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3、サファイアブルーの水槽-4
約束の場所までどのくらい掛かるか分からなかったので、郁也たちは早めに部屋を出た。
地下鉄を乗り換えてS野で降り、待ち合わせの場所に着いたときにはまだ誰も来ていなかった。
日曜日なのに、どの出口からも次々とひとが溢れ、行き交っていた。日曜でこれなら、金曜の夜などはさぞ混み合うに違いない。
行き交うひとの中で、明らかに不審な行動を取る男たちがいた。黒いコートに身を包み、女性にのみ声を掛けている。ナンパとも違うその動き。
郁也は気が付いた。謂わばこれは組織的なナンパ。風俗店のスカウトたちだ。
女性は女性であるというだけで広くその商品価値を認められる。これだけ性解放が進んだ今の世にあっても、男性の性の価値はこれほどメジャーではない。
「よお。まだほかは来てないな」
松山がやって来た。
「おお」
佑輔が返事をした。
「何見てんだ」と松山が郁也に訊いた。郁也は風景から目を離すことなく松山に答えた。
「この世界で性の対称性は破れているな、と思って」
「はあ? 何だそれ。俺は物性論までは何とかなっても、量子論はダメだぞ」
(うーん、いい反応!)
松山の返答に少し満足しながらも、コートのポケットに手を入れたまま、郁也はつんとして言った。
「人数多い方がいいんでしょ。まほちゃんも呼んだからね」
松山はたじろいだ。郁也を指差し佑輔に小声で尋ねる。
「何怒ってんだ?」
佑輔は笑いを含んだ声で答えた。
「直接本人に訊いてみたら」
こうして待ち合わせをしていると、自然と身体は改札口を向いてしまう。集まるひとが皆地下鉄で来るとは限らないのに、不思議なものだ。
「あ、橋本さんだ」
ホームから上がって来る彼女の姿を、松山は早々と見付けてしまう。どんな格好をしているのか、春物のベージュのコートに隠されて、中の衣装は分からない。
改札を出た橋本に、黒いコートのスカウトがひとり取り付いた。ティッシュか名刺のようなものを彼女の手に無理矢理握らせ、何かしつこく話している。
親切そうなその男の笑顔に、何のことだか分からない橋本は困惑しつつも冷たくあしらえずにいた。
「あーあ、捉まってるよ。橋本さん、素材はいいからなあ」
松山は微妙に失礼な台詞を呟いた。
橋本はK市からひとりでこの街にやって来たと言った。まだ都会の流儀には慣れていなかろう。
郁也はすっとそちらへ歩き出した。
松山が「おい、谷口」と郁也に声を掛けたが、郁也は立ち止まらなかった。橋本に付き纏う黒コートの前に回り込んだ。
郁也は橋本の肘を掴み、冷たい声で言い放った。
「このコ、ボクの連れだから」
郁也の横顔に、たじたじとスカウトの男は退いた。郁也は橋本の肘を掴んだまま歩き出した。
「あ、あれ、何? 何かのキャッチセールス?」
焦った橋本が郁也に訊いた。
「『売ろう』っていうより、『買おう』って方かな」
「『買う』? あたしから?」
橋本は何も分かっていない。子供っぽいのは服装だけではないのかも知れない。
郁也は構わず、橋本を引き摺るようにして待ち合わせ地点に戻った。
郁也がパッと掴んでいた肘を離したので、橋本は一瞬よろめいた。橋本は足に低めのパンプスをはいていた。
「橋本さん、大丈夫だった? 駄目だよ、あんなの相手にしちゃあ」と松山。
(何が「駄目だよ」か。面白がって見てた癖に)と郁也は松山をじろっと睨んだ。
「でも、助けが行っただろ。よかったな、橋本」
そう言って佑輔が郁也をちらと見た。郁也は照れ臭くなってそっぽを向き、ポケットに手を突っ込んだ。
「あとは、お姐さんと田端だな」と松山が時計を見た。
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