジションで何をするか、だけじゃないんだね」  一気に喋り終えた郁也はそこで大きく息を吐いた。真志穂は嵐が過ぎ去るのを待つように、一呼吸置いてからようやく口を開いた。 「……よかったね。いくちゃん、そんなに幸せなんだ」 「うん!」  満ち足りた笑顔で郁也が頷く。その唇はぷるんと潤って、その辺を行き過ぎるどの女のコよりも愛らしい。真志穂はそんな郁也を見て複雑な顔をした。  郁也をキレイな可愛い女のコに作り上げたのは真志穂だった。  毎日男子校に学ランで通う郁也を郁也の中の女のコが嫌って、どうしようもなくなっていたのを救ったのは、真志穂の部屋で過ごす時間だった。  真志穂の部屋で、彼女の手により、美しいお嬢さんに変身する郁也。キレイに飾って貰って、スカートの襞を揺らして、髪のリボンもふわっと揺れて。  真志穂はやがて乞われるままに、郁也に自分の技術を伝えた。皮膚を整えて、顔立ちに少しの修正を加えて、変身する魔法を。  本当は真志穂は女のコの郁也を外界に解放したくはなかったろう。欲望に塗れた人間の世界に、その美しい生きものを放してしまうのを怖れていたろう。  郁也はいつしか気付いてしまった。  キレイに装った自分の姿は、真志穂の心が引き裂かれた跡に出来た剥き出しの断層を、修復する機能を持っていたことに。 「永遠に無垢なる少女」。郁也は真志穂の前でそれを演じていた。  だが、郁也の願望は真志穂のそれとは違っていた。  郁也は欲望の対象としてありたかった。  素敵なひとに愛されたかったのだ。 「ごめんね、まほちゃん」  先日佑輔と登ったエスカレーターを、真志穂と並んで登りながら、郁也は真志穂の耳許に囁いた。 「ん? 何が」 「ずっと黙ってて。その……」  郁也は言い辛そうに目を伏せた。何と言ったものか。  十六の頃、郁也は真志穂に自分を可愛い女のコにして貰って、佑輔に逢いに行った。  真志穂のお蔭なのに、郁也は初めてキスされたことも、花火を見上げていたふたりの身体と身体がぴったり寄り添っていたことも、初めて佑輔の部屋に行ったことも、どれも真志穂には言えなかった。  十六歳の男のコの欲望の生々しさをそのまま語るのもどうかと思ったし、それに、真志穂は女のコなのだ。  郁也が佑輔と仲良くなるのに、どれだけ大変な思いをして、悩んで、自分を責めて、この身体に生まれ付いたことを恨んだか。  それを。  真志穂は初めから持っている。  女のコの身体を。  何を怖れることなく、男のコの胸に飛び込んで行ける絶対的なパスポートを。  正直に言って、郁也は悔しかった。心の奥底では、真志穂にだって嫉妬していた。そんな自分がまた悔しく悲しい。  とても言えなかった。 「ボクが佑輔クンと、そういう風になったこと。まほちゃんのお蔭なのに。ボク、ホントはずっと、報告しなきゃと思ってたんだ。報告して、そして、ありがとうって。まほちゃんのお蔭だよって。でも、言えなかった」  やっぱり恥ずかしくって、と郁也は舌を出した。 「ボクの今のこの幸せは、みいんなまほちゃんのお蔭。ありがとう、まほちゃん」 「いくちゃん……」  真志穂は郁也を見ながら、焦点はどこか遠くに合わせていた。  遠いどこかを見つめたまま真志穂は言った。 「あたしはいくちゃんのお姉さんなんだから。いくちゃんがハッピーになるのは、何より嬉しいんだから。そのために、色々協力したんだから」  もっともっと、幸せになって。真志穂はそう言って郁也に笑い掛けた。  佑くん、今頃何してるの? と真志穂が尋ねる。  可愛いいくちゃんをよく何時間も手放したね、と郁也を揶揄った。郁也は赤くなった。 「佑輔クン、今日は一日バイトでいないの」 「そうなんだ」 「うん。今朝早く、『稼いで来るぞー』って出て行った」  それを寝起きの郁也がパジャマのままで、小首を傾げて送り出したという訳だ。  真志穂は想像してむっとした。こんな可愛い従弟を、あんな男に。  ふたりは婦人服の売り場を歩いた。 「この間佑輔クンと一度来たんだけど、どれも何だかよく分かんなくて」 「いくちゃん、どんな服が欲しいの」 「うーん。こうしてまほちゃんと街歩いたり、佑輔クンと出歩いたりするときの服」  ほら、ボク、人前で声出せないから、ひとりでは街に出られないし。  郁也は目を伏せた。 「どーして」  真志穂は容赦ない。 「だって。低いでしょ、ボクの声」  幾ら姿が完璧でも、郁也の声は変声期をとうに過ぎた男のコのそれだ。 「いくちゃん、唄、歌って御覧」 「え?」 「いいから。いくよ。『あんなこといいな、出来たらいいな』、いい? この、『あんなこといい……』の『い』」 「『い』?」  郁也は真志穂の言う通りに小さく声を出した。 「そうそう。その高さで、囁くように喋って見て。……そうそう。ほらね。それなら誰も変に思わないよ。いくちゃん背もあるし、ちょっとハスキーな方がイメージに合う。女のひとでもタバコで声枯れてもっと野太くなってるひと、一杯いるよ」  確かに。これなら、買い物のとき店員さんと話すくらいは何とかなりそう。これでまた郁也の世界は広がるのだろうか。 「わあ、嬉しい。ありがとう、まほちゃん。まほちゃんて、ホント、ボクのド○えもんだね」 「その表現、とっても、光栄」  真志穂は唇を尖らせた。
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