4、ローズマダーのクッション-3

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4、ローズマダーのクッション-3

 玄関の扉が開いた。  郁也は急いで駆け寄った。 「お帰り」  佑輔は座り込んで靴の紐を解いていた。 「ただいま。まだ起きてたのか」 「小学生じゃないんだから」  郁也は笑って佑輔の脱いだコートを受け取った。まだ十一時前だ。 「お腹空いてる? 食べるものは一応あるけど」 「ああ、食べる」  夕飯はふたり分作って見た。佑輔が食べなかったら明日に回そうと思って、時間が経っても食べられる煮物と魚と青菜のお浸し。  七時過ぎ頃食卓に付いたが、ひとりだとどうも箸が進まず、郁也はほんのちょっとしか食べなかった。 「ボクもちょっと摘んで見ようかな」  郁也は佑輔の隣に自分用の取り皿を出した。  佑輔は郁也の作ったものを、本当に美味しそうに食べる。学食で義務のように黙々と平らげるのとは違って、ハイペースながら一品一品嬉しそうに食べてくれる。郁也もそんな佑輔を見るのが嬉しい。 「今日のはどんな仕事だったの」 「ああ、そのまんまだよ。集められて来た荷物をベルトに載せて、自動で行き先毎に分けられた荷物をまとめて数量をチェックして、長距離輸送のトラックに積んで」  佑輔は口を大きくもぐもぐ動かしながら、きらきら目を輝かせて聞く郁也に説明する。佑輔の襟許からは汗の匂いがした。 「そのうち慣れて来たら、事務的なチェックの方に回されるかも知れない。でもまあ、しばらくは力仕事だな」  そうなんだ、大変だね。郁也はそう言って取り分けた煮物を口に運んだ。箸で摘み上げにくいそれを、郁也は身を屈めて頬張った。  ゆったりしたパジャマの胸許から、郁也の薄桃色の肌が覗く。佑輔は箸を置いた。 「あ、お茶淹れようか」  郁也は立ち上がろうとした。 「郁」  佑輔はその手を取り引き寄せた。郁也の身体はころんと佑輔の胸に倒れ込んだ。 「佑輔クン」  佑輔は何も言わずに郁也の唇を吸った。郁也の腕が佑輔の胴を回って背中を掴む。その咽は呼び起こされる感覚の甘さに切なく唸った。  唇を、舌をこうして互いに弄んでいると、眠っている欲望が次々呼び覚まされて身体の中一杯に膨れ上がる。息をするのも苦しい程だ。 「あぁ……佑輔ク、ン……」  郁也の唇を離れた佑輔のそれは、郁也の頬を、頸を伝い、釦を外したパジャマを開いて下へ降りて行く。勝手知ったる秘密の庭。佑輔はその右と左のどちらの反応がより鋭いかまでを、今やすっかり知り抜いていた。 「あ!」  痙攣する郁也の身体から無理矢理引き剥がすように唇を離して、佑輔は「シャワー浴びてくる」と風呂場へ消えた。  郁也はしばらくその場から動けなかったが、やがて目を閉じ深呼吸してようやく立ち上がり、食べた後を大急ぎで片付けた。  郁也の父からメールが来た。これからアメリカへ戻るとあった。  郁也の顔をまた見て行きたいのはやまやまだが、平日で郁也は大学だろうから、このまま真っ直ぐ飛行場へ行くとのことだった。  郁也はちょっとがっかりした。郁也は父が好きだった。 「随分長逗留だったなあ。十日以上だ」  郁也が指折り数えると、佑輔が「俺と郁の仲睦まじいのを見て、お母さんのところを離れ難くなったんじゃないの」と涼しい顔で言った。  郁也は家庭教師先を一軒決めた。決めた理由は場所だった。    部屋から地下鉄一本で行ける家の高校生の男のコで、理数系と英語を強化して欲しいとの要望だった。  お任せあれ!   曜日は月・木にした。佑輔は運送会社のバイトが入っていたからだ。  早速始めたいくらいだったが、先方の都合で再来週からということになった。部活の何やらがどうとか言っていた。  佑輔は相手が男子高校生だと聞いて、露骨に嫌な顔をした。 「えー、十七歳の野郎かよ。何かあったらどうするんだよ」 「『何か』って何?」 「いやあ」  佑輔は一度は口籠もったが、郁也が不思議そうな顔を止めないのを見て、ここは言わなければと思ったようだ。 「郁、まだ自覚ないのか。郁はそこらの女のコよりずっとキレイなんだよ。郁にその積りが全然なくたって、毎週毎週近接してたら、そのコだっておかしくなっちゃうかも知れないだろ。受験生なのに」 「そんな風に思うの、佑輔クンだけだと思うけど」  郁也は小さな声で言った。嬉しいけど、常識を外れてるよ、佑輔クン。 (ボク、もうそんなにキレイじゃないよ)  郁也には分かっていた。十六の頃の、あの妖しいなまめかしさのようなもの、それは今の自分にはもうなくなっている。  男性にも女性にも同定されない不安定さ。悪魔が造り出した偶然の生きもの、そんな禍々しさがかつての自分にはあった。  手紙も貰ったし、道を歩いていて暗がりに連れ込まれそうになったこともあった。上級生には肖像画を描いてプレゼントされたし、女学生には日常的に隠し撮りされた。  もう過去のことだ。  今は辛うじて女のコの格好をして街を歩いても、誰からも変な顔をされない程度に過ぎない。  郁也はあの美しさと引き替えに、佑輔の心を貰ったのだ。  だが佑輔の目には、多分一生あのときの郁也の姿が、眼前の郁也に二重写しになって見えるのだろう。  佑輔の視界では、永遠に十六の美しさを持った郁也が、きらきら光る金の粉を散らしながら彼に微笑み掛け続けるのだ。  佑輔クンの心は、もう一生、ボクのものだ。  たとえ離れ離れになることがあったとしても。  佑輔クンは死ぬまできっとボクのことを忘れられない。  ……もう、何を失っても惜しくない。
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