77人が本棚に入れています
本棚に追加
/52ページ
4、ローズマダーのクッション-2
夕暮れで読み辛くなった掲示板を、郁也は目を凝らして探していた。
四コマ目、橋本情報で「経済学入門」を取った連中と離れ、郁也は「英会話B」の部屋へ行って見た。
楽勝と聞いても郁也は経済には興味が向かず、逆に父に鍛えられた英語の方が、自分にはラクかと思えた。
講師は素からの英語話者で、中国系のアメリカ人とのことだった。面白そうな講義で、郁也は(正解だったな)と思った。
佑輔は、今日から早速運送会社のアルバイトに出掛けた。
決まった時間に来る送迎バスのために、その日は四コマ以降を空けて置かなければならない。
バイトのない日の佑輔の時間割はびっちり詰まっていた。
「夕ご飯どうするの」
昼飯をかき込む佑輔に、心配そうに郁也は訊いた。
三コマ目は「超楽勝」との触れ込みの「情報処理基礎理論」なので、それを取るために五人揃っての昼食だった。
田端や橋本の前で余りあからさまなことは言えない。郁也は言葉遣いに注意した。
「どうしたもんかなあ。正門前にバスが来るのが四時半とのことだから、それまでに何か軽く食って置くかな」
「今そんなにしっかり食べて、そんな時間に何か入るの」
「ああ、それは多分大丈夫」
郁也には信じられないが、佑輔は自信たっぷりだ。羨ましいというか何と言うか。
「何だ瀬川、バイトなのか」と松山が訊く。
「ああ。運送屋の荷物の仕分け」
佑輔は食べるのに忙しく、言葉少なにそれだけ言った。
「わあ、何だか大変そう」と橋本が高い声を出す。
「それって無茶無茶肉体労働じゃないか」
きつそうだなあ、と田端が言った。佑輔はそれには答えず箸を置き、黙って茶をすすった。
誰より多い量を一番に食べ終わる。この頃には橋本の目も慣れたようで、もう大したリアクションもない。
「お前、昨日農協か何かのバイトもしてなかったか」
「ああ。『玉ねぎ』な。昨日と一昨日」
松山は味噌汁椀に口を付けながらちろっと佑輔を見たが、それきり何も言わなかった。橋本が言った。
「瀬川くん、どうしてそんなに肉体労働ばっかり入れるの。きつそうなのばっかりじゃない。身体持つの」
佑輔は「分からん。先ずやって見ないとな」と悠然と答えた。郁也は佑輔の隣で、箸を動かす振りをして下を向いた。
郁也は何故佑輔がきついバイトばかりを選ぶか知っていた。
自分のため、だ。
郁也と暮らす生活のために、佑輔は金を稼ごうとしていた。
郁也の家は結構余裕のある方だ。
淳子はメーカーの研究所の所長として充分なサラリーを貰っているし、弘人はアメリカの大学で教授をしている他に、微々たるものだが原稿収入などもある。
ふたりとも金の掛かる趣味もなく、日本とアメリカを行ったり来たりする旅費くらいがせいぜいだ。
ひとり暮らしをするに当たって、郁也は淳子名義のクレジットカードの、家族用のを一枚与えられた。
(明細は送られて来るんだから、訳の分からない遣い方しちゃ駄目よ)
淳子はそれしか言わなかった。そしてふたりの部屋の家賃は淳子持ち。
谷口家の財力に匹敵するだけの金を、佑輔は必死に稼ぎ出そうとしている。
匹敵はしないまでも、せめて生活費を折半出来るだけの金額を。
佑輔の心は嬉しかった。
だが郁也は佑輔に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。
自分の家がそう裕福でなければ、佑輔は引け目を感じることもない。だがそれではふたりの暮らし自体が危うくなる。
せめてボクも出来る範囲で金を稼いで、親の財力に頼る割合を少しでも減らそう。
バイト、しなくちゃ。
郁也は学務係の建物の前に貼り出されたバイトの斡旋情報を、目を皿のようにして探した。
時給の高いのは肉体労働、それから教育産業。
家庭教師は個人で探しているものと、組織のものとある。予備校の講師の募集もあった。
夜中の仕事も時給は高いだろうが、大学は十時以降のバイトの斡旋はしないとある。
「なになに。医学部と理学部限定? へえ。そんな制限を掛けるんだ」
郁也はひとり言を呟いた。
医学部生は忙しいだろうから、専門に上がったらバイトどころではないだろう。理学部は売り手市場だ。農学部に入った佑輔が肉体労働ばかりを選んだのは、ひとつにはこうした厳しい現実のせいだった。
郁也は紹介の申し込みのため、案件の番号を控えていた。
「やあ、バイト探してるの」
周囲にひとはおらず、明らかにそれは郁也に向けられたものだった。聞き覚えのない声。郁也は声のした方を振り返った。
「君、さっきの『英会話B』出てたよね」
「あ……」
見たことのある顔立ち。多分理学部の一年生で、郁也とは幾つか同じ講義を取っている。講義室で何度も見掛けた顔だ。
「君、理学部でしょう。多分S2?」
「ええ、そうですけど」
「俺S1。S1の烏飼広海。よく講義で見掛ける顔だなと思って」
「そうですね」
郁也は自分の名前を名乗った。
烏飼と名乗ったその男は、細身の骨格に筋肉をしっかり付けたような身体付きで、それを強調するぴったりした黒いジーンズに、やはり黒っぽいライダージャケットを羽織っていた。
顔立ちそのものが整っているというよりも、雰囲気がカッコいい、矢口のようなタイプだった。
「君、可愛いね」
「え」
「金になるバイト探してるんなら、いつでも言ってよ。美味しいの紹介して上げる。俺ちょっとツテがあるんだ」
驚いて郁也は口を利けなかった。黙ったままの郁也を尻目に、烏飼は「じゃ、また講義室で」と颯爽と歩き去った。
何だったんだろう、今の。
郁也は首を捻った。
こうしている間にも時間が過ぎる。郁也は番号を控えた紙切れを手に、急いで学務係の扉を開いた。
最初のコメントを投稿しよう!