3、サファイアブルーの水槽-9

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3、サファイアブルーの水槽-9

「ねえ、見て見て! カワイイでしょ」  すっかりはしゃいだ声で郁也が橋本を彼らの前に押し出した。  郁也に肩を抱かれるようにして連れて来られた橋本は、髪を斜めにすっと分けられ、上品な薄化粧を施されて、さっき現れた子供っぽい様子とはまるで別人だった。  ヒュ――っと矢口が口笛を鳴らす。 「いいねえ。さっきのボーイッシュな感じも素敵だったけど、こんな風に磨かれるとまた魅力がアップするね」  矢口はすかさず「橋本さん、名前何ていうの」と尋ねる。 「あ、佳織です。橋本佳織」 「佳織ちゃんか。じゃあ、佳織姫。わたくしめに祝福をお授け下さいませ」  矢口はそう言って芝居掛かった仕草で橋本の前にひざまずいた。   「え? あの、ええと」  橋本は困った顔をして隣の郁也を振り返る。 「キスしてくれって」  本当にもう、どうしてこの男はこうもまあ、と呆れながら郁也は言った。 「靴の先で蹴り飛ばしてやったら?」  郁也の言葉に真志穂も田端も大笑いする。  橋本は少しの間「え? え?」と焦っていたが、えい、と覚悟を決めたようだ。  恐る恐る矢口に近付くが、その先の動きが分からない。矢口がその逡巡を読み取って、自ら右手を差し延べた。  橋本がその甲に唇を当てると、大きな歓声が上がった。 「あっはっは、馬鹿だねえ。聞いた? さっきの言葉。『祝福をお授け下さい』だよ」  郁也が腹を抱えて大笑いする。 「ほーんと。矢口君、君、ちんたら学生なんてやってるバアイじゃないよ。とっととホストクラブに勤めなさいよ。その若さをおろそかにしちゃイケナイ」  真志穂が腰に手を当てて矢口に諭す。矢口は軽く上体を倒し、「お褒め頂いて光栄です」などとやる。周囲はまた爆笑の渦だ。  松山が「かおりちゃん、かあ。雰囲気に合って、いい名前だねえ」と隣の田端に同意を求める。田端も「うんうん」と頷くと、橋本は、 「そうかなあ? 本人より何かちょっと、可愛過ぎない?」 と訊いた。照れ隠しなのか、日頃からそう思っているのか。 「自分で気に入ってないの? その名前」   郁也は橋本の顔を覗き込んだ。橋本はポッと赤くなって「そうじゃないけど……」と口を濁した。 「じゃ、いいじゃん。今日から君は『かおりちゃん』。いいね」  ボクそう呼ぶから、と郁也は一方的にそう決めた。 「何か、ずるーい」  橋本は唇を尖らせた。 「何がさ」 「だって、あたしばっかり名前呼びだなんて」 「じゃ、ボクのことも名前で呼んでいいよ」 「そうそう。このコのことは『いくちゃん』ね」 「このひとのことは『まほちゃん』でいいから。また一緒に遊ぼ」   郁也は真志穂と顔を見合わせてにっこり笑い、その笑顔を橋本に向けた。  きゃあきゃあと女のコ同士の会話が続く。 「前髪、もうちょっと伸ばしたらいいのに。斜めにこう持って来ると似合うよ」 「そうだね。子供っぽいイメージからは卒業出来そう」 「ああ、このひとはヘアメイク志望だから。松山君みたいなアマチュアじゃなく、本物のプロのね」 「ええ!? じゃあ、今度あたしの髪型決めて下さい。自分じゃよく分からなくて」 「それならカットモデルになってよ。タダで切って上げられるよ」 「ええ、嬉しー」  三人の会話は切れ間なく終わりがない。  彼女らの横で矢口は、 「いいねえ、女のコは華やかで。その場がパッと明るくなるよね」 と嬉し気だ。松山に「お前ってキザっちくて、ホント信じられんわ」とさっきのことをけなされても全く動じない。その横では田端も眩しそうに彼女らを見ていた。  三時間近くその店にいても、成る程ほかに客は入らなかった。矢口の言うように、抜本的な対策が講じられるべきなのだろう。  彼らは揃って外へ出た。まだ九時半。学生にとってはほんの宵の口だ。 「本当にご馳走になっていいの?」と橋本が心配そうに尋ねる。 「ああ、いいのいいの。その替わり、次もう一軒付き合って」  まだいいでしょ、と矢口が誘う。真志穂も珍しく彼らの群れに留まっている。  もっと早くから誘って置くんだったと郁也は思った。だが、専門学校での一年が真志穂の回復を促進したのかも知れない。  郁也は傍らの佑輔を見上げた。 「疲れた?」 「ああ、さすがにちょっとな」  郁也は「じゃ、ボクたち帰るから」と皆に声を掛けた。真志穂が「ええ、まだいいじゃない」と不満そうに言った。  郁也はだぶだぶのシャツの上に引っ掛けたコートのポケットに手を入れ、笑って頷いた。  矢口と松山が「おお」「またな」とふたりを見送る。  郁也は佑輔と歩き掛けて、また後ろを振り向いた。 「かおりちゃん、狼の群れの中に君を置いて行くけど、自分の身は自分で守るんだよ」 「ええっ!?」  橋本は反射的に傍らの真志穂の肩にしがみつく。 「あはは。そのひとが一番危ないかも知れない」  郁也は真志穂を指差した。橋本が慌ててしがみついたその手を離した。 「あーはっはっは」 「何だよ、失礼な」「酷いこと言うな」「安心して。俺たち充分紳士だよ」などと残ったもの共が口々に言う。  郁也は大笑いで祐輔と共にその場を離れた。  愉快な夜だった。
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